「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
米坂線を行く


かつての越後金丸駅。雪の中、9600の牽く長い貨物列車が入線するところ。
その後方には鉱山からの索道と木造の巨大なホッパーが見える。

https://www.pinterest.jp/より

 米坂線とは山形県の南、交通の要衝である米沢と、新潟の北、日本海からはちょっと内陸に引っ込んだトコにある坂町を繋ぐ全長90kmほどのローカル線である。米沢と坂町だから米坂線。良いよね、この「街の名前を一文字づつ取って路線の名前にする」って。如何にもローカルな感じがあって好きだ。
 実は坂町自体はそれほど大した町ではない。あくまでここは通過点であって、狙いは新潟最北端の商都である村上や、これまた新潟の一大ジャンクションである新発田、またその先の新潟市との交通の便を考えて建設された路線と言えるだろう。いやいや、米沢もまぁ通過点だった。その先の福島や山形、さらには仙山線を超えて仙台とのショートカットを考えてたんだろう。全通したのは昭和11年だから、日本が急速に戦争に向かってた頃であり、当然ながら軍事物資の輸送も大きな役割の一つだったと思われる。

 ・・・・・・っちゅうか、当時の鉄道建設なんて軍事目的がほぼ大半を占めていたと言えるだろう。如何に有事に際して武器や兵隊を運べるか?鉄砲や大砲の原料になる金属類が沿線で産出されるか?要は富国強兵に役立つモノがあるか?ってコトだ。この「超」の付く豪雪地帯にして人口希薄地帯を通る米坂線にしても、途中にタングステン・モリブデン・マンガン(いずれも堅い合金を作ったり、摺動性を高めるのに欠かせない)の採れる金丸鉱山ってーのががあったコト、舞鶴と並ぶ日本海側の重要な軍港である新潟、今も自衛隊の基地があって軍都の性格の強かった新発田等への交通の確保が求められて出来たようなモンだと思う。もちろん飯豊山塊を行く路線だから木材の輸送だって多かったが。
 余談だがそんな金丸鉱山、意外にしぶとく平成20年頃まで生き残ってたんだけど、そこはやはりバカみたいに雪が降るところで劣化も早かったのか、あるいは閉山と同時に施設を解体・整地しちゃったのか、現存する遺構が殆どないのが残念だ。

 言うまでもなく今は、巨大なローカル線として廃止が取り沙汰されるようなまことにお寒い状況にある。それもかなりヤバい。営業係数は257.3・・・・・・つまり100円の売り上げを上げるのに260円弱掛かってるって意味だ。全線を走る列車は一日僅か5本、あまりの利用客の少なさに廃駅になったのが2ヶ所・・・・・・80年代くらいまではそれでも「あさひ」「べにばな」ってな急行も走り、それなりに日本海側と置賜、あるいは福島・仙台を結ぶ役目も担っていたが、もぉ全く昔日の面影は残ってない。現役路線なのに路線全体が何だか廃墟のような有様である。その使命はとっくに終わっちゃってるのだ。

 昨年秋、たまたまこの路線沿いに行くコースで旅をして、いくつかの駅に立ち寄ったりもしたので、今日はこの米坂線についてあれこれ書いてみたい。

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 おれの中では「米坂線=雪の中の9600」ってイメージがある。9600っちゅうのは蒸気機関車の形式名なんだけど、純国産第一号として大正の初めから終わりにかけて作られた機関車だ。とにかく頑丈さと馬力優先、スピード二の次で設計されたオカゲで恐ろしく鈍足で、どんなけ頑張っても60kmちょっとしか出なかった。まぁ、こって牛のような汽車だったワケだ。上りに差し掛かるとさらにスピードは落ち、列車から飛び降りて、追っ掛けて走ってってもすぐに追い付けたっちゅうから、どれだけ遅かったか分かる。
 ところがこの這うような低速に強いコトと力持ち、そして同じようなスタイルの後継機が出なかったことが結果的に幸いして、ヤードでの入れ換え等にまで重宝され、SL全廃時、最後に生き残った長寿の蒸気機関車ともなったのだった。
 この9600が開通のワリとすぐ後から蒸気廃止の頃までほぼ一貫して使用されたのが米坂線だった。山間を縫うようにして急勾配が続き、それほどスピードが求められず(・・・・・・それどころか冬など雪崩で線路が流されてるコトもあるから、前方をシッカリ確認しながらでないと危ないことさえある)、一方でそれなりに輸送量があるこの路線にはちょうど向いてたんだろう。

