「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
黙って1万枚撮れ・・・・・・経験値が無力化する時代


ホンマかいな、そぉかいな(笑)。

https://ameblo.jp/mamapapa2199/より

 ・・・・・・なぁ〜んて気障なセリフを一度は吐いてみたいモンだなぁ〜、と思いつつ、半可通でアオいコトを既にベラベラと並べ立ててしまってるナサケないおれである(笑)。

 ハハ、悪いクセでいきなりボケと自虐から始めてしもたやんけ。

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 今回の話のそもそものキッカケは、っちゅうと、実は外付HDDがついに一杯いっぱいになってしまって、先日から過去の画像類を新しい環境に移植したり、バックアップしたりしてることに始まる。これがもう聞くも涙、語るも涙の難行苦行なのだ。

 従来は4台の外付HDDを並べてたのは以前も書いた通りだ。前のPC買った時にサービスでもらった500MBに1TBを買い足し、さらにもう1TB買い足し、それでも足りなくなって2TBを買い足したりして、合わせると4.5TBあった。それ以外に随時DVDで媒体にもバックアップ掛けてた。APS-Cで1400〜600万画素時代はまだまだそんな環境で大丈夫だと思ってたし、実際それで不自由なくやりくりはできてたのだ。
 ところが3600万画素にしてから状況は一変した。とにかくファイルサイズがアホみたいにデカい。どうだろ?1回旅行に出掛けるとJPEGでもすぐに20GBとかになってしまう。RAWは大体その2.5倍くらいになる。DVDへのバックアップも止めた。4.5GBの容量ではとても追い付かないのである。1回の旅行分を何枚ものDVDに小分けにするなんてめんどくさくてとてもやってられない。JPEGならまだそんなモンだが、RAWに至ってはもうバックアップ自体を止そうかと思うくらいにHDDを消費して行く。そしてついに2TBのHDDがRAWで一杯になった。もう1台買い足すか!?

 しかし、いつかやってくるWindows10には鬱陶しい問題があって、いつものパターンでプロトコルか何か知らんが一方的かつ勝手に変えやがったせいで、従来の外付HDDが読めなくなるっちゅうトラブルが頻発してるらしい。ホント売ることばかりで顧客不在の呪わしい存在だ、マイクロソフトは。

 だからただもう単純にHDD買い足してくんは止そう、って思った。大体、JPEGの分を1TBのHDD2台に正副でいちいちバックアップするんだって大変だし、苦労した挙句にOSのせいで読めないぢゃぁあまりにバカバカしい。
 そんなんで最近流行のNASを大枚叩いて買ったのだった。ネットワークいっちょアガリである。ここは会社か!?(笑)。仕様は3TB×2で自動的にミラリングしてくれるっちゅうスグレ物である。ディスクが片っぽトンでも交換して修復可能っちゅうのが頼もしい。これなら後100回くらい旅行に行っても大丈夫だろう。それで喜び勇んで取り敢えず800GBほどあるJPEG分をこちらに移植することにしたら、何たることか!25時間くらい掛かった(笑)。NASは色々メリット多いのだけど転送速度は滅法遅いのである。
 それでもどうにかそうしてまずは1TB機を1台空にして、暫定的にその空きスペースにに溢れた分のRAWは保持することにしたんだけど、そのうちもう1台も空けねばならなくなる。それだとJPEGバックアップがNAS1台になってしまう。いくらミラリングとは申せちょっと心許ないってんでさらにブルーレイレコーダーまで導入。過去のDVDバックアップ済が150GBほどあるんで、残りは650GBだ。これを今はネチネチやってる。これまた正副2枚焼いてるんで70枚近くディスクが必要だ。25GBったって、オーバーヘッドの影響で実際は23GBちょっとしか入らない。その内、RAWは容量100GBのBD-XLにでも入れるとしよう。一度現像すればそんなに使わんのだし。

 何の話だったっけ!?・・・・・・あ〜そうそう、黙って1万枚だった。おお!そぉぢゃった!そぉぢゃった!

