「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
笑えない末路


不世出のマンガ家と言っていいと思う。

 「笑い」とは何か?「笑わせること」とは何か?を極限まで追求し、その果てで笑いに殉じたとも言える死に方をした凄まじい芸人がかつていた。上方落語の第一人者だった桂枝雀である。彼は「笑い」というものが「緊張と緩和」にあると定義付け、話芸をひたすらストイックに追及し、悩んで行き詰まり自ら命を絶ったのだった。

 その求道的で壮絶な生き方に茶々を入れる気はないけれど、冷静に述べさせてもらうなら、笑いをそのように狭義に限定したところから彼の不幸は既に始まっていたと思う。たしかにその洞察は実に鋭いし、それなりに正鵠を射たものであるとは思うけれど、全てではなかったのである。残念ながら笑いの世界はもっと茫漠とした広がりを持っている・・・・・・いや、もっと有り体に言えば理論化や体系化が不可能な、出鱈目で矛盾に満ちたものなのだ。それは赤ん坊の笑いを見ただけで分かる。赤ん坊の笑いが決して「いないいないばぁ!」のようなそれこそ「緊張と弛緩」だけに留まらないことは説明するまでも無かろう。
 「笑い」そのものは表情であって、何がしかの感情、たいていは面白い、楽しいと感じたことの発露の一種に過ぎない。つまりは結果なのだが、厄介なことに、他の泣くとか怒るとか渋面作るとかよりも脈絡がなかったり、或いは慣れたり飽きたりして何度も同じように行かなかったりすることが多い。だから、笑わせること、とりわけ、理屈抜きにただもう笑わせることを目的として何かやるのは実にむつかしい・・・・・・っちゅうか危険なことのように思う。怖がらせたり、泣かせたりの方がよっぽど簡単だ。

 お笑い芸人にとどまらず創造的に笑いを追及する人には、往々にして痛々しくも悲惨な結末を迎えるケースが多い。今回はそんな切り口でギャグ(コメディーではない)マンガ家をあれこれ取り上げてみることにする。

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 まずは何といっても日本のギャグ漫画の革命児、赤塚不二夫だ。「おそ松くん」「もーれつア太郎」「ひみつのアッコちゃん」・・・・・・数々の彼の偉業についてここでクドクド述べるほどの野暮はしないが、個人的には彼のピークは60年代、せいぜいヨイショしても70年代初頭までで終わっていた気がする。
 正直、ギャグを極限まで突き詰めようとした少年マガジン版「天才バカボン」での末期、1ページ1コマを使った顔のドアップとか、実験的というにはあまりに下らなく、しかしナンセンスというにはベタ過ぎて、もう単なる作者のヤケクソしか感じられず、子供心にも最早面白くもなんともない・・・・・・どころか、むしろどこか寒々とした気分にさせるものだった。
 永年の飲酒によるアル中、最初のヨメが同席した再婚の会見、晩年の植物人間状態・・・・・・破天荒でやたけたな生き方は、結局、ギャグを追及する中で、ギャグが作者本人をも蝕んで支配して行った。満身創痍になりつつも彼が笑いを真摯に追及していたことは間違いない。視覚障害者の子供たちのために無償で点字でのマンガを拵えたりもしてるのだ。

 続いては山上たつひこ。私淑して止まないこの作家については以前に一稿を割いたこともあるので、詳しくはそちらを読んでいただきたいが、結局は代表作である「がきデカ」そのものが彼を追い詰めたと言っても過言ではなかろう。90年代初頭にマンガ家としては廃業して小説家になってしまった(一度だけその後のこまわり君を描いた短篇を発表しているが・・・・・・)。そぉいや最近小説の新作がねぇな。どないしてはんねんやろ?
 また、彼のフォロワーとして続々と出てきた小林よしのり、新田たつお等々の一群のマンガ家で、未だにまがいなりにもギャグマンガ家として活動しているのは秋本治(ex山たつひこ)の「こち亀」くらいなものか・・・・・・ま、初期の破壊的な路線は影を潜めてスッカリ昭和回顧マンガに変わっちゃってるけどな、あれも。

 同じく少年チャンピオンの秋田書店系で忘れちゃならないのは鴨川つばめと吾妻ひでおの二人だろう。前者・鴨川は連載時期が「がきデカ」とかぶっており、そのナンセンスギャグ路線の強化策として登場したような記憶がある。しかし、いきなり連載デビューで人気の頂点を極めてしまったのが不幸だった。言うまでもなく一世を風靡した「マカロニほうれん荘」である。
 個人的には単純化された軽快な線がイマイチ性に合わなかったことと、その頃はまだまだ随所で繰り広げられるパロディの元ネタに疎く、その若干偏ってはいるものの博識に裏打ちされた様々なギャグの深みが理解できなかったことからあまりハマることはなかったが、とにかく売れに売れまくった。恐らく秋田書店の戦略としては、がきデカよりも少し年齢の高い読者層の掘り起こしを狙ったのだと思う。
 しかし、徹底的な搾取は才能を恐ろしい勢いで消耗させ、すぐに枯渇させてしまった。連載は案外短く、最後は何だかムチャクチャになって終わってしまったのである。今はどうしてるか知らないが、新作はもう何年も出ていない。

