「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
キレッキレ〜のボッケボケ〜


典型的なボケを活かした写真

 一眼レフの醍醐味は「ボケ」にあるという。

 コンパクトデジカメのように撮像素子が小さくて焦点距離の短いレンズではどんなけ絞りを開けてもパンフォーカス(被写界深度が深く画面の隅々までピントが合ってる状態)に写ってしまう傾向がある。ま、記念撮影での集合写真や風景写真を想像していただければ宜しかろう。ああゆうのがパンフォーカスだ。
 ボケのある写真とは逆に被写界深度が浅く、極端な例では合焦したところ以外がボケてしまってるものだ。バストアップのポートレート、超望遠での鳥写真、あるいは花の接写なんかでよく見られる。デビッド・ハミルトンの必殺技のソフトフォーカスとはちょと違う。ありゃ全体的に紗が掛かったように微妙にピントがボケてるのだ。

 たしかにピントの合ったところ以外が綺麗にボケた写真に独特の美しさがあるのは事実である。強調したいところだけシャープにピントが合ってる写真は余分なディティールが削ぎ落とされたことによる視線誘導や抽象化による画面整理の効果もあって、独特の力強さのようなものも生まれる。立体感だって出る。
 余談だが、謎に充ちた巨匠・フェルメールの絵は焦点の合ったところの前後をわずかにボカしているらしい。これはボケ味とかそんなんではなく、どうやらボケによる立体感を彼は知悉しており、平面的な絵画をいかに立体的に見せるかを工夫するうちにそこに辿り着いたものらしい。脱帽モノにスゴいことだと思う。
 閑話休題。そんなんでレンズのボケ味などと言って、それに拘ってる御仁も実に多い。ネット上のレンズのレビューなんてキレとボケで埋め尽くされている。やれ蕩けるようだ、やれ二線ボケが煩わしい、玉ボケはいい等々、ボケボケゆうワリには神経質になって日夜研鑽に勤しみ追及しておられる。

 味わいはともかく、ボケのある写真を撮ることだけなら実はチョー簡単で、ピントを合わせなきゃ良い・・・・・・って、しょうむない冗談はともかく、比較的焦点距離の長い35mm換算で50mm以上の、できれば明るいレンズを使い、絞りは解放で、なるだけ被写体と背景に距離の差があるようにして寄って撮ればOKである。おれも一眼買ってしばらくしてからというもの根が素直なもんだから(笑)、そぉなんだ〜!と思ってとにかく絞りは浅めにするように心がけていた。

 しかし写真の歴史を紐解くならば、実はそれはパンフォーカスへの飽くなき追及であったと言っても過言ではない。1960年代くらいまでの著名な写真家を想い出してみたらたちどころに分かる。ほとんどみんな深い深いパンフォーカスがウリだ。

 というのも、かつてはフィルムのサイズもレンズの焦点距離も長く、それでいて意外に明るいレンズが多かったもんだから(F0.9なんて、人間の眼より明るいのがあった)、ちょっと油断するとホンの僅かしかピントの合った箇所のないボケボケな写真ばかりが撮れてしまってたのである。だから今のカメラからするとケタ違いのF64とか、思いっ切り絞り込むことさえ行われていた。しかし、昔のフィルムは感度が低い。ASAで25とかが普通だった。絞り込めばその分シャッター速度を落とさなくてはならない。でもフィルムの感度は低い。それでブレないように撮るのは至難の技であった。
 それ故そこにカメラマンの技量やセンス、忍耐力が問われたのだ。もちろん被写体が人間なら撮られる側の努力だって必要となる。ちょっとでも動いたらそれはそれで被写体ブレに繋がるのだから。
 つまり、ボケのある写真なんてちゃんとした写真を撮ろうとする中での厄介な副産物に他ならなかったのである。ましてやそれを意図的に狙うなんて、モノ好きのすることだった。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・っちゅうか、こんなにボケに萌えてるのは日本人くらいと言われる。実際、英語でボケのことは「Bokeh」っちゅうのである(ちなみに単なるピンボケは「Blur」)。「Ekiden」や「Typhoon」みたいなモンだ。欧米ではどっちかゆうと特殊なテクニックくらいに捉えられており、未だ主流は深いパンフォーカスと言っても良いだろう。

 別段拝欧主義者ではないんで、だからパンフォーカスがエラいとか正しいなんて言う気はサラサラないけれど、日本のあまりのボケッぷりもぶっちゃけ如何なものかと思ってしまう。

 ・・・・・・なんだかお手軽アートや旦那芸の俗臭がプンプンするからだ。どうにもこうにもクサいのである。

 言うまでもなく写真は「型」の芸事である。換言すれば様式美といっても良いかも知れない。ナンボ、種田山頭火や尾崎放栽が自由律俳句にすぐれた作品を残したとはいえ、俳句は五・七・五って型があってこその俳句だ。短歌は五・七・五・七・七であってこその短歌で、そこを無視してしまうと相田みつをの良く分からん詩と区別が付かなくなってしまう。
 特にそれは構図において顕著で、だからこそ9分割だ16分割だ日の丸だ三角だS字だなぁ〜んて、定石がツラツラ書かれた本が飽きもせず売られてるワケである。そしてその流れでパンフォーカスやボケが語られる。

 もちろん型は大事だ。基本的な技法や定石を軽んじてはいけない。それは良く分かる。ロクに楽器も弾けず音楽理論も知らないままメチャクチャやったってそれはアドリブにはならない。それで許されるのは非常階段くらいなモンだ(・・・・・・って、彼等のノイズもかなり修練を積まないとああゆう風には出せんのだけど)。
 しかしながら余りに決まりきった型はマンネリでもある。面白くも何ともない。写真で言えば「あ〜、綺麗ねぇ〜!」とか「わ〜、上手ねぇ〜!」だけで終わってしまう。所詮アマチュアなんだし、それでジューブンっちゃジューブンなんだろうけど、何か物足りなさが残ってしまうのも事実だ。ともあれ、マンネリで許されるのは吉本新喜劇かパタリロのイントロくらいなモンだ。

 型の芸事の難しさは型の上で如何に新鮮さや個性を出すか、ってコトに尽きるだろう。それは人それぞれだ。もちろんオーセンティックを極めて行くことがあったって構わない、逆に型の上で型をどこまでハズせるかに注力したって良かろう。
 ただ、何も考えずに手クセで型にハマるのは、どうも自分の中ではスッキリしない。ペンタトニック一発で15分ダラダラとギターソロ弾いてもダルなだけなのと一緒だ。たしかにそれで素晴らしい演奏を聴かせる人もいるんだけど、やはり聴き込めばいろんな抽斗持ってたりする。

 型はホントに難しい。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いきなり私事に戻る。

 そんなこんなでしばらく絞りは浅めをバカの一つ覚えみたいにしてやって来たんだけど、最近ちょっと疑問に思えてきたのである。ボケのある写真はなるほど美しい。美しいが、どうもおれはそんなのを撮りたいワケぢゃない、って思えて来たのだ。理由はない・・・・・・いや、良く考えればあるんだろうが、それをウダウダ考えても詮無かろう。
 とにかく、パンフォーカスな写真に、コンデジみたいなと揶揄されかねない写真に少々戻ってみたくなったのだ。35mm換算で28〜35mmあたりの何てことない広角で、絞りもF8くらいにした写真。

 もちろん、絞り込めばISO100程度ではちょっと暗くなるとシャッター速度が苦しくなるのは言うまでもない。自動感度調整なんかもこれまでなるべく使わないように心掛けて来たんだけど、SS1/60くらいで青天井に作動するようにして、撮る。時に粒子は荒れるだろうし、ノイズだらけになるかも知れない。迂闊にボン焚きすればケラレだって入るだろう。
 言うなれば、あまり機材だの設定だのに煩わされないようにして、以前コンパクトデジカメでバシャバシャやってたように、純粋に撮りたい感じで撮るようにしようと思ってるのだ。

 そしたら再びいろんな「型」あるいは「定石」「公式」といった一連のお約束事が新鮮味を持って甦って来るような気がする。来年はもっと頑張ろう〜っと。


典型的なパンフォーカス写真

2013.12.27

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved