「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
大御所のハッタリ・・・・・・篠山紀信「快楽の館」展を観て


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 原美術館で開催されてる篠山紀信「快楽の館」っちゅう写真展をちょっと前に観に行ってきた。

 原美術館とは品川駅から五反田方向に歩いてったところにある小さな私設美術館で、周囲は金持ちそうな家ばっかりの閑静な住宅街にある。元は昭和の初めごろお金持ちの邸宅として建てられたのを、昭和50年代に美術館に改装したんだそうな。
 余談になるが、現オーナーの曽祖父である原六郎は若き日は尊王攘夷派の志士にして、後年は明治を代表する実業家の一人となった。また、但馬の生んだ立志伝中の人として有名だったりする。筋金入りのお金持ちですわ。

 この展覧会の少々ユニークな所は、作品が全てこの敷地や建物内で撮られてるってコトだろう。そして多くの作品パネルは実際に撮影された場所に展示されている。ネット上の色んなインプレで「これは写真展と言うよりはインスタレーションだ」というのを見掛けたが、おれも全く同感だ。空間全体で作品を成立させてるのである。その試みは悪くないと思う。
 ・・・・・・で、内容的には何なのか?っちゅうと、この原美術館を「快楽の館」に見立てて、壇蜜や紗倉まな、佐々木心音、三上悠亜はじめ実に30名以上(!)のモデルを使って思う存分ヌードを撮り倒した、ってなモノだ。もぉゲップが出るほどモデルをテンコ盛りにしたワケやね。
 美術館を舞台にしたヌードと言えば、以前紹介したユルゲン・テラーによるルーブル美術館を舞台にバリバリ現役トップモデルのラケル・ジマーマンと老境に差し掛かったシャーロット・ランプリングの二人を撮ったのが有名だが、今回のこっちの方はそのようなコンセプチュアルな部分はあまり感じられず、写真そのものはかなりストレートだ。

 「ここ(原美術館)で撮った写真をここに帰す」とかなんとか大上段な能書きは垂れてるけど、要するに何年か前に原紗央莉(今はまた芸名変えてなかったっけ?)使って「20XX Tokyo」の撮影したことが公然猥褻の咎に問われて書類送検されたのがよほど悔しく、ハラに据えかねてたのかな?って下世話なコトを考えてしまった。
 ココならプライベート空間でしょ!?ホレホレ、逮捕するなら逮捕して見んかい!ヤレるもんならヤッてみぃや!みたいな(笑)。官憲にその思いは響いたのかな?

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 さて、あらゆる表現行為の優劣や良し悪しを論じる気はおれにはない。あるのは好きか/嫌いか、面白いか/面白くないかだけだと思ってる。そんな視点でこの展覧会はどぉ感じたのか?っちゅうと、ぶっちゃけおれにはも一つ面白いモノには思えなかったのだった・・・・・・いつも結論から言っちゃってスンマヘン。

 まずは「快楽」のイメージがあまりに浅薄かつ俗っぽく過ぎやせんか?ってコトだ。そもそも論で西洋モダニズム建築のレトロな邸宅(要はお屋敷)に裸女を配置なんてあまりにありきたりだろう。そこにまぁミステリアスな雰囲気の壇蜜はまだ分かる。しかしモデルが壇蜜だ、って一目で分かるのはこうしたコンセプトにはあまりにそぐわない。何故なら抽象化された「快楽」ではなくただの「壇蜜のヌード」になってしまうからだ。さらには紗倉まな使ったのは何なんだ?そら綺麗し可愛いよ。でも子供にしか見えないロリ顔のオネーチャンを起用するなんてもう、一体全体どんな人選をしたのか問い詰めてみたい気になったぞ・・・・・・ってーか多くの人が知ってる有名モデルを使った時点で実はもう、この試みは半ばアウトなんちゃうかな?とも思う。

 思わずパネルの前で噴き出してしまったのは、フロックコートのいでたちで鹿爪らしい顔したオッサンが出て来る何枚かの作品だ。何たる紋切り型!何たるステレオタイプ!あれですか?O嬢のロワッシーでっか?マン・レイの「メレットとルイ・マルクーシ」の劣化コピーでっか?って思わずツッコミ入れたくなったな。このあまりにこれまで再生産され手垢付きまくりでベタ過ぎる「快楽」のイメージの破壊力で後がマジメに観れなくなっちゃった気がする。神妙な顔して観覧する人ばっかしな中で、失笑を漏らすおれは随分ヘンな存在だったろうが・・・・・・。

