「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
一つの場所で丁寧に




さて、どれが一番いいでしょう?(笑)

 俗に、女の地理の理解は「点」的であり、男の地理の理解は「線」的である、と言われる。そういえば何年前だか「話を聞かない男、地図が読めない女」というタイトルの本がちょっとしたベストセラーになったことがあったっけ。

 そう言われればなるほどなるほど、これまで散々あちこち出掛けてったにもかかわらず、ヨメはその旅程を殆ど思い出せなかったりする。地図なんてハナッから読む気なし。その代わり、「あそこの***はああだったこうだった」と、細部の記憶は異常なまでに精緻であることが多い。一方のおれはっちゅうと、自慢ぢゃないけどこれまでの旅程を殆ど諳んじることができる代わりに、一つ一つのポイントの細かいディティールは思い出せなかったりもする。だから、あながちこの意見は間違っちゃないように感じる。

 そんなんだからかも知れないが、かつてのおれの写真は、目的地だけでなく、途中のポイントポイントで思いつくままに写したものが多かった。いつもクルマのセンターレストのあたりにはバカチョンカメラなりコンパクトデジカメが置かれてて、サッと停まってサッと撮る、ってなことが多かった。まぁあまり考えてなかったのである。

 実は今もあまり考えてはないのだけれども(笑)、道具仕立がずいぶん大層になった分、少しは前より考えざるを得なくなってしまった。それにサッと取り出すには、いくらAPS−Cサイズとはいえ一眼レフはあまりに巨大である。つまりは機動力が犠牲になったのである。今は一人なら、横のシートにデーンと、ヨメがいる時はリヤシートに一眼が転がっているけれど、クルマを停めてまでして撮ることはあまりなくなった。かといって今更コンデジに戻る気もなし、必然的に写し方のスタイルが変わってきた。

 今日はそんな話だ。

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 道具が変わったことによって結果、滞留した場所であーでもないこーでもないと、レンズを取っ変え引っ変え、近付いたり離れたり、立ったりしゃがんだり、やれISOはどうだ、絞りはどうだ、EVはどうだ・・・・・・とものすごくたくさんの数を取るようになった。どうせ大したウデがあるワケぢゃなし、サッと撮ってサッと移動すれば済むことなのに、そこが妙に凝り性なおれの面目躍如たる所であって、どうにも気が収まらなくなって来たのだ。ヘタすりゃ1ヶ所で気付くと100枚くらい撮ってる時がある。典型的な知るは不幸の初め、下手な鉄砲も何とやら、のパターンだ。
 言うまでもなく、メディアの大容量化が進み、反対に値段が下がったことも大いに影響してるのは否定できない事実である。先日、アマゾンで32GBのSDHC買ったら1枚2千円しなかった。JPEGのラージサイズで今が大体8MB前後のファイルサイズだから、ざっと4千枚撮れる計算になる。かつて36枚撮りのフィルムをまとめ買いしても1本200円くらいしてたから、とんでもない時代になったものだ。だから財布を気にせず撮りまくれるようになった。

 けれどマジで全然威張れた話ではないとは思ってる。現状、こうして撮りまくるのはただもうおれが状況判断がヘタで、機械を使いこなせてないことの証左に過ぎない。これが上手い人なら、定石っちゅうか公式みたいなんを沢山持ってるモンだから、ササッといなすことができる。所謂「抽斗が多い」っちゅうやっちゃね。
 こぉゆう状況でこぉゆう写真を撮りたいならこぉだよね、という風に。テクニックの抽斗が多いのだ。写真にせよ、楽器にせよ、文章にせよ、或いはこのようなIT関係、たとえばエクセルだワードだ、あるいはもっとむつかしいプログラム開発にせよ、基本パターンとかキマリの型をどれだけ沢山持ってるかで、生産性と出来栄えは圧倒的に変わってくるものなのである。ロクすっぽ型の習得をせず、個性だのオリジナリティだの創造性などとほざくヤツはアオくて無能なだけだ。料理の世界だってそうでしょ?基本の組み立てをどれだけ知ってるかで、ウデの大半は決まるのだから。

