「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
1枚に賭ける!?


ホドラーの代表作の一つ「昼」

シュタイナーが提唱したオイリュトミー

戦前の多分ドイツでのヌーディズム運動

 大量に撮影した似たような画像の中から、微妙な構図・露出・ピントの深さ・被写体の表情等々の様々な要素を吟味に吟味して選び抜き、今のデジタル時代ならばさらに現像ソフトなんかを駆使して、トリミングやホワイトバランス、発色等をパラメータをグリグリして弄って、一枚を完成させて行くのが正しい写真の所作だと思ってきた。

 「写真は選び取る作業である」とさえ言われる。なるほど写真家がタレントやモデルの写真集を拵える時なんて信じられないくらい大量に撮影する。昔はそれをコンタクトプリントにしてルーペか何かで覗いて丹念に選んでく、なーんてこともやっていたようだ。

 バンドやってた時はイッパツ録りばかりだったんだけど、それはとにかく金もヒマも無かったから仕方ないのと、何回録ろうが大差ないようなヤクザな曲ばっかだからであって、もし余裕があるなら気の済むまでテイクを重ねて行くなんてことにどこかちょっと憧れてもいたのだった。だから何年か前、一人でDTMで遊んでた時期は何回も何回もギタートラックやベーストラックは入れ直してた・・・・・・なもんでナカナカ一曲が仕上がらなかったのだけどね(笑)。

 「手々噛むイワシも百回洗えばタイの味」の伝で、もちろんそういったプロセスを経ることは決して間違ったことではないんだろうとは思う。小説だって絵画だって音楽だって微妙な差異に拘りまくった挙句の最終確定ヴァージョンが存在するワケで、それが出来て初めて上梓されるのだから、凡そあらゆる表現行為には不可欠の作業なのだろう。

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 しかし、色んな表現行為の中でもとりわけ写真について考えると、冒頭に挙げたような一連の作業を通じていろんな要素が一つの画面の中に破綻なく上品かつバランス良くまとまってく一方で、どうにもこうにも活力が無くなってく気がするのも事実だ。あーでもないこーでもないと弄り倒すことで、本来持ってた筈のダイナミズムや生々しさ、骨太さ、衝動といったものが失せてくのである。つまり、感動から遠ざかってく。この点で写真は俳句や短歌、あるいは料理に似てるかもしれない。音楽もけっこう近い位置にいる気がする。だから一発録りなライブアルバムは良いんだろう。

 そして遅かれ早かれ旦那芸に堕して行く。確かに良く出来てはいるんだけど類型的で紋切り型で既視感タップリの、見終わっても「あ〜綺麗ですねぇ〜」ってなお追従以外、なんの感慨さえも残らないモノになる。

 そんなんでホルガやロモ等のトイカメラで撮られた所謂「ユル〜い写真」や、ホントにあるのかないのかは知らないけど(笑)「感性」とやらだけで撮られた若干露出オーバー気味の女子撮り写真なるものが、技法的にはツッコミ所満載でアラだらけであるにも拘らず持て囃されたりするのである。
 また同時に、素人投稿とかの粒子荒れまくりで白トビ黒トビお構いなし、ホワイトバランス!?それなんですかぁ?ってな、ピントさえも定かでないただもうひたすらに猥褻なだけの写真に、どれだけプロが束になってもかなわないような圧倒的な生々しさがあったりもするのだろう。ハハハ、森山大道や中平卓馬の切り拓いた「アレブレボケ」の世界は図らずもシッカリ生き残ってるワケやね(笑)。

 話がいささか逸れてしまったが、選び抜いた結果、選から漏れた大量の画像が残る。所謂「アウトテイク」っちゅうヤツである。一枚の作品のための無数のアウトテイク・・・・・・それは当然のことだと思ってた。

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 ところが最近、2つの体験を通じてこの「選び抜くこと」に対する懐疑が深まって来たのである。

 一つは、昔から大好きだった世紀末のスイスの画家であるフェルディナンド・ホドラーの展覧会に行って、改めてパラレリズムと呼ばれる独特の緩やかな変容を一枚の絵に封じ込めた作風に初めて触れたことである。そして添えられた解説を読んで、そこにはルドルフ・シュタイナーの提唱した「オイリュトミー」がバックグラウンドとして存在することを初めて知ったのだった。ちなみに昔、ユーリズミックスっちゅう男女二人組のエレクトロポップデュオがおったが、ユーリズミックスがオイリュトミーの英語読みであることもこの歳にして初めて知った。
 ・・・・・・ってそれはともかく、ミニマルミュージックに対する趣味とも共通するのだけど、改めておれはパターンの反復性やら重層性といったものに深く魅せられてるんだなぁ〜、と思い至ったのである。

 ホドラーの画風にオイリュトミーが深く影響してることを知ると同時に、さらにおれは気付いたのだった。「集団舞踏体操」とでも呼びうるオイリュトミーの、自然なようでいながら極めて人工的でいささか奇妙ともいえる数々のポーズは、明らかに戦前のドイツあたりに端を発するムリテコに健全性を強調するようなヌーディズムのポーズに繋がってるのである。
 

 またもや話が脱線した。ホンッと、漫談調だなおれの駄文は・・・・・・ってそれはともかく、いずれにせよ反復性や重層性は当然ながら連続する時間の中に立ち現れるものであって、ホドラーはまぁ画家だから多重露光のように仕方なく一枚の絵に収めたとはいえ、本当はシークエンスのように何枚も何枚も続けたかったのではないか?と思えたのだった。根拠はない。ただ何となくおれがそう思っただけのことである。

 もう一つはとあるブログを発見したことだ。

 迷惑をお掛けすることになってもいけないのでサイト名の紹介は控えさせていただくが、まぁ要はエログである。内容としては屋外で撮影した奥さんのハダカをひたすら毎日アップし続けている・・・・・・それだけっちゃそれだけなんだけど、恐るべきことにそれが本当に毎日なのである。毎日だよ、毎日。おれにゃ真似のできない芸当だ。

 写真は?っちゅうと失礼ながら芸術性を云々するようなものでは全然ない。機材的にもポーンとコンデジかなんかで撮っただけっちゃ撮っただけ。リサイズに伴う解像の緩みをシャープネスで補正することも、色調や明度・彩度を弄ることもなく、最低限顔と局部にボカシシ加えてシグネチャーを隅っこに入れただけの写真が延々と続く。個々の写真は構図的にもロケーション的にも、申し訳ないけどどれもあまり変わり映えしない。どうやらラビアに2対のピアスを入れられてるようだが、殊更それを強調することもなく、風景の中であっち行ったりこっち行ったりしてる姿を写真に収めては更新に勤しんでおられる。

 しかし、そのあまり変化のない一日数葉の画像の更新が、殆ど途切れることなく来る日も来る日も行われていることには異様なまでの迫力がある。感動する、と言っても良い。まぁおそらくご本人たちにとっては撮影とは単なるプレイの一環であって、そんなことをこれっぽっちも意識されてはおらないんだろうけど、図らずもこのブログは------あくまで結果的にとはいえ------従来の写真作品のあり方に対してラジカルにノンを突き付けているのだった。

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 思い立ったら練り込みとか深化といったモンをスッ飛ばして、まず試しにやってみないと気が済まないのがおれのアタマの悪いトコだ。

 この矢も楯もたまらずな性分のせいで随分損ばかりしてきたことは良く分かってるのに、やはり早速やってみた。御存じの方なら分かるだろうけど拙サイトのギャラリーのカテゴリーの一つである"Works"で、おれはアウトテイクを減らして、同じような構図が延々と続くような構成に変えてみたのだった。具体的には巨石シリーズの#11〜13、#16〜、ベルベデールシリーズの#4〜なんかがそうだ。実はそれでも1/3くらいに選んで絞り込んでるんだけど、従来よりも一枚一枚のシーケンスを強調し、反復性と重層性を高めてみたのである。ホントは一つのフラッシュのシーケンスにもっと枚数を詰め込めばイメージに近くなるんだろうが、あまりたくさん画像を並べるとPCによってはマトモに動かなくなることもあるらしく、分割せざるを得なかったのがちょと残念だ。

 で、結果はどうなったか?

 う〜ん・・・・・・ちょっと冗長だったかも知れないなぁ〜・・・・・・って、良かれ悪しかれ評価は自分のすべきことではない。自作を語っちゃダメですよね。どうか諸兄の忌憚のないご意見を頂ければ?と思う。

2015.02.07

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