 そんな果てしない作業を続けながら、一体全体今バックアップされてる写真ってそもそも何枚あるんだったっけ〜?って思って勘定してみたら約9万枚あったのである。未だ宙に浮いたままのAPSも入れるともっとあるだろう。9万・・・・・・決して少なかないだろけど、プロとかすんげぇマニアな人からすれば今では鼻で嗤われるような枚数なのかも知れない。

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 かつて写真を撮るなんちゅうのは大変にお金の掛かるコトで、もちろんカメラ本体やレンズ類もそれなりにするけど、フィルム代や現像代、焼付代なんかがすごく掛かったものだ。だからそんなに好き放題撮れなかった。カメラが家買えるくらいの値段がした戦前の話ではない。平成の初め頃までそんなんだったのだ。

 35mmフィルムは売られてる最小単位が12枚で後はその倍数で24枚、36枚となっていた。パトローネ(フィルムの収まってるケース)のサイズの限界があるから最大が36枚だった。その理由はあまりキッチキチにフィルム巻いて詰め込むと巻揚げの際にフィルム同士がこすれて画面に横傷が入るからだ、なんて言われてたけどホントのところは良く知らない。ともあれそれくらいフィルムの表面って繊細だったらしい。そりゃそうだわな。感光材を乳化させて塗布してあるだけなんだもんな。
 その後いろいろ工夫されて27枚とか40枚とかも出たものの要するにそれはオマケで、基本が12の倍数にあったのは変わらない。細かい値段は忘れたが、90年代初めでフジのASA100の36枚撮り5本セットが1500円くらいだったような記憶がある。コダックはもちょっと安かったっけ。ASAとは今で言うISOみたいなモンである。高感度の400になるとと2割くらい高く、800だとさらに2割くらい高かったけかな?・・・・・・そう、今のデジタル世代の方には想像も付かないだろうが、撮影の途中で感度を自在に切り替えるなんて芸当、当時は出来なかったのだ。

 でもって、自宅に暗室備えてる人なんて滅多にいなかったから現像や焼付してもらうにはDPE屋に持ってって、イエローカメラ等の安いトコで1枚19円、フジの純正で25円とかだったから、何だかんだで写真1枚拵えるのに30円前後掛かってたことになる。それでも当時は「昔に比べて安くなったなぁ〜」って思ってたから、それ以前は忘れたけどもっと高かったのだ・・・・・・ああ、思えば「DPE」なんてのもスッカリ死語の世界だ。「D」は「Develop(現像)」、「P」は「Print(焼付)」、「E」は「Enlarge(引き伸ばし)」で、これらをやってくれるから「DPE」なんて呼ばれてたのである。それとイエローカメラってどこに消えたんだろ?会社の先輩でここのFCになって開業するんだ!っちゅうて辞めたのがいたけど、今頃どないしてはるんだか・・・・・・。
 それはともかくつまり、今のチョーシでバカスカ撮ってたらいくらお金があっても足りないし、大体フィルムが何本も必要でそれだけで大変な荷物になってた。

 そんなんだからみんな出掛けても結構惜しそうに1枚1まいを大切に撮ってた。おれにしたってデジタル移行前、銀塩時代のギャラリーが今より遥かにボリューム的に少ないのはそんなワケがあるのだ。1日36枚撮りで2本も撮れば御の字だった。いや、デジタル移行後も媒体の値段が高くて、そんなに大量には撮れなかった。それがあれよあれよっちゅう間に高密度技術は進化し、今や32GBのSDが千ナンボで買える御時勢だ。もぉジャカジャカいくらでも撮りまくれる。

 だから写真を撮るって行為は、今は随分雑で乱暴になったと思う。

 何を言いたいかっちゅうと、大量撮影のハードルはムチャクチャに低くなったってコトだ。銀塩の頃なら1万枚も撮った経験があればもうそれだけで尊敬と羨望の眼差しで見られもしただろうが、デジタル化が進んだ現代は最早、1万枚やそこらで威張れる時代ぢゃないのだ。大体、スマホの連写が60枚とか出来る御時勢なのだから。

 だったら「黙って10万枚撮れ」、になるんだろうか?
 いや、もっと時代が進めば100万枚になるんだろうか?1000万枚になるんだろうか?