 そりゃもちろん、写真が「選び取る作業」であることも一方では事実だろう。プロの写真家がポートレート撮影するときなんて、何千枚てバシャバシャ撮って撮って撮りまくって、上梓するに足りるものだけを後からジックリと選び取ったりしてる。まぁ、人間っちゅう相手あっての写真だし、最高の瞬間を切り取るためにはそれくらい必要なのかも知れない。それに瞬きだってするし(笑)。そぉいや瞬き多いんだよな〜、ヨメも。するなゆうてもしよるし。これでどれだけ沢山ボツになったか・・・・・・。
 それはともかく恐らく彼等にしてもサッとやれ、っちゅうたらすぐに出来るだけの充分な技量を持ち合わせているに違いない。おれみたく失敗作の山からそれでもマトモなのを探してるのではない。どれもある程度の水準以上に撮れたのから、より完成度の高いものを選び取ってるのだ。
 音楽においても一発録りにはたしかに一発録りの良さがあるのは認めるけど、その前提にはメンバーの技量がある程度の水準でなくちゃならないというのが横たわってる。そうでなけりゃ単なるガキバンドの練習録りだわな。やっぱし基本はテイクを重ねて、編集して、だよね?

 そんなこんなで決して言い訳ではなく、一つの場所で丁寧に取ることは悪くないことだと思えてきた。何より上手くなるには抽斗増やさなくちゃならない。そのためには徹底的に数をこなすしかないのだ。それらを後から見直すことでいろんなことが分かってくる。まぁ、問題集やって後から自己採点するようなモンだな(笑)。そぉいや元々おらぁ参考書をペラッと読んで物事を理解できるような、器用で覚えのいいタイプではないんですわ。

 見えなかったものに気付く効用も大きい。最近のカメラの解像力には凄まじいものがあって、ホント、パンフォーカスの超広角なんかで撮ろうもんなら撮りたくもなかったモンまでが写り込んでたりする。それは絵的には余分な夾雑物なんだろうけど、記録として見るととても面白い。そのうち画面の隅にUFOでも入ったりするのではなかろうか(笑)。怖い事件とかが偶然写って追われるようになったりとか・・・・・・ないない。

 さらには少しは落ち着きが生まれ、ミクロな視点が涵養されてるような気もする。生来、大雑把極まりないガサツな性格な上にイラチで細部の詰めが甘くて、何事においてもいつも大体カンペキッ!OKOK!ってな調子だったのが、ジックリと見ることによって微妙な差異の生み出す美しさの違いみたいなものに注意が払えるようになってきたまた、等倍マニアではないけれど拡大することで細部の美しさも少しは分かるようになってきた。。眼光紙背に徹する、ってコトの意味がようやく分かりかけて来たのである。

 しかしこれは同時に危険なことでもある。おれは旦那芸の入り口に今、立っちゃってるのかも知れない。

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 稀代の碩学・南方熊楠は齢40も近くなって、破天荒で徒手空拳の世界漫遊から戻り、後半生を紀伊田辺の町からほとんど動かず、粘菌を中心とする気儘な研究に費やした。その30余年を落魄と失意の不幸な人生と捉える向きもあるし、たしかに息子の発狂とか不幸な出来事があったのも事実だが、おれは決して不幸だったとは思ってない。だから水木しげるの「猫楠」には大いに賛同できるが、神坂次郎の「縛られた巨人」にはちょっと肯えない。
 彼はミクロコスモスの豊饒さを知ったのだ。限られた狭い世界の中に探求に値する無限の広がりを見たのだ。それはそれで「あり」だと思う。

 ともあれこうして一つの場所で丁寧に撮るようになって困ったことがある。おれもヨメも、どっちも旅の記憶が「点」的になりつつあるのだ。頑張って旅行ギャラリー整備して後からの確認にも使えるキャプションちゃんと付けていないと、ホント旅程を忘れてしまうようになるかも知れない。

2012.10.28

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