 一方、吾妻ひでおは消耗と枯渇の渕から辛くも生還した。愚考するに、ひたすらギャグをストイックに追求するのではなく、どちらかといえば本当にやりたかったテーマが別にあった(ロリコン路線の嚆矢はこの人だ)こと、また、スラップスティックな笑いではなく不条理ギャグを前面に押し出していたことがまだ幸いしたのかもしれない。それに何よりいくら消耗しても尽きないケタ違いの才能がこの人にはあった。
 ただその復帰が、自らの失踪とホームレス生活や鬱病、深甚なアル中を客観的で醒めたに笑いに昇華した「失踪日記」等の奇蹟的な怪作群だったっちゅうのは如何にも痛々しい。もう、フツーの作品が描けなくなっちゃったワケだから。無論、否定してるわけではない。これらの作品の突き抜けた特異性と存在感は花輪和一の「刑務所の中」と双璧を為しており、日本のマンガ史の中で重要な位置を占めるのは間違いない。ともあれ還暦を迎えた今、それでも何とか堅調に作品を発表し続けているのは喜ぶべきことなのだろう。ちょっと廃人っぽいけれど。

 「生還した」っちゃぁ狷介と多才が服着てるようないがらしみきおも忘れてはならない一人だ。80年代初頭、従来の起承転結がどぉこぉとか、小市民的で常識的なイデオムを一蹴する、革命的ともいえる4コママンガで人気がブレイクしたが、やはりここでも搾取に伴う消耗と枯渇のシステムが働いた。そもそも4コマはストーリー物と違ってページ数が少ない分、原稿料的には不利にできている。小説に対する詩や短歌、俳句と一緒で、1話の密度、ネタを考える手間隙と労苦はあんまし考慮されていない。戦闘シーンをダラダラ引っ張って抜くことも出来ない。だから後は同じパターンでもストーリーモノよりも強烈なペースでの壮絶な数の連載と量産とネタの浪費・・・・・・そして彼は休筆した。正直、もうこれで消えるかと思った。
 いがらしのタフでしたたかだったところは、おそらくはそうしてすり減らすことさえも初めから織り込み済み、っちゅうか、客観的に醒めた眼で見ていたことではないかと思う。だから消耗と蕩尽のプロセスに呑まれることなく、「ぼのぼの」のような極端な路線変更を自覚的に行えた。
 とは申せ、往年の破壊的で異常にパワフルなギャグを描くことは途絶えてしまった。彼ほどの才能をもってしても、少なくとも「ギャグ」マンガ家としては全うしえなかったのである。

 同じようなパターンとしては赤塚のアシスタントから独立した古谷三敏なんかも挙げて良いかも知れない。悪書追放運動の槍玉に挙がるほど毎回毎回オヤヂが家族からフルボッコにされる唯一無二のDVマンガ「ダメおやじ」(特殊漫画家・根本敬の生み出した「村田藤吉」の元祖みたいなもん、ありゃ家族全員が虐められるが)は、途中からムチャクチャともいえる大転換をする。何と一つの連載の中で強引にほのぼのマンガに変貌してしまったのだ。鬼ヨメは顔そのままですっかり良妻(笑)。ガキだったおれは激しく混乱したが、すっかり毒気を喪った路線変更後は読まなくなってしまった。
 要は暴力を全面に打ち出したスラップスティックの連続に作者自身が疲弊してしまった、ってな風に発言してるのを昔読んだ記憶がある。追求する笑いが先鋭的であればあるほど、爆笑型であればあるほどそれは人を蝕む。

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 逆にギャグマンガ家として息の長いケースもあることはある。

 例えば「浦安鉄筋家族」の浜岡賢次はどうだ?相変わらずのドタバタ路線を続けているではないか。しかし、それが成り立つにはそれなりのワケがあると思われる。何より笑いのレベルが幼稚であることだ。それは彼が無能だからではない。先鋭的なギャグを追及していては長く持たないことを本能的に分かっているからだろう。あと、細かい矛盾や破綻を無視したっちゅうか、度外視したストーリーなのも長続きの要因の一つだろう。

 魔夜峰央はどうだ?代表作「パタリロ!」は少女マンガ誌をフィールドにしたがきデカ系スラップスティックの元祖だ。何と連載は既に30年を超え、延べで単行本は100巻を超える怪物級の連載となってる。彼の場合、笑いに関する知識量の膨大さによるところが大きい。特に落語や都々逸、狂歌といった古典には相当明るいようで、それらからの引用が随所に見られる。意地悪な言い方をするなら、笑いそのものにオリジナリティはあんましないのである。ストーリー構成にしたって実はいろんな推理小説からの引用が多かったりする。しかしその、既にある各種の素材を作品上で自由に再構成するという、リミックス的な手法がここまでギャグマンガ家として永らえさせたのは事実だろう。最初に挙げた秋本治もパターン的には似てるかな?

 吉田戦車も長いが、これは吾妻と同様不条理系で初めから勝負してるからだと思う。

 江口寿史のようなマコトに稀有なケースもある。ストレス耐性の低さが幸いして、完全にすり減らす前にあっさりケツ割って作品を投げ出すことを繰り返して、あまつさえその未完作品の多さ自体が芸風になって命脈を長く保っているのである。もちろん、それが許されるだけのここ一発のセンスとキレ、画力があったればこそだが・・・・・・。

 つまり、言葉は悪いが、どれもみんな何らかの形でたっぷりある才能を巧く小出しにしてるからこそ続いてる。それほどまでに消耗が激しい世界っちゅうこっちゃね。

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 おれは純粋に享受するだけの立場なので、エラそうに講釈垂れる資格はない。ただ、例えばもし子供がギャグマンガ家になりたいと言ったら必死で止めるだろう。
 笑うのは簡単だ。笑われるのも簡単だ。でもホンマ笑わせるのは塗炭の苦しみを伴う途方もなく大変な作業なのだ。そんな中でも特にマンガで勝負していくのは最もハードな部類に属するだろう。それでなくてもマンガ家自体が労働集約型の過酷な労働なのだし。

 「笑い」とはよほど創造の神の恩寵を受けた者でなければ、決して志してはならないものであり、中でもギャグマンガはさらに武の神の寵愛を受けたほどの超人的なタフネスまでが求められるのである。

2010.03.27

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