「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
天命は余徳!・・・・・・穴山温泉・能見荘


いやまぁ、ケッコーとんでもないオヤジっすよ(笑)。

 第何次か知らないけれど、現在の日本が登山ブームなのは概ねみなさん異論のない所ではなかろうかと思う。そして、そのスタイルは昔よりは多様化が進んでたりするから一括りにはできないとは申せ、間違いなく相当数の「百名山マニア」が存在する、っちゅうのもこれまた異論のない所ではなかろうか。
 コンプリートしなきゃ気が済まないって気質の人は世の中に案外多くて、ポケモンを筆頭にディアゴスティーニやハシェット等々、その辺の心理を巧く突いたマーケティング戦略は大体上手く行くモンと相場が決まっており、この百名山もまことにそのような人にピタッとハマッて、西に東に完全制覇を目指して奔走しているケースが非常に多い。それどころか今では如何に早回りでコンプリートするか?みたいなんに血道を上げて、挙句悪天候を押してムリして登って遭難するケースまであるっちゅうから困ったモンだ・・・・・・で、そんな百名山を定めた(?)のが作家の深田久弥であった。まぁ、罪作りな人ですな(笑)。

 「日本百名山」は最初、雑誌に連載され、それをまとめる形で書籍としては昭和39年に出版されてる。ただ本人、戦前からかなりの山好きであって、その原型となるエッセイは一部既に戦前に既に書かれてるし、それに実はこの人以外にも百名山を選ぶ動きはあったりもした。まぁ「世界の最も偉大な100人のギタリスト」っちゅうたらローリング・ストーン誌が有名なんだけど、実はギター・マガジンでも選定してるようなモンやね・・・・・・こっちは世界的には全然知られてないな(笑)。

 さてさて、「作家」の深田久弥って書いたけど、実はいっちゃん肝心の点でこの人、かなり怪しかったりする。首吊りの足を引っ張るようなマネしても仕方ないんで、詳細はウィキでも見ていただければ良いと思うが実にヒドい話で、平たく言うとヨメをゴーストライターにして、その焼き直しを自分の作品として発表してたのだ。
 そのまま夫唱婦随の共同作業(?)でやってりゃバレなかったんだろうが、新しいオンナができて子供までデキたもんでモメて、怒った元ヨメが何もかんもバラして世人の知る所となってしまった。戦後すぐのコトだ。当然ながら文壇からは抹殺である・・・・・・まぁ、抹殺されずとも元々小説家としての才能にはイマイチ乏しかったみたいだから、生き残ることはできなかったろうが。

 実のところ「日本百名山」は、そんな零落した深田久弥が糊口を凌ぐための売文稼業で、元々大好きで詳しかった山をネタに始めた随筆だと言えるだろう。
 ところがどっこい捨てる神あれば拾う神あり、落魄は菩薩(笑)、これが当たっちゃったのだ。

 これに味をしめて・・・・・・もとい気を良くして、さぁ次は二百名山だっ!って色々計画してた矢先、彼は登山の途中で脳溢血でポックリ死んでしまう。山梨の茅ヶ岳ってワリとマイナーな山だ・・・・・・で、その前の晩に泊まってたのが今回ご紹介の穴山温泉「能見荘」なのである。

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 今や「深田久弥終焉の宿」とかで登山者にはケッコーな人気を誇るこの宿、実は登山口にあるワケでもなく、山小屋風な作りでもない。中央本線の韮崎のちょっと先、穴山って駅から数百m東に上がったところにある落ち着いた雰囲気の一軒宿の鉱泉だ。この辺は平行して流れる釜無川と須玉川の浸食を受けた南北に細長い台地状になっており、韮崎を出た中央本線はその特殊地形の中を大きく何度もカーブしながら小淵沢に向けて高度を稼いで行く。周囲はこれと言った特徴がなく、民家や畑が点在するだけだ。元々は農閑期の近郷の人の湯治場、ってなロケーションと言えるだろう。風景は上述の通り少し特異ではあるものの、つまりおれの大好きな典型的な「村の湯」である。

 しかし宿は決して鄙びて素朴、ってワケではない。小さいながらもシッカリした建物だし、隅々まで手入れの行き届いた庭園の一角には数寄を凝らした茶室まで建てられてる。こんな乱暴な言い方はいささか躊躇われるが、如何にも「文人墨客の愛する宿」といった落ち着いた風情がある。痩せても枯れても深田久弥、やはり文芸の人の端くれだったワケだ。

 登山の基本は早発ちゆえか、あるいは微妙に登山シーズンを外れた時雨模様の初冬の頃だったからか、訪ねた時間、宿は静まり返っていた。来訪を告げると70前後のおっちゃんが出て来た。早速入湯をお願いする。寒いし早く温もりたい。
 風呂に特筆すべき点は残念ながら、ない。男女別のタイル張りの浴室には、鉱泉ゆえに小さめの湯船が隅に一つだけあって、ホンの僅かに白濁した熱い湯が湛えられている。泉質は何だったっけ?良く見なかったっす。

