「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
そこに未来はあるんか?・・・・・・岳南電車


ガランとした岳南江尾駅の様子。

 関東に越して来て20年以上になるっちゅうのに周辺の地方私鉄の中では妙に縁が薄く、興味は持ちつつも未訪のままになってたのが岳南電車である。東海道本線の吉原って駅から10km弱ほどの小私鉄で、路地裏とか巨大工場の塀の横みたいなところを走ってるちょっと変わった路線だ。元々は岳南鉄道って名前だったのが、貨物廃止に伴う収益状況の悪化から、お決まりの分社化ってので切り離され、岳南電車って名前に変わって7年ほどが経つ。岳とは富岳・・・・・・すなわち富士山のコトですな。その南っ側を走るから「岳南」、と。
 おれも後から知ったんだけど、その歴史は意外に新しく、戦前から存在してた日産工場までの数百mの引込線を段々と延長するカッコで路線が伸びて行き、最終的に今の形になったのは戦後10年近く経った頃らしい。

 実のところ、吉原から東方に位置する終点の岳南江尾までは、直線距離だと5kmもなかったりする。しかし、線形は逆「つ」の字を描くように一旦西に向かい、大きくUターンして回り込んで向かっている。遠回りなコトに加えてもちろん単線だし、電車はボロいし、路盤の整備状況もアレだから、終点までは20分以上掛かる。平均時速で30km以下という、現代の感覚からすれば実にノンビリした速度だ。自転車どころかちょっと足の速い人が近道すれば勝てるかも知れない。
 何でそんな奇妙な線形になったのかっちゅうと、要は貨物輸送が主体の殆ど貨物線に近いものだったからだ。最近はスッカリ日本の貨物線も減ってしまってなかなか説明しづらいのだけど、林立するあちこちの工場への原料の搬入と製品の搬出を行うために、多少遠回りになっても(・・・・・・ってーか、鉄道だからいきなり直角に曲がったりが出来ない)工業地帯をグネグネと丹念に縫うように、あちこちに引込線の分岐を作りながら敷設されるという特徴がある。だから上空から見ると、部屋に子供が好き放題にプラレールを繋げたように・・・・・・って言うとちょと可哀想か、唐草模様あるいはアラベスクのようになっていることが多い。
 岳南電車もかつて貨物輸送が主体だった頃には、まさにそんな風景が広がってたという。ニワカには信じがたいけど、最盛期には引込線の総延長の方が本線より長かったとまで言われるくらい、引込線だらけの路線だった。その当時に行っときゃ良かった!と悔しがってももう遅い。いつでもおらぁこのパターンだな、トホホ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 終点の岳南江尾駅は、巨大な空漠の中にポツンとあった。Y字に分かれた線路が末端で再び1本にまとまることは今はもうなく、中途半端に窄まりかけたところでぶった切られ、引上線となっていたあたりには住宅が建つ。北側の三島化工へのスイッチバックした引込線も、隣接する紙工場との間に何本も敷かれてたであろう側線も全て取り払われ、砂利やアスファルトで一面に敷き詰められている。不思議なくらい手入れは行き届いて雑草は全く生えておらず、駅構内は何だか乾き切った砂漠のようだ。陽光降り注ぐ夏日、何とも無残な抜け殻のような風景が広がる。
 江尾の駅自体、ココが終点である必然性があまり感じられない立地である。歴史を感じさせる街道筋に家が立ち並ぶあたりからはかなり離れてるし、駅のすぐ南には一面に田圃が広がってるし、新幹線の高架がさまざまな動線を断ち切るかのように伸びてるし、これぢゃあんましお客さん来ないよな~、って思う。一説には沼津まで延伸するハズが、資金難で断念してこの特に何もない場所が終点になっちゃった、って説は恐らく正しいんだろう。

 次の神谷はそんな旧い集落にムリヤリ線路を曲げて立ち寄りました、ってな風情の小さな駅だ。でも近隣にそれほど人口があるワケでもなし、何でこんなトコを電車が通ってんだろ?って思う。次の須津(実は超難読で「すど」って読む)も似たようなカンジだが、駅としては結構大きく、かつては側線が何本もあったみたいな構内だ。しかし近所に特に工場は見当たらず、思うに貨車を並べたり仕分けたりするヤードだったところににホームをくっ付けたのではないか?って気がした。

 続く岳南富士岡は沿線随一の大きな駅で、小さいながらも修理工場を備えた二線の車庫や何本かの側線があり、休車となった電車、何かの時のために残したと思われる貨車、貨物列車華やかな頃には大活躍してたマルーン色で前後にデッキの付いた古色蒼然たる電気機関車等々が今も留置されてる。ひょっとしたら電気機関車は何かのイベントには動かしてたりするのかも知れない。
 写真撮りながらウロウロしてると、そのうち遠くで味のある音で踏切が鳴り始め、ユックリユックリ、二枚窓で緑色した東急のお下がり電車がやって来た。

 次の比奈との間には、今も何に使うつもりなのかヤードが残ってたりする。ここから起点の吉原までが最もあちこち引込線が分かれてた区間となる。駅出てすぐのアデカの工場にも線路跡が見えるし、北側の興亜工業にもヤードをかすめるように引込線が分かれてたと思われる。

 比奈は、江尾をもっとだだっ広く空漠にしたような駅だった。今はオンボロの駅本屋以外、ゾッとするほど何も残っておらず、夏日の照り返しが眩しい。駅の周囲は日本製紙を頂点とする分業化された製紙工場ばっかしで、あちこちに路盤跡が見える。本線自体も日本製紙の工場の敷地内のようなトコを抜けて次の岳南原田に向かう。

