「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
松井冬子をどう読もう?


なるほど納得の美人

 松井冬子が人気バクハツ、大沸騰なんだそうな・・・・・・ちゅうたって知らん人は知らんやろから、一言で紹介すると、要は「特異な作風の若手美人日本画家」である。
 まぁ、若手っちゅうてもすでに御歳36歳とのことなので、そんな若手タレントみたいなのを想像してはいけない。美人ぶりについてはナカナカ個性的でもあって誰もが納得ってトコだろう。おまけに色っぽかったりもする。見方によってはちょっと叶姉妹の下の方に似てる気もするな(笑)。

 さて、肝心の作風だが、取り上げる題材に「幽霊」やら「死体」といったものが多い。所謂、花鳥風月の類ではないのである。で、そういった暗く陰惨な題材をほとんどモノクロームに見えるくらいに発色を抑えた絹本着色で細密に描く。なるほど日本画の系譜には松に鶴、竹に雀、梅に鶯みたいなどぉでもいいような画題とは別に、幽霊画や無残絵といった綿々と続く一統もある。だけど、それはいささかキワモノとして取り扱われ、まともに光が当てられて来なかった。例えば刺青画の巨匠に小妻要(容子)って人がいるけど、その画力の確かさとは裏腹に一部の好事家にのみ知られるばかりで、「真っ当な」日本画壇からはほとんど黙殺されている。
 そこに彼女が現れた。そのことがルックスとの落差もあって持て囃されてるといった感がある。言ったら悪いが、これがもしとんでもないブスだったら、ここまで売れっ子になってたかどうかは「?」だと思う。

 そんな気鋭の画家の絵だけでなく、作品を取りまくいろんな状況におれは興味を抱いた。今日はそのことをグダグダ書き連ねてみる。

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 正直なところ絵自体についてはそんなに惹かれていない。元々平面性の強い日本画であるから割り引いて考えなきゃならんと思うけど、どうにも売りであるはずの「痛み」についての深いリアリティが感じられないのだ。そして、オリジナリティが何より感じられない。

 痛みは分からんが、元ネタが分かりやすく透けて見えるのはかなりイタい。例えば「夜盲症」と題された幽霊画。彼女の母校である東京芸大からも程近い谷中の全生庵に行けば、怪談噺の第一人者だった円朝コレクションの大量の幽霊の掛け軸があって、それが虫干しをかねて夏の間だけ公開されるのだけど、それらと彼女の幽霊の絵のあまりの近似については今更言うまでもなかろう。ちなみに円朝さん、とても勉強熱心(?)でストーリーを考えるに当たってこれらの掛け軸を吊るしてイマジネーションを喚起していたと言われている。
 そんな幽霊画であるが、そもそも幽霊から脚を無くす工夫を初めてしたのは円山応挙が元祖と言われている。その仕掛けを生み出すには画家として大いに呻吟や煩悶があったと思う。行灯の陰からにゅう~~とか御簾の向こうに、といった今では紋切型なポーズだって幽霊画の長い歴史の中で怪異と恐怖を紙の表に留めるための不断の努力から生み出されてきたものだと思う。それなりに重みのある様式なのである。それが彼女の絵の中では、その表相だけをポンと仮借してるようにどうしても見える。

 代表作と言われる「浄相の持続」と題された、腹を裂かれて草原に横たわる死せる妊婦の図にも元ネタがある。いや、本人も九相図からの影響は認めているが、しかしそれではあまりに生々しい、っちゅうかとても死んでるように見えない一方で静止感に満ちながら、嫣然たる微笑を浮かべた妊婦の姿の説明が付かない。九相図ではもっとリアルにグッチャグチャに死んでるんだもん。
 そりゃそうだ。これはモデルが人間そっくりの人形だからだ。九相図なんて言いつつ彼女は肝心の影響を・・・・・・いや有り体に言えばモチーフの剽窃をチャンと告白していない。答えは日本ではない。ヨーロッパ各地の蝋人形館で見られる、極めて精巧に作られた解剖模型だ。衛生博覧会的なエログロ趣味の炸裂するこれらの生き人形は19世紀頃まで盛んに作られたが、おそらくはその中でも最高傑作と言われるイタリアはフィレンツェにあるスペコラ博物館が蔵するスシーニの(・・・・・・あ~、長い!、笑)「解体されたヴィーナス(Anatomical Venus)」のうちの一体がお手本ではないかと思う。チャンと子宮の中に胎児が入ってるトコまでまったく一緒。大体、日本では腹を裂くのは横真一文字であって、喉元から陰部の上まで縦に切開するのは西洋の解剖学の流儀だもんな。


