「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
惜別、蟠渓温泉・伊藤旅館


岩風呂の様子(ギャラリーのアウトテイクより)

 正しくは蟠渓温泉・「伊藤温泉旅館ひかり温泉」というらしい。北海道にしては珍しく、内地風で素晴らしく古色蒼然とした建物が印象的な宿だったが、残念なことに今年(2018年)の5月に廃業してしまった。
 たまたまネットでヤフーニュースかなんかボーッと見てて、最近道内では温泉宿の廃業が止まらない、ってな見出しを見付けて気になって読んでみて、それで遅まきながら知った次第だ。同じ記事で、ニセコ方面で以前行き損ねてた鯉川温泉も廃業してしまったことを知った。本当に寂しい時代だ。
 日帰り温泉に押されて云々、などと紋切り型の分析がされてたけど、でもホンマにそれだけかいな?って気がしてる。

 これ言っちゃうとミもフタもないんだけど、そもそもの蟠渓温泉が今ではどうしようもないくらい寂れた温泉地なのだ。かつてはローカル線とはいえ倶知安と伊達紋別を結ぶ国鉄・胆振線が80年代半ば過ぎまで走っており、近くに駅だって存在した。本数少ないとはいえ札幌との循環急行まであってその停車駅でさえあった。もちろん用もなく線路が通ってたわけではない。この辺一帯には徳峻別・脇方等に代表される高品位な鉄鉱山が幾つもあって、戦中〜戦後に掛けて大いに賑わったのである。
 昭和18年、突然畑がモリモリ盛り上がってできた昭和新山によって、胆振線は火山活動が終息するまで、恐ろしいことに日本中から保線夫を動員してほぼ毎日(!?)、不眠不休で線路の付け替えを行ってるが、そこまでして列車を通したかったのも、ひとえに鉄鉱石を輸送したかったからである。時局もあって国策的にひじょうに重要な路線だったワケだ。そしてこの蟠渓にも幸内鉱山という鉄鉱山があった。今の姿からはとても想像が付かないけれど、温泉街はその頃が最も華やかな時代だったようで、温泉芸者まで抱えた結構な歓楽街だったらしい。
 今は全て閉山となってるのは言うまでもない。鉄鉱石が運ばれてった先である鉄の町・室蘭にしたって高炉の火が消えて久しく、広大なヤードを有していた室蘭駅は移転して、唖然とするほど小さな終着駅となり、あちこちで閑古鳥が鳴いてる・・・・・・そして蟠渓温泉も。

 蟠渓温泉は洞爺湖の東岸から東に10kmほど山の中に向かった方にある、長流川に沿って数軒の宿が侘しく並ぶ温泉場だ。今では「オサル湯」という河原の野湯でむしろ有名かも知れない。ちなみにもう少し北に上がったところには北湯沢温泉というのもあるんだけど、こちらもかなり寂れた路傍の温泉といった印象だ。どちらの温泉も湯量豊富で泉温も高く、いわば温泉地としてのポテンシャルは相当あるワケで、何だかとても勿体ない気がする。

 実は今から四半世紀以上前の平成4年に、蟠渓へは最初の訪問をしている。そして意外に思われるかも知れないが、今回取り上げる伊藤旅館はその時点では廃業しちゃってたのだった。その後、新たな経営者が現れて営業を再開したものの再び力尽きて廃業に至った・・・・・・っちゅうのが今回の顛末である。
 あの時、仕方なく入ったのが「ふれあいセンター」というわりと新しく出来た地元の老人向け日帰り施設と、それ以前から存在したと思しき古めかしい「健康センター」というのだった。件の「オサル湯」の前にある切妻の面をこちらに向けた、今では廃墟となった建物がそれである。前者はまぁどうでもいいような共同浴場だったけど、後者は内湯のみの混浴でタイル張りの湯船が一つだけという、古い姿をそのままに残したシブい施設だった。ちなみにオサル湯はまだごく一部の地元温泉マニアが知ってるくらいで、世間的には知られてなかったと思う。知ってたら絶対に入ってるハズだもん(笑)。

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 それから20年後に訪れた蟠渓は、昔の記憶とあんまし変わってなかった。今回はオサル湯が主な目的で来たんだけど、伊藤旅館はいつの間にか「ひかり温泉」として復活してたのだった・・・・・・って、恥ずかしながら記憶が朦朧としてて、今回これ書くのに昔の自分の旅の記録を見直すまで、その旅館が伊藤旅館が再興したものとは気付かなかった。本当ナサケない。おれもヤキが回ったもんだよなぁ〜・・・・・・シオシオのパー。

 冒頭に書いた通り、明治16年に建てられたという建物は、随所に手を入れられてはいるものの、温泉旅館としては道内屈指の歴史を誇る。鉛丹葺きで浅い入母屋造りの屋根はどちらかといえば内地風で、東北あたりの古い温泉地とかにでもありそうな風情だ。新建材であちこち覆われちゃってはいるものの、良く見ると隅々にまで数寄を凝らした細かい部分の造作に、かつての旦那衆の集う歓楽の雰囲気が感じられる。

 入湯料はとても良心的でたったの400円。浴室は岩風呂、内湯、家族湯の3ヶ所に分かれている。まずは入ってすぐの岩風呂へ。事実上の混浴みたいな作りで、半露天になってる。どうやら元々はチャンとした建物があって男女別の内湯の岩風呂だったのを床周り以外の壁とか天井とか全部ぶっ壊して半分を波板で囲い、残り半分を露天の足湯に転用したみたいだ。かなり乱暴だな(笑)。屋根は折板だし、何となく団地の自転車置き場の下で風呂入ってるような感じだ。まぁ、手直ししようにも予算的に厳しかったんだと思う。
 しかし、午後の光が差し込む浴室はそんなに悪くない雰囲気だった。

 続いて家族湯・・・・・・あ〜、こりゃムリ!ムリですわ。狭いし激熱だし湯気濛々だし。なもんですぐに最も古くからあったと思われる内湯に。

 北側にあって薄暗く落ち着いた雰囲気の一面水色な浴室は随分年季が入っており、またいささかくたびれた感じで、タイルにしたって補修の痕だらけだ。恐らくかつては混浴で、中央に大きな小判型の浴槽、壁の周囲に小さな浴槽が点々とあったのを壁でムリヤリ半分に仕切って別浴にしたのだろう。男女を分かつその壁はグラスファイバーかなんかのパネルを一面に枠材に貼り付けたものだ。どうにも後からの改修が全体的に安っぽいのが難点のど飴だけど、端っこにあるドアは壊れており筒抜けに行き来できてしまうのが大らかで良い。そんな仕切壁には如何にも手作りな稚拙なペンキ絵で、温泉音頭と付近の観光名所を描いたマップが懸かっている。

 周囲にある小さな浴槽は「あつ湯」となっておりかなり熱いが、真ん中の湯船は「ぬる湯」っちゅうだけあって適温で、サラッとして清澄な泉質もあっていつまでも入ってられる。このダウナーでレイドバックした雰囲気は、絶対に日帰りのスーパー銭湯みたいなトコでは味わえない。個人的には最高だと思うけど、きょう日、果たしてそれを理解する人がどれだけいるのか、っちゅうとかなり心許ない。実際、休日だというのに入浴客はおれたちだけだった。そらそうだ、こんなに古びてボロい浴室をありがたがるのはマニアくらいなモンだし、マニアったって理系崩れの泉質至上主義なバカではこのシブい佇まいは理解できないだろう。

 風呂上り、館内をウロウロしながら写真撮ってると、女将さんから「折角なんで二階も見て行ってください」と嬉しいお声を掛けていただいた。恐らくは一番オリジナルの形が残ってるんだろう。
 たしかに残念ながらかつては大広間だったと思われる一階部分は、後世の改修が激しく原形を留めていない。何だかワケの分からない昔の団地のDKみたいな安っぽいセンスの御食事処とカラオケステージになってしまってる。ボロいメイペックスのドラムセットまである。今から思えば、一度廃業して次に買い取ったオーナーのセンスの悪さに加え、資金難によるもんなんだろう。今はたまに売れない演歌歌手でも呼んで冴えない歌謡ショーでもやってるんだろうな。

 一方、軋む階段を上がった二階は、手は入れて壁を塗り替えたりはしてあるものの、各部屋の意匠が全て異なるという凝りに凝りまくった元の造りをほぼそのままに残してあった。丸だの菱だの、繊細な飾り格子の嵌め込まれた明り取り、入口の飾り屋根・・・・・・これだけの造作を明治の初めにやれる大工が道内にいたのかって気もする。あくまで想像だけど、内地からそれなりの腕の持ち主を招聘して作ったのかも知れない。見てって欲しいっちゅう気持ちが良く分かる。

 そう、ここはかつてはワビサビな湯治の宿なんかではなかったのである。鉱山華やかりし頃、夜ともなれば胴巻に札束仕込んだような御大尽な鉱山関係者が来て、芸者上げては三味や太鼓の音が鳴り響き、さらに更ければ嬌声が漏れ聞こえるような艶っぽい妓楼だったのだ。
 ・・・・・・しかし、そんな時代はとうに過ぎ去ってしまった。

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 二度死んだ伊藤旅館があの姿を残したまま復活することは、ほぼ間違いなくありえないだろう。主を喪った木造の建物が痛むペースは想像以上に速い。ましてや極寒の北海道の地である。ドカ雪等があればアッと言う間に倒壊することだって十分にあり得る。

 ともあれまた一つ、かつての栄華を今に伝えていた古風で素晴らしい温泉宿が消えた。それは温泉宿ばかりでなく、それを成り立たせていた一切合財の歴史が消えるってことなのだ。それは本当に勿体ないコトだとおれは思う。そんな状況を座視するしかないのはどうにも歯痒い。


内湯の様子(同上)。当時は超広角で思い切り傾けた構図にハマッてたのが良く分かる(笑)。

2018.12.22

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