 駅はどれも歴史が比較的新しいのと産業用の路線だったってのもあって、あまり個々の個性はない。駅舎は概ねノッペリした粗末なモルタル作りの平屋に赤いトタン屋根、一部は宣伝用にファサード状の囲いが付いてたりするが、まぁ大体同じような感じだ。ホームも対向設備のある駅はすべて島式ホームで、イチョウ型っちゅうかエリンギ茸をスライスしたような形に細身の鉄骨を何本も曲げて作った、他にあまり類例のない独特のデザインの屋根が載っている。これだけはどれも実用一点張りで無骨で素っ気ない鉄道のストラクチャーの中で唯一、典雅さを感じるデザインだ。しかしこんなに華奢な造りで風とかに耐えてるのが不思議なくらいの繊細さである。まぁ、昔の鉄パイプだから見かけよりは厚みがあって強いのかも知れない。

 そんなんだから後はもう割愛しても構わないだろう。言えることは岳南原田からも、本吉原からも引込線はかつて分岐していた。引込線の無かった駅なんて、商店街の狭い隙間みたいなトコにムリヤリホームを押し込んだ吉原本町くらいではなかろうか?今は「ジャトコ前」と名前を変えた、この鉄道の起源ともなった日産前を過ぎると後は吉原だ。

 大きなロータリーを持つJRの立派な駅舎から随分離れて、クルマ1台がやっと通れるような細い路地の奥に古びた岳南電車の吉原駅はあった。JRのホームに直接繋がる連絡口の方が遥かに立派だ。ホンマに間借りしてる感じやね。まぁ乗客の殆んどは乗り換え客だろうし、ここから切符を買って乗ろうなんて物好きは滅多にいないのだろう。
 紙の街、ということもあってか窓口脇の土産コーナーでは、鉄道グッズとしては珍しく御朱印帳なんてモンが売られている。富士をバックに走る電車を刺繍にしたエラくシブいデザインだ。最近、御朱印集めにハマッてるヨメに一冊買った・・・・・・が、も一つウケは悪かった(笑)。入場券が硬券なのも、やはり紙の街のプライドかも知れない。
 遠くを見ると、線路はどれが本線だか分からないくらい複雑に分岐している。日本のあちこちから来て日本のあちこちに向かってく貨車の授受のためにそんなややこしいことになったんだろうが、今はもう貨車の姿は一両も見られない。産業の黄昏の倦んだ景色がそこにもあった。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ノスタルジックに書いてみたけど、吉原の駅の向こうはすぐ港になっており、そここそが高度成長時代にヘドロ公害で悪名高かった田子の浦だったりする。社会問題として大きく取り上げられ、挙句、「ヘドラ」や「ヘドロン」なんて怪獣が生まれたりもした。それらはすべてこの岳南鉄道沿線の製紙工場が垂れ流したパルプ滓やらなんやらが海底に沈殿したモノだった。積もりに積もって港の水深が浅くなってしまうわスクリューに絡まるわで船が入れなくなった、っちゅうんだから、もぉムチャクチャである。今の中国の工場廃液の垂れ流しなんてメぢゃないくらい、バンバンに流しまくってたのである。また製紙には大量の水だけでなく、漂白のための酸や中和のためのアルカリ、湯を沸かすから重油なんかも大量に必要になる。だから水質汚染だけでなく大気汚染までが凄まじかった。吞気に小学校では「太平洋ベルト地帯」なんて教える一方で、現地の環境の劣悪さがとんでもないレベルにまで達してた時代だ。

 そうした災厄の元となる物資を黙々と運び続けることでこの鉄道は成り立ってた、という皮肉な見方も当然できるだろう。最盛期、屋台骨を支えてた貨物輸送量は年間100万トンを超えていたと言われる。しかしいつしか時代は変わり、生命線は断たれた。

 70年頃は大小150社もあった製紙会社も随分と減って、資本力のあるトコだけが残った。もうそんな廃液をそのまま垂れ流すなんて無法なことはしてないし、できるワケもない。排煙もそうだ。それに国内で多少粗悪でもバンバン大量に作る時代、なんてのがとうに過ぎてしまった。付加価値の少ないものは外国で作った方が安上がりだ。オマケに世の中ではペーパレス化がドンドン進む一方だったりもする。
 さらに岳南鉄道のルーツの一つとなった日産の青息吐息ぶりにしても、今更ここで書くまでもなかろうってな状況だ。「ヤッちゃえ!」なんてトボけたセリフを、矢沢永吉やキムタクに吐かせてる場合ちゃいまっせ。

 今や孤立無援とも言える状況に対して何とか延命を図ろうと、工場夜景列車や富士山ビューポイントなどと、あれこれアイデア捻って頑張ろうとしてるコトは事実だ。何と、架線を使った送電事業さえ考えてるらしい。そのうち濡れ煎餅なんか焼き始めたりして。でも、すべての施策が蟷螂の斧みたいなモンであるコトは論を待たないだろう。

 岳南電車・・・・・・戦後日本の経済発展に歩みを合わせ、時に翻弄され、そして気付けば大きく転換した産業構造の中でポツンと取り残されてしまった、何とも功罪半ばするような不思議な私鉄であるってことだけは間違いない。

2020.11.20

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved