「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
一眼レフの必然性


こんな写真でも気を遣うようになりました・・・・・・(穴滝にて)

 いや〜、ちょっとタイトルが大層すぎたかなぁ・・・・・・ま、羊頭狗肉で中はショボいんでご安心ください。

 縁あって、一眼レフ、っちゅうか今はもう「レンズ交換式カメラ」、と呼んだ方がいいのかも知れないその世界に足を踏み込んでもう1年余りになる。本当に誘ってくださった方には感謝している。

 さてさて、生来の凝り性ゆえか、這えば立て、立てば歩めの何とやらか(笑)、僅か1年で随分機材は増えた。ボディが2台にレンズが5本、外付のストロボ、こないだ書いたちょっとゴツい三脚、あとはフィルターやらなんやらの小物、予備バッテリーの入る縦グリップなんて御大層なモンまで買ってしまった。それを入れるカバンだって、最初の小ぶりなクッションケースではアッと言う間に容量不足で、結局ティンバック専用のカメラインナー買って、しかしそれだと山道で担ぎにくいのでスリングバッグ買って・・・・・・と、まさに病膏肓の状態になった。2個のドライボックスにはもはや到底入りきらず、溢れた状態だ。今月は防湿庫を買ってしまった。小型とはいえちょっとしたベースアンプくらいの大きさがある。嗚呼、物欲は止まらない。まさに2ちゃんで言うところの「ポチる」とか「IYH」な状態だ。アホだ、おれは。

 とは申せ、何かと金のかかる35mmフルサイズ機に移行するのは、金銭面だけでなくその重量で普段使いに難渋して億劫そうなんで、多分このまま一回りコンパクトなAPS−Cで今後も行くと思ってる。どだい今だって重くて重くてヒーヒー言ってるのである。それにそんな、細かい部分でのボケ味の差とか被写界深度の差とか分からんですから、ハイ。
 こうしてる間にも性能の進化はとどまるところを知らず、世の流れは画素数ではもっともっと、それこそ1億画素とか、極限の行き着くトコまで行くんだろうし、高感度性能だって暗視カメラ並みのがどんどん出て来たりしてるんだけど、それでなくても弱い自分の眼の解像力や暗視能力を遥かに越えた写真なんてあまり興味が湧かない。
 ぶっちゃけ今の機材で、必要なものはもう大体揃った感はある。元々望遠とかには興味が無いから大砲みたいなのを買おうとは思わない、顕微鏡写真みたいなマクロにもあまり食指が動かない。そらアンタ、やってみたらその面白さ分かるで〜、と言われる向きもいらっしゃるだろうが、心が動かされんのだから仕方ない。
 まぁ、35mm換算で20mm、35mm、50mm、90mmあたりを中心にちょこっと前後にズームできて、そいでもって気軽に単焦点があって・・・・・・みたいなんしか自分のイメージの中にはない。バカかと思われるかも知れないけれど、平たく言ってヨメと、後は風景や身の回りの事物を綺麗に撮れたらそれでいいのだ。

 ん!?綺麗に撮る?何を以て「綺麗」なんだろう?それって一眼ぢゃなきゃムリなことなのか?なんで一眼なんだろう?
 それが今日のテーマだ。

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 もしあなたがパンフォーカスで隅々までクッキリ写った写真をとにかく撮りたい、ってぇんなら、別に一眼である必要は今の時代、もはや全然ないのかも知れない。流石にローエンドモデルはでどうかなぁ?とは思うけど、俗に「高級コンデジ」と呼ばれるのを買っておけば、下手に一眼こねくり回すよりよっぽどイージーに「綺麗」な写真は撮れる。冗談抜きで呆れるほどに高性能だ。ホント明確な違いなんて、画面の縦横のアスペクト比くらいぢゃないのか?ってくらいに鮮明に写る。ズームだって10倍とか20倍とか、サードパーティーのレンズメーカーのを遥かに凌駕するとんでもなく高倍率なズームが恐ろしくちっこいボディの中におさめられてる。レンズを交換する手間だって要らない。
 撮像素子の差が画質の差だ、なーんて言われるけどホントかねぇ、って思ってしまう。十分に明るい環境で撮れば一眼とコンパクトの差なんてぶっちゃけ分からない。600万画素くらいでもじぇんじぇんOK。