小野小町九相図「肪乱相」(京都・安楽寺蔵)。腐臭が感じられるほどにリアル。


スシーニの「解体されたヴィーナス」。さらに子宮のフタを開けると胎児入り。


松井冬子「浄相の持続」。ね!?ソックリっしょ?
余談だが、周囲の花にはモロ伊藤若沖が感じられるんだが・・・・・・。


 いちいち他の作品の元ネタを探すのは面倒だし、評論家でもないのでこれくらいにしておくけど、まぁ後は推して知るべしだ。何だかおれは三味線でハードロックやクラシックの名曲をコピーしてる邦楽家を思い出す。つまり日本画のフィールドの上でいろんな既知のそれっぽい素材を再構成してるだけ、に見えるのである。たしかにそれはそれでとてもスゴいことなんだけど、単なる技法の置換っちゃそれまでだ。

 本当に大切なことはたとえば「解体されたヴィーナス」なら「解体されたヴィーナス」で、それをそのまま日本画の上に再現することではなく、その途轍もなくバッドテイストな発想力の背景や構造を読み解き、自分の中で咀嚼してちょっとは違った形で表現することではないかとおれは愚考するが、そうしたアティテュードがほとんど見られないのはいかにも空疎だ。そのまま描き写しただけ。
 まるでこれでは子供がウルトラマンやら仮面ライダー、戦隊モノといった自分の大好きなキャラクターを落書き帖に気侭に描くのとそう変わらない地平にいるのではないかとさえ思える。でも、ほれ、子供だって、そのようにお手本に飽きるととんでもなく変な怪獣考え付いたりするやないですか。それがどないもこないも欠落してるのだ。
 おれが彼女の絵からリアルな痛み感じられないと述べたのはまさにそこにある。

 無論、日本には昔から欧米の文化や様式をスーッと取り入れて換骨奪胎して異化するという流れが脈々とある。それは紛うことなき事実だし、そこまで否定して独創性を打ち出せって気はさらさらない。しかし、残念ながらまだ彼女の作品からは換骨奪胎とまで言えるものが看取できないのもまた事実だ。

 ・・・・・・って、ちょっと悪いトコばかりあげつらい過ぎてしまったけど、実のところおれはかなり彼女の活躍に期待してたりするのだ。

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 少々話を変える。

 何かモノ作って商うのに、いいもの作って適正な価格で売ってりゃ必ず売れる、って古典的かつ一見篤実な考え方がある。ま、マーケットそのものが小さくメディアが未発達な昔ならそれはそれで成り立つことも多かった。いや、今でも京都辺りの老舗にはこういった考え方で頑なにタコツボ商売やってるトコが多数ある。でも、それはもうブランドとしてのステータスが確立されてるからこそできるのであって、ポッと出が同じようにしようたってそう上手くことは運ばない。そこで宣伝やら広告といったものが必要になってくるし、またブランドイメージの向上が必要になってきもする。

 職業芸術家も言っちゃぁ悪いが、家内制手工業の、おまけに一品製作のメーカーみたいなもんである。生産効率の観点からすればこれほど低いものは他に無い。従って、それで食っていくためには当然ながら、極端に高い付加価値が必要になる。付加価値とは何ぞや!?・・・・・・それを「芸術性」などと一言で言い切れるほど、今の世の中甘くない。すべてはハイパー化してるのだ。作品だけでなく作者のあらゆる属性を活用・駆使したプロパガンダが必要になってくる。

 おれは芸術にプロパガンダがダメなんて言う気はサラサラないし、改めてそういう視点で松井冬子を見てみるととても面白い。

 その来歴がまず面白い。俄然下世話な興味が湧いてくる。女子美術短期大学を出てから、実に4浪して東京芸大に入っているのである。つまり、入学したとき既に24歳だ。現役なら院に進んで修士課程終えた年齢である。そして油絵から日本画に転向している。「東京芸大」っちゅう学歴・・・・・・つまりは「箔」への強烈な意思を感じる。なーに、日本画やりたいだけならほとんど入学随時ではないかと思われる偏差値40ちょぼちょぼの大学とかがある。絵と偏差値は関係ない、って考え方もまぁあるんだしね。それでも彼女は臥薪嘗胆で4浪した。
 油絵から日本画への転進にしたって、「画家として名を成し、食ってく」という断固とした目的ありきだったのではないかと思う。なぜなら、日本画は既に技法としては完成されている上に、旦那芸の果てで形式主義と日本的な徒弟制に雁字搦めになった世界で、若い世代で目指す人が少なくなってるからだ。要は頭角を現しやすい。

 「掟破り」をやるならなるだけライバルが少なくて様式やら因習に凝り固まった世界でやる方が目立ちやすいに決まってる。パンクバンドが目立つには西部講堂よりも、フォークかなんかのライブに突入した方が余程目立てる。お笑い芸人で目立ちたければ、何でもありの漫才よりも伝統と格式の落語の世界でやらかした方が間違いない。
 想像してみて欲しい。彼女の絵がもし油絵だったら、彼女はよくありがちな「ちょっとイッちゃった系」のアイタタな絵に埋没していただろう。この程度のヘンな趣味のアートネーチャンとそんな作品は掃いて捨てるほど溢れてる。学生主催の「五人展」なんてぇタイトルの展覧会に行けばそれは良く分かる。いやいや、もっと本格的なただのキティガイ予備軍みたいなんだって呆れるほど沢山いる。意味深で思わせぶりな長いタイトルにしたって油絵の世界の若い衆では珍しくもなんともない。

 さらにそういった卓袱台返しが失笑も買わず、黙殺もされない・・・・・・どころか光が当てられるためには「お膳立て」や「裏付け」が必要だ。それは実力だけではない。上で書いた通り、「いいもの作って」だけぢゃアカンのである。
 端的に言う。残念ながら某○☓△大学卒ではゴマメの歯軋りで終わる可能性が極めて大である。悲しいがそれが世の中なのだ。そしてそのことを彼女はイヤっちゅうほど知悉していたに違いない。

 おれが期待しているのは、このタクティクス、セルフプロデュースのしたたかさと強靭な遂行力なのだ。画家としての活計を立てるため、美貌も含めて自分の売りとなる属性を冷徹に計算し、最大限活用し、勝負に出る。それはスポ根マンガ並みのど根性物語でもある。男女二元論的な喩えで申し訳ないけど、ムチャクチャ男っぽい。

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 こうして松井冬子について考えて行くうちに、おれはある女芸人を想い出した。鳥居みゆきである。高度な虚構で固めた来歴、実は美人だ(だって元モデルなんだもんな、笑)と騒がれることまで見越したかのような発言・行動・芸風、その一方でフツーに結婚してるトコなんかまでよく似ている。ちなみに松井の旦那って東大の学者さんらしい。案外この人がプロデュースのブレーンだったりしてね。
 「日本画界の鳥居みゆき」・・・・・・ミもフタもない言い方だけど、褒めてるんですよ、これ。

 ともあれ、これからどのように画風が変容して行くのかにおれは今ひじょうに興味がある。まぁまず一生この路線で行くとは思えない。取り敢えずしばらくはキープコンセプトだろう。日本画を描くのはかなり時間が掛かるらしいから、数にしてあと10~20幅といった感じかな?そんでもって40半ばから50過ぎくらいで枯淡テイストとそれに相反する色彩感なんかも織り込みながら一気に路線変更をかけてくる、と睨んでるんだが・・・・・・どんなもんだろう?

2010.02.23

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