 近畿地方からさえもロクに出たことがなかったガキのおれにとって、そんな新潟だ、山形だなんてまるでもぉ天竺か十万億土のような遠方だったんだけど、貪るようにして本屋で立ち読みしてた鉄道雑誌の情報では、米坂線にはまだ旅客列車にこの汽車の牽くのが残ってるってコトだった。
 掲載されてる写真は、やたら冬に撮られたモノが多かった気がする。なるほど冬は吐く息も白くなるくらいだから、蒸気機関車の煙もより迫力が出る、っちゅうんで冬に撮影されるコトが多かった(あと、茂る木の葉が邪魔になりにくい、っちゅう理由もあったらしい)とは申せ、米坂線の写真の冬率は他線よりも高かったように思う。やはり豪雪地帯をボッボボッボとブラスト響かせて黒い汽車がユックリ走って来る姿の方が絵になったのかも知れない。今風に言やぁ「映える」っちゅうこっちゃね。

 駅での写真には頬っ被りした老人、幼児の手を引く母親、中高生らしき学生、地元名士なのかドサ回りの営業なのかスーツ姿のオッサン等々、けっこう色んなカテゴリーの人々が写ってたような記憶がある。道路事情もまだまだ悪かった当時、冬ともなれば確実なのはやはり鉄道だった、ってコトなんだろう・・・・・・いや、この線だけが特別なのではない。昔の駅の写真はみんなそんなんだった。どんなローカル線でもそれなりに乗客は沢山いた。70年代初めくらいまではまだまだ日本各地のローカル線も、まだ交通インフラとしての一翼を担ってたのだ。

 ・・・・・・ある程度予測は付いてたとはいえ、そんな記憶を木っ端微塵に打ち砕くくらいに、現在の駅は悲惨な状況を呈していた。全部立ち寄ったワケではないが、まぁどれも多かれ少なかれ同じようなカンジだろう。マトモなのは今泉や小国くらいだ。
 見た目だけは立派な駅舎の残る手ノ子は、中身はゾッとするほどの完全なガランドウ、建替えられてオシャレなログハウス風だがやっぱりガランドウの伊佐領、まるで掘っ立て小屋な羽前松岡はそもそもそこに駅を拵えなくちゃならない理由が分からないようなトコにある。鉱山が無くなった今、鉄筋コンクリート造りで二階に宿直室らしき設備まで備えながらあらゆるところが塞がれて何にもない越後金丸、公民館と一体化したもののそっちも空家に見える越後片貝・・・・・・駅員も貨物側線も対向設備も、そして利用客の姿さえも(笑)消えてしまってる。

 ただただひたすらに荒廃して寂しいだけの鉄道風景がそこにはあった。

 ああ、想い出した。もう何年くらい前だろう、仲良くしてたオンナの子が仕事で新潟に出張して、さらにその足で山形に行く、っちゅうんでこの路線を通ってくルートを勧めたことがあったんだ。いやまぁ、旅好きでなかったらとてもオススメできるコースではない。新幹線で大宮まで引き返して、山形新幹線に乗り換えた方が今日びよっぽど早く着くのだから。
 まだ新潟〜米沢間を直通で走る快速「べにばな」が1日に何往復か走ってた頃だった・・・・・・ん!?新津だったかな?ともあれ送られて来た写メの小さな画像には、白と紺のツートンカラーで赤い帯を一本巻いた二両編成のディーゼルが写ってたから、まだキハ52とかの旧型車両が使われてた時代の話だ。

 しばらくは「何か電車(←ママ)が古いです」「うるさくってすごい揺れます」「でも景色はとっても良いです」ってな実況メールがポツポツ来てたが、そのうち山の中に入って電波が届かなかくなったのか、途絶えてしまった。
 次のメールが来たのは翌朝だった。「・・・・・・すごく疲れました」とあった(笑)。そりゃ〜そうだわな。あんな垂直の背もたれのボックスシートで3時間くらい揺られてんだもん(笑)。オマケに山形までだと米沢でさらに乗り換えんといかんのだし。いや〜Kチャン、あん時は悪かったねぇ。悪いオッチャンのアドバイス聞いたばかりに、しんどかったやろねぇ。最近は賀状のやり取りくらいになっちゃったけど、元気してる?

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 山を抜け、谷がだんだん開けて来て、今夜の宿を取ってる関川温泉郷が近付いて来る。荒川沿いに細長く小規模な温泉場が点在する、あんましこれと言った特徴のないトコだ。最近は「ねこちぐら」発祥の地として売り出してる。温泉周辺であと何ヶ所か訪ねる予定のスポットがあったっけ。暗くなる前に行かないと。

 ・・・・・・何のこっちゃない。他人には勧めといて、おらぁ米坂線を見ただけで、結局は乗らず仕舞いではないか。そうだ、おれ自身が鉄道旅行をしてるワケぢゃないのである。モータリゼーションの進展を非難がましく、かつ無責任に語る資格はおれにはなかった。決して感傷や懐古、郷愁で社会は回ってくれないし、詮無いこととは申せおれもそのシステムに呑み込まれ、骨抜きにされてるのだ。


ほぼ同じアングルで撮影。今はもう何にも残ってないことが良く分かる。

2020.01.06

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