 実は恐らくキュレーターもそんな想いを抱いていたのではないかって気がしてる。入場料と引き換えにもらう半ペラのガイドにはこう書かれてる。ちょっと引用してみよう。

 ------この場所は、写真家篠山紀信にとって、《撮る欲望》をかきたて《撮る快楽》に浸れる場であったということです。

 この一文は、あまりにベタ過ぎる快楽のイメージをちょっとでもフォローアップせんならん一方で、言うべき批評はしとかんとアカンやろ!?とかなり苦労して捻り出した文章だとおれは思う。

 そうなのだ。この展覧会は一見快楽の諸相を写したように見せかけつつ、詰まるところ篠山紀信の「撮る快楽」の記録なのだ。とにかく思う存分ハダカ撮りてぇよなぁ〜!でもこの前、それでちょっとパクられそうになったしなぁ〜・・・・・・ってなトコに千載一遇のチャンスで美術館からオファーでもあったんだろう。「快楽の館」云々のいろんな能書きは後付けのハッタリだと思う。あまりにイージーで無節操なモデルの選び方にしたってそう考えると納得が行く。もちろん後付けの理由でも何でも牽強付会に纏め上げる手腕は素晴らしいんだけど、素直にタイトルのままに読み取らせようとするのはいささかムリがある。
 1940年生まれだから御大ももう今年で76歳である。かつては「脱がせ魔」の異名をほしいままにした彼の、衰えを知らないパワーには心底敬服せざるを得ない。その飽くなき欲望の記録と考えれば、あちこちに配置された作品に感じたいろんな「?」がスーッと氷解するように思った。とにかく彼はハダカが撮りたかった。それも江戸の仇を長崎を討つのではなく、同じ江戸でやりたかったのだ。冥途の土産にとでも思ったのかな?(笑)・・・・・・おそらくそれがこの「快楽の館」の真相ではないかと思う。

 もちろん、テクニックの点ではものすごく勉強になる。往年のシノラマ(要するにパノラマ写真)で良くこんな狭い所に10人も詰め込めたな〜、って撮り方してるのとか、裏庭の苔の生えたところで壇蜜が立ってる写真の人工的なまでに鮮やかな緑と美しい肌の発色の対比、横に十何人並んだ壁一面を覆う大作の、暗い背景に浮かび上がる白い肌の絶妙なライティング、何気ない場所を鮮やかに切り取る能力・・・・・・流石、60年代から第一線で活躍してきた人だけに本当に巧い。

 それだけでも観に行く価値は十分にあると思うし、それにハッタリの能書きに呑まれることなく上に述べたような醒めた目線で見た方が篠山紀信という写真家の化物じみた写真欲を看取することができるように思う。写狂人は荒木経惟だけの専売特許ではなかったのである。

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 いろんな考え方があるだろうから、こうでなくちゃいかん!って主張する気はない。でもしかし、おれにとって写真とは世界を切り取る行為を通して自分なりの世界を再構成することであって、何らかの道具仕立てとか演出、見立てによって世界を構成しようとする姿勢はどうにも馴染めない。
 俗に写真好きは紀信派とアラーキー派に分かれると言われるが、こうして考えるとやっぱしおれはアラーキー派なのかな?って思えて来る。

 いつも展覧会に出掛けると、おれは必ず図録を買って帰ることにしてる。しかし、たいへん申し訳ないが今回はどうしても食指が動かずパスしてしまった。
 だって「ここ(原美術館)で撮った写真をここに帰す」ってコンセプトなんでしょ?とツッコミ入れたくもなったし、建物全体を駆使したインスタレーションを小さな図録に押し込んでどぉすんねん?って疑問も浮かんだし、大体一般の書店流通で販売されるって、そりゃただの写真集でしょ?とも思ったからだ。まぁ、そのうちアマゾンで古本が出たら買うかも知れないな。


こんな感じです。

2016.12.09

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