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 そこからが分からなくなってしまった。だって経験の量的閾値がどんどん上がって行けば、凡そ人間ワザでは対応し切れなくなるに決まってるではないか。おれにしたって今の9万枚でも1枚いち枚ジックリ見て吟味なんざ到底してられんモンな。サイトの画像の選択にしたってプレビューでサムネイルをバババーッてみて、勢いで選んでひどくブレてたら差し替えるくらいだし。
 かといって申し訳程度に5枚や10枚ポチポチ撮っただけではお話にならないのも一方で厳然たる事実だろうと思う。ぢゃ、どれくらいがエエねん!?と・・・・・・そこが分からない、っちゅうか、大袈裟に言えばおれ的にはレーゾンデートルをいきなり失くしたような気持になって立ちすくんでしまったのである。

 何事についても理論よりも実践、座学より経験が大事なコトだと思ってこれまでズーッとやって来た。写真もそうだ。いや、写真だけではなくギターだってそうだ。単車も自転車もアウトドアも、それどころか思えば受験生の頃の勉強もそうだった。実際、遮二無二場数を踏むことで大いに上達した部分も沢山あるから、そうそう否定されるべきでもなかろうとは思う。しかし、少なくともデジタルの世界に於いては少々その考えを改めなくてはならない時が到来してるのも一方で厳然たる事実であろう。
 極めて逆説的ではあるが、「量」に対する自由度が飛躍的に増した分、「量」がかつてもたらしてくれた有象無象の効果や価値はドンドン喪われて来てるのではないか?と言わざるを得ないのだ。

 なるほど一方には「質」なんてのもある。仕事柄、人の査定なんてさせらるコトがあるのだけど、そのシートっちゅうかマニュアルには期間内にその人の行った仕事の「質」と「量」っちゅうのが出て来る。概ね2つの要素の掛け算のようにして評価は求められるんだろうとは思うが、多分にどちらも感覚的で掛け算のしようがなくていつも悩んでしまう。仕事の成果なんて群を抜いての優劣はパッと分かるけど、その途中にいる大勢についてはどこまで行っても厳密に定量化なんてできない。
 それにこれまでの考え方の底流には畢竟、「量」が「質」を作る、「量」をこなした後に自ずと「質」は付いて来る、ってのも間違いなくあったと言えるだろう。

 これは何も写真だけに限った話ではない。音楽だってそうだろうし、文芸だってそうだろう。およそ官能に関わるものは全て同じ状況なのではあるまいか。味の世界だってそうだ。板前の「ウロウロ三年」とか鰻職人の「串打ち三年裂き八年焼き一生」なんてまさにそうではないか。
 そぉいや最近、ホリエモンの寿司職人の話、っちゅうのが話題になった。何年も何年も修行してバッカぢゃねぇの!?と。寿司のイロハは寿司職人養成学校に行って合理的・論理的・体系的に学べば3ヶ月でマスターできまっせ!と。そしたら現に学校出たばかりの人の店がミシュランで星を取ったとかナントカ・・・・・・でもってその人が包丁の置き方ひとつ知らない人だった、寿司握る手で髪の毛ヘーキで触る人だった、ってオチだかケチまで付いたんぢゃなかったっけかな?

 まぁ寿司はデジタルではないけれど、とにかく経験の多さや長さがいろんな分野で無力化してきている。場数さえ踏めば経験値がそれだけで上がると思ってもらえる時代でなくなって来てるのはどうやら間違いないようである。つまり、あらゆる経験にも厳しく「質」が問われる。いや、それどころかさらにその向こう、経験値ちゅうモノ自体が成り立ちにくくなって来てるのだ。
 でも、仕事ならともかく、趣味とか表現行為の世界での経験にまで厳格に「質」が問われる時代はちょっとめんどくさいし、経験値が用を為さなくなるのには一抹の寂しさが漂うような気がするな。アナクロ人間のおれとしては。

2017.07.17

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