「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
蜻蛉の眼・・・・・・光学レンズに未来はあるか?


人間は昆虫の能力を未だよく知らない。

http://blog.nwf.org/より
 ひじょうに興味深い実験がある。

 被験者にモノが倒立して見える眼鏡をずっと掛けさせていると、何日かしたトコから急に風景の一部が正立して見えるようになるという。これはかなり異様な体験らしい。そいでもってそのままさらにずーっと掛けさせてると正立して見える物がだんだん増えてって、そのうちすべてのものが正立して------つまり、通常の眼の働きと同じように------見えるようになるんだそうな。つまり脳やら視神経が順応しちゃうのである。

 この実験、後がかなり大変で、眼鏡を外すと再びモノが倒立して見えてしまう。最初のプロセスよりは幾分早いらしいが、同じように一部がまた正立して見え始め、そのうちすべてが元通りになるんだそうな。一粒で二度美味しい、とでも言うべきか(笑)。

 実際、眼そのものは光学的には屈折率を自在に変えるっちゅう水晶体のメカニズム以外は比較的単純な仕組みであり、網膜に映る像は倒立している。しかしそれでは普段の暮らしがすごくやりづらいんで、脳が180度の補正を掛けているのだ。マコトに凄い能力と言わざるを得ない。

 私淑して止まない中島らもはかつてエッセイで、コピーライター養成学校に通ってた頃に蜻蛉の眼について書いて講師に提出したエピソードをネタにしていた。その内容とは、蜻蛉の眼は事物が倒立して映る、だから蜻蛉にとっての上昇や飛翔は落下や失墜なのである・・・・・・ってなコトで、それで大変褒められたらしい。実のところ彼はフランス文学に精通しており、おそらくはバタイユの「太陽肛門」、ユイスマンスの「さかしま」なんかを意識しつつ書いたんだと思う。軽妙な笑いを追求しつつリリカルだった彼らしい。

 しかし、残念ながらその認識はおそらく間違っていた。カメラオブスクラのようにあらゆる眼は事物が倒立して映るものなのだ。それを脳が見事に補正しているのである。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、カメラっちゅう機械に興味を持って数年になるのだけれど、正直なところ前段に当たる光学系については余りさしたる進歩がないんだなぁ〜、っちゅうのが目下の感想である。

 単眼動物の眼の構造をベースに水晶体の代わりに色んなレンズを組み合わせ、収差と呼ばれるものを補正しながら、光を網膜に当たる撮像子に届けるまでがその役目であるが、銀塩フィルムからデジタルに移行することで若干の変化はあったものの、基本構成なんかは何も変わっていない。ちなみに単レンズでももちろん針穴写真でも実はそれなりに画像は写るものの、何だかボヤーッとして滲んだような絵になる。これをチャンとスッキリさせるのが、何群何枚とか言われる複雑なレンズの組み合わせの技術なワケだ。
 設計にコンピューターが導入されて複雑な演算がたやすく出来るようになったおかげで、ズームレンズがより高性能になったり、過去の銘玉を再現することが可能になってきてるっちゅうんだけど、それでも依然、超広角〜標準〜望遠、ってな具合にレンズ毎のカバー範囲は狭いし、無理に広くすると写りは悪いし、性能良くするとバカみたいにデカく重くなるし、その辺はあまり昔と変わってない。おれの言いたい「進歩がない」とはそぉゆうことだ。

 むしろ今は後段の様々な電気仕掛けの処理に依存する方が大きく、またその進歩のペースには凄まじいものがある。感度はISOで簡単に変更できる。今は40万とか100を基準にすると十数段も高感度性能上げた、ネコも驚くようなのがある。周辺減光はビネットコントロールとかゆうので補正できる。画面の歪曲もかなりのレベルまで補正できる。色温度だって補正できるし、極端な明暗差もHDRやADLっちゅうので補正できる。小絞りボケだってシャープネスをちょっと掛ければ補正できる。何となれば特定の色を抜いたり、オモチャっぽく写したり、魚眼っぽく写したりもできてしまう。どれもこれも脳に当たる「エンジン」と呼ばれる処理回路の進化のお蔭だ。間違いなく恐ろしい速度で、これらは今後ももっともっと進歩し続けて行くのだろう。

