「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
「貧困旅行記」への旅・・・・・・別所鉱泉・塩川鉱泉


別所鉱泉・「元湯旅館」浴室。湯が緑がかって見えるのはタイルのせい(ギャラリーのアウトテイクより)。

 つげ義春に前回ちょっと触れたついで・・・・・・っちゅうたら誠に失礼だけど、エッセイスト/紀行文作家としても優れた才能を発揮していた彼の、多分今のところ再録でない最後の紀行文集である「貧困旅行記」にちなむ温泉について今回は書いてみたい。
 未だ呪縛から離れられない・・・・・・もとい熱心なファンがいるみたいで、ウィキペディアには何とこのマイナーな本についてまでも詳細な説明が載ってる。マジでウィキは凄いと思ってしまう。まぁどんな内容か詳しくはそちらを見てもらうこととして、侘しく惨めで、うらぶれてみすぼらしい事物への凄まじいまでの偏執(最早「情熱」と呼んでも構わないかも知れない)と、それらが急速に喪われて行った時代の狭間の貴重なルポルタージュであると言えるだろう。

 ちょっと前に取り上げた鶴巻温泉を再訪した際、次に行ったのがこちらである。件の本の中で「丹沢の鉱泉」というタイトルで一章が割かれ、それで永い間気になっていたのだった。

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 この界隈で比較的規模が大きいのは(・・・・・・っちゅうても実態はささやかなモンだが)、七沢(広沢寺も含んで良いかも)と飯山くらいだろう。その辺はまぁまた行けるやと思って、まずは別所鉱泉を目指すことにする。事前リサーチもしてなかったんで営業してるかどうかも分からない。とにかく温泉と違って元々が零細な冷鉱泉は、人知れずいつの間にか廃業してることなんてザラなのだ。

 厚木と相模原に挟まれた清川村は、宮ケ瀬ダムのオカゲで税収が安定してるのか、余りこれといった産業もなさそうなのに平成の大合併にも加わることなく、未だに愛甲郡に属する村のままである。その村のメインストリートを外れて山に少し入った、煤ヶ谷という地名からして何とも侘しそうなところに別所鉱泉はある。今は道の一番奥に公共の日帰り銭湯で「別所の湯」というのが出来ているが、旅館はそれより少し手前、道から一段低くなった沢沿いに、元々は二軒の旅館が並ぶようにして建ってたという。
 当然ながらつげは、ボロい方の「渓間荘」に強く惹かれたみたいで、元湯旅館のコトは歯牙にもかけない様子でサラッと触れてるだけである。しかしおれたちが訪ねた時には既に前者は解体されて影も形もなくなっていた。どうやら90年代の終わりくらいには既に廃業してたみたいだ・・・・・・そして、元湯旅館にしたってかなりキテる雰囲気だった。

 人気のない静まり返った玄関を開け、大声で訪問を告げると、結構な間を置いてジーサンが何だか能でも舞うようなスピードでノロノロと現れた。こりゃぁ期待薄かな?と思いつつもダメ元で入浴をお願いすると、風呂に入りに来てスッと入れることに驚いてちゃダメなんだろうが(笑)、チャンと沸いてるっちゅうではないか。入浴料はたしか一人700円だったと思う。
 混浴の浴室は入口のすぐ横にあった。建て替えではないが、建物含め全体の内外装を近年大きく直したらしく、脱衣場はちょっとログハウスっぽいニス塗りの板張りになっており、掃除も行き届いててとても清潔感があるのが嬉しい。鉱泉宿がボロいのはともかく(それがワビサビに繋がってんだしねぇ)、不潔なのはやはり勘弁してほしい。
 浴室内部は鉱泉としてはかなり大きな、横に細長い岩風呂がドーンとあって後は広い洗い場、片隅には岩を積んだ飲泉所が設えられてある。外は晴れて明るいのに、谷間で陽当たりが悪いせいか少し薄暗い。しかし却ってそのため森閑として落ち着いた雰囲気があるのが好ましい。
 こちらもリニューアルはされてるようだが、全体的な造作としてはオリジナルの姿を保ってるように思われた。浴槽に沿って大きく腰高の窓が並ぶものの、残念ながら外は細かい緑のメッシュシートで目隠しされており、あんまし眺望は開けない・・・・・・まぁ、開けたところで、つげの記述を借りるならば「ただのドブ川を見るようで風情も何もない。人家に囲まれて景色はまことにつまらない」のだけれど(笑)。
 泉質は硫黄泉らしいが、全く以て何の特徴も感じられない。そぉ言われれば、くらいなレベルでちょっとヌルッとした感じがあったんでアルカリ性であることは確かだろう。でもそれ以外は何だか良く分からなかった。まぁ、「佇まい至上主義」なおれとしては泉質なんてどぉでも良いことだが。

 外を見ると宿から対岸に渡る小さな橋が掛かっており、そちらには座敷っぽい離れが建っている。つまり結構大きな旅館なのである。厚木が農村地帯であった頃は農閑期の湯治場として、また高度経済成長の時代には近場の便利な宴会会場需要なんかもあって、それなりに流行ってたんだろう。
 時代は移り変わり、今ではすっかり寂れちゃってるけれど(多分宿泊客なんて滅多にないに違いない)、それでも丁寧に宿の内外を掃き清め、湯を沸かし続けてるのは、鉱泉場としての矜持なんぢゃないかとおれには思われた。

 ・・・・・・結論、別所鉱泉・「元湯旅館」は平々凡々とした山村風景の中に埋もれたとても良い雰囲気の鉱泉宿だったのだ。「貧困旅行記」をバイブルのように読んだ人には申し訳ないが、あんまし神格化してつげの意見を鵜呑みにしちゃいけない。

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 続いてはそこから3〜4km北にある塩川鉱泉だ。中津川沿いの国道412号の旧道を西に折れて200mほど狭い谷沿いに入ると、最奥に塩川滝というかつては修験の行場だった滝があり、その途中に宿が点在する・・・・・・って、一番手前が「こまや」、その奥が「優喜山荘」、さらに奥が「滝ノ家」だが、おれが訪ねた時点でも既に残るのはこまやだけになっていた。滝までは道の突き当りから鉄の赤い階段と橋を登って行く。数日前の雨で滝は水量を増し、凄まじい轟音を立てて流れ落ちている。こんなトコで六根清浄とかゆうて印を結んで滝行したら一発で流されてしまうだろう。

 この塩川滝についてつげは、次のようにひどく陰々滅々とした場所だと記している。

 ------自然の景色でこんな陰気は見たことがない。まったく救いがない。身も心も泥のように重くなる。

 ・・・・・・そらまぁ山蔭の狭い谷間で陽当たり悪くてジメジメしてるとは申せ、ぶっちゃけそこまでではない。むしろゴーゴーと音を立てて流れ落ちる滝の様子は勇壮でさえあった。隠遁生活の衝動に駆られたっちゅうお堂は建て替わってしまって元の様子は分からないものの、それもそこまで陰気だったとは思えなかった。そんな風に書かせたのは、当時の彼の精神状態に拠るところが大だと思う。

 陰惨だったのはむしろ滝ノ家の廃屋だ。当時、鉱泉経営を本気で考えてた彼が、最後にこの滝ノ家に寄って、脱サラしてここを買い取ったという主人に会って鉱泉宿の経営について色々訊こうとするものの、生憎留守で会えず仕舞い、ってなトコで話は終わってる。
 そんな滝ノ家は、塩川鉱泉では実は最も古い歴史を持つ旅館だったみたいだが、力尽きたのも最も早かった。今では伸びた雑草に半ば埋もれるようにして、主を喪った建物が悄然と残る。ちなみにウソかマコトか一時期、あのオウム真理教が買い取ってアジトにしてた、っちゅう物騒な噂があるけど、本当のところは分からない。

 浴室の窓が開いてたので外から覗き込んでみる・・・・・・廃墟に目覚めた今ならもっとズカズカと入ってるだろうな(笑)。洗い場は広いワリに、浴槽は2人も入れば一杯の小さいイチョウ型のが申し訳程度に隅っこにあるだけ。典型的な鉱泉の浴室だ。ともあれ機関誌だのヘッドギアだの尊師の御真影だのオウムを物語るようなものは特に見当たらなかった。しかし洗面器やシャンプー、あるいは干されたタオルやジャンパーなんかがそのままに残っており、最近まで使われてたのが突然放棄された雰囲気があって、犯罪現場のような生々しさが感じられる。オウム云々を抜きにしても何ともブキミではあった。

 今は日帰りお断りになってしまった「こまや」も当時はまだ引き受けてくれてた(それどころか貸切の露天さえ備えてた)ので、入っても良かったのだが、何だかこの廃墟の放つ負のオーラみたいなのにやられて気分が落ちて、結局この塩川では入らず仕舞いだった。だから塩川については懐かしいって感情があんまし湧いて来ない。

 小さな旅は終わった。

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 あれから10年ほど経った。

 残念なことに元湯旅館も今は廃業してしまった。ありがちなケースで、老夫婦が亡くなるとともに店仕舞いしたんだろう。訪ねた時点でも80をとうに過ぎてる感じだったし。しかし、廃業は別所鉱泉だけにとどまらず比較的大きな七沢や飯山も商売畳む宿がポツポツと出てる有様である。
 今更申し上げるまでもないが、おれも温泉や鉱泉に対する情熱が随分と失せてしまい、今では落穂拾いのように宿泊先になんとかかんとか温泉を組み込む程度になってしまった。余程興味が湧かない限り、昼間、旅の途中で立ち寄ることもない。だから二泊三日の旅行でも入ったのは2ヶ所とか、実に情けない体たらくで、もぉ往年の勢いは全くない。

 2000年台初頭につげの生活費を捻出するために企画された(!?)、「つげ義春の温泉」って寄せ集め本がある。実はこの中にも「丹沢の鉱泉」は再録されてる。
 それはともかくこの本の後書きで彼はこのように述べてる。

 ------私の温泉離れも、みすぼらしい景観が少なくなったことが原因といえるかもしれない。

 天才とは自覚的であるかどうかはさておき、予見的な存在のことを言うのだとやはり思う。


珍しく大胆な開脚ポーズで(同上)

2019.11.17

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