 それにしても浴室といい脱衣場といい、いや館内全体に共通するのは陳列品やポスター、飾りといった装飾物が極端に少ない感じがすることだ。決して殺風景ってワケではないんだけれど、余分なモノを飾らず何かとてもプレーンでスッキリした印象があって、このテの旅館に良くありがちなゴチャッとしたトコがない。ここの旦那や女将の趣味、あるいは方針なのかも知れない。

 上がると、唯一ロビーのソファの置かれた壁の一面だけにいろんなポスター等が張られてる。そこには控えめながらパネルで深田久弥に関する色紙や写真もあった。眺めてると、ヒマなのか旦那が話しかけて来た。

 ------今日はどちらから?
 ------あ〜、八ヶ岳の海ノ口の方から下って来ました。
 ------もぉお帰りですか?
 ------はい、後はどっかでお昼食べて東京に帰ろうと思ってます。天気もイマイチですし。
 ------急に寒くなりましたしねぇ。
 ------そうなんですよ。こちら、深田久弥、最後の宿ってんで寄ってみたんです。
 ------(「ふかだきゅうや」と正しく読めたのがちょっと意外そうな顔で)あぁ〜、ご存知でしたか?
 ------高校の頃に読みました。百名山。
 ------そうだったんですね。いやそこの座敷でね、前の晩に7〜8人で宴会されてたんですよ。私まだ高校生だったんですけど、覚えてます。
 ------宴会?次の日山登る、っちゅうのに?
 ------そうなんですよ。それでそのままそこでみんなお休みになられて・・・・・・
 ------要はツブれて??
 ------う〜ん、それは分かりませんけど。でもまぁ、あんなに呑んでロクに寝ないで山登っちゃぁ、そりゃ具合も悪くなりますわ。

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 ・・・・・・もぉちょっとは何か含蓄のありそうなエピソードを期待してたんだが、気持ち良いくらい見事に裏切られたのだった。

 むしろ深田久弥のダメっぷりは清々しくさえもある。もぉエエ歳やっちゅうのに、次の日は朝からそれなりの標高の山に登るっちゅうのに、なのに夜遅くまでみんなで宴会してたら、そら脳溢血も起こしますわな。ガキでも分かる理屈やで。
 でもそんなことはお構いなしに、そもそもは糊口を凌ぐために書き始めた百名山は名作として読み継がれ、活用され、ただドンチャン騒ぎした穴山温泉は終焉の宿としてファンが訪れる。

 たしかに会話にある通り、おれはもぉ40年近く昔に百名山を読みはした。でも、ぶっちゃけあまり心を動かされることはなかったのが忌憚のないところだ。センスが古いっちゅうか、平明は平明なんだけどキレが悪いっちゅうか毒気に乏しいっちゅうか・・・・・・どうして太宰治は心中を図る直前にこんな人のトコをわざわざ訪ねてったんだろ?とその時は思ったくらいだもん。

 しかしその後、冒頭に挙げたようなトンデモな話を知り、さらには旦那からこうして最後の晩のエピソードを聞くに至って、おれは俄然彼のファンになってしまった。一言で言って「仕様のないオッサン」以外の何物でもないですやん。何か物書きとか登山家とかちゅうたらとても高尚な存在のようについつい思えちゃうけど、やってるノリは殆ど勢いでGO!なチャランポランで無責任な遊び人に近い。マンウォッチングの天才だった太宰は、ひょっとしたら深田に自分と同じダメっぷりを嗅ぎ取ってたのかも知れない・・・・・・っちゅうのはいささか穿ち過ぎか。

 おそらく深田久弥って人は孤独な創作者っちゅうよりはむしろ、色んな仲間・知己・ツテ・先輩後輩といった人脈を沢山作ってだか寄って来てだか知らんけど人に恵まれ、それでワイワイやってるうちにおもろい場や形が生まれてくるような、今で言えばコーディネーターとかプロデューサータイプの人だったんぢゃなかろうか。なんかなんでも詳しいし楽しいし、コネもある、本業は何やってんかは良く分からんけど、あちこちにクビ突っ込んで、なんとなぁ〜く渡り歩いてる、みたいな人。今でも業界にケッコーいるでしょ?いやまぁ、没後そろそろ50年、ホントのことは分からないんだけどさ。

 ・・・・・・そんなコトをあれこれボンヤリ考えながら、雨の中央道をおれは帰路についたのだった。


※タイトルは分かる人なら分かりますよね?あぶらだこ・「天狗の畦道」の歌詞の一部です。「落魄は菩薩」も同曲から。 


寒さで湯気に霞む浴室内部。

2020.01.22

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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