 ぢゃ、一眼である必然性って何なんだろう?趣味性とかそんなんは置いといてだ。

 結論から言うと、所謂「ボケ味」・・・・・・難しく言うと「浅い被写界深度がもたらす合焦してるトコとしてないトコの差」しかもう残ってないんぢゃなかろうか?光学的な知識はないので理屈は分からないけど、撮像面が小さいほど、また焦点距離が短いほど、そして絞りが深かったり、レンズが暗かったりするほど被写界深度は深くなる(つまりパンフォーカスになる)ものらしい。すなわち、コンパクトデジカメは機構的にひじょうにボケには不利なのである。逆に昔の6×6とかのでっかいフィルムだとボケさせやすい。
 なるほど狙った部分にのみキチッと焦点が合って、後が柔らかくボケた写真は、余分なフォルムが整理されて抽象的な背景を背負ったようで美しいように思う。「蕩けるようなボケ味」なんてスカした言われ方もするが、まぁ分からなくはない。

 しかし、写真の歴史は実のところパンフォーカスへのあくなき追求だった。いやいや、もっと有り体に言っちゃうとボケの克服だった、と言えるかも知れない。だって、元々のニーズは「見える世界を忠実に記録する」ことだったんだもん。だからこそ深く絞り込んでも使える明るいレンズが求められたワケだ。古いレンズに現代よりむしろ明るいものが多いのにはフィルム感度が低かったことに加え、そんな理由もあると思う。
 昔の写真家の作品見ても分かるわな。あくまで隅々までリアリズム、パンフォーカスがとても多い。土門拳なんて最たるもんだろう。浅めだった木村伊兵衛にしたって十分深い。そう撮ることは昔の機材ではなまなか容易ではなく、それができることこそがプロの証だったようにも思える。ソラリゼーションやディストーションといった技法を編み出し、ダダぢゃシュールぢゃと極めて前衛的だったマン・レイにしたって、ボケ味を追求した作品なんてないっしょ?

 もう一つ挙げるとするなら、レンズ交換って行為だろう。もし1本で10〜1000mmくらいをF2.8通しくらいでカバーして、なおかつ強力な手ブレ補正がついて、さらには絞りの輪の枚数が多いのが出ようもんならもぉ、交換式なんてまどろっこしいやり方、秒殺で廃れるだろう。大体、ホコリが入ったり、落としたり、あるいはレンズ指で触って曇らせたりってリスクが絶えず付きまとうこの方式、要はただただオールマイティーなレンズが作れないから長らえてる方式なのである。味がどうとか、収差がどうとかいろいろ言われるけど、その原初には実にベタな事情が横たわってるだけなのだ。

 高感度性能や連射、AF速度等々、性能に余裕があるっちゅうたって、日進月歩でコンパクトが猛追してきてるしねぇ〜。

 もうお分かりだろう。要するに一眼は「機械としての不完全性に於いてのみ」存在意義を有するような時代になっちゃってるのだ。後はせいぜい大きさくらいなモンかな?大きいからいろんなコントロール類がくっ付けやすくて操作性が高い・・・・・・と、まぁ、コンパクトも頑張ってて、一体全体どんな技術使ってんのか、かなり柔らかくボケるのや、レンズ交換式も出て来てるからこの先分かんないけど。

 思えば不便だとか不備だとか、要は不完全を喜ぶとは、極めてヲタクなことだ。往々にして写真が旦那芸に陥りやすいのはそんなところに原因があるのだろう。

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 別に一眼がイヤになってこんなことを書いてるのではない。まったく逆だ。レンズをとっかえひっかえ、いろいろなダイヤルを回して撮るて行為がこんなに面白いとは思わなかった。ただ、だ。ちったぁこの悪いアタマでも考えるようになったのだ。何もゲージュツ目指してるワケでも、目新しい写真表現目指してるワケでもない。ごくごくオーソドックスに撮れりゃいいんだけど、もちょっと自分が考えた通り、狙った通りに写るように撮りたくなって来たのだ。

 百発百中にそれが行えればいいんだろうけど、そこは問屋の卸金、思った通りにはなってくれない。すごくシャープに写ったら、構図が面白くない。構図は良いけど、何だか明るすぎたり暗すぎたりする。ああ、今度は緑カブリだ。こっちがイケた!と思ったら被写体の方が動いた。要らんモノが写り込んだ。うわ〜!ローパスか撮像面にゴミ噛んでるやんか!・・・・・・いっかな上手く事は運ばない。これはコンパクトにはなかったことだ。いやいや、コンパクトでも思い通りに行かなかったんだけど、単なる手ブレとか、真っ暗とか、真っ白とか、もちょっと事態が単純だったように思う。

 多分に偶発的とはいえ、それでもいいなぁ〜、と思えるのが撮れるときがたま〜にある。謙遜ではなく、ホントごくたまに、だ。正確に言うと失敗量産してるのである。ひどいときはマトモなのは100枚に数枚だ。ひどく悔しくもなぜか楽しい。そんなんでこの頃は一人で出掛ける時も助手席にはカメラ道具一式入れたバッグが必ず転がってるのである。


公園にて

2012.07.04

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