 今回、構成を一新するにあたって性能的にはハイエンドでないレンズにしたのは重量やサイズに加えてそんなワケもあったのだ。そこまでレンズに依存しなくてもイケるんちゃうん!?みたいな。その狙いは概ね当たったように思う。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さてさて、エンジンもそうだけど光を取り込む撮像子の方はとにかく高画素化が進む一方だ。一時は1千万画素もあれば充分などと言われてたがどうしてどうして、このまま行けば10年後くらいにはマジで1億画素とかが出てるのではなかろうか。おそらくその頃になればIT技術の方も、巨大なファイルサイズを高速に処理するだけの進歩をしてるだろう。

 それはともかくとして、その虹色に光るセンサーの表面を見て、おれはあるものを想い出した。先ほどの中島らもの話にもあった蜻蛉の眼だ。色といい艶といい実によく似ている。ビッシリと並んだ小さな眼は撮像子の受光素子の配列そのものに見える。異なるのは平面か球面かってコトくらいだろう。

 蜻蛉に限らず、昆虫の眼は複眼という小さなレンズが無数に集まった仕組みになっている。どんな必然性があったのか進化の過程で昆虫と二枚貝だけがこの複眼を採用したのであるが、ともあれ原理的には一つ一つに小さなレンズがある細い筒みたいなものが無数に寄り集まっているらしい。単眼に較べると一つ一つはかなり単純な構造で、水晶体の厚みをどぉこぉとか、瞳孔の開きをどぉこぉといった複雑なことはできないみたいである。

 しかし、昆虫の能力は極めて高く、驚嘆に値するものである。正確に形態を認識するだけでなく、飛びながら巧みにギリギリで障害物を避け、遠く離れたところにいる獲物を素晴らしい精度で捕捉することもできる。一つの眼では光学的には不可能なことを行っていることから、無数の眼から得られた一つ一つは比較的単純な、おそらくは色とか明るさといった情報をリアルタイムに統合しながら画像として認識しているのではないかと言われている。つまり、デジカメの後段の処理みたいなことをするエンジンがあのちっこいカラダに備わってるのである。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 おれの主張はもうお分かりだろう。

 今のカメラの進化を見てると、将来的には複雑な構成を持った光学レンズは消滅し、撮像子に直接微細でシンプルな単レンズが並んだよう構造になってくのではないかと思ってしまうのだ。否、針穴だって写真は撮れるんだからレンズはひょっとしたら要らないかも知れない。ほいでもって画角は撮像子の曲面の変化とか鏡筒の開き具合で調整する、要は狭い所をたくさんの眼で集中してみることで遠くのものを近く、広い空間は目を広げて・・・・・・みたいな風に。

 めんどくさいレンズなんてモノがなく、撮像子がほぼ剥き出しになったようなカメラ・・・・・・傷が付かないようにフィルターくらいは備わるのかも知れないが、それ以外にはガラスだの蛍石だの硝石だのといった光エネルギーを損失する夾雑物はどこにもないカメラが未来のカメラなのではあるまいか。
 もちろん、単眼の水晶体に相当する焦点距離が調整可能な軟らかいレンズでもできれば話はまた別だろうが、何となく外骨格的なカメラのボディには複眼の方が似合うように思ってしまう。

 ・・・・・・って、例によって例の如く酒かっくらっての妄言なんで、余りに真剣に読まれても困ってしまうのだけど、いずれにせよカメラに於ける光学レンズの重要性は今後、低下して行くのではないかとおれは思ってる。



こんなに要らなくなるとベンリだろうな〜。

2014.10.14

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved