「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
玩具のような汽車に乗って(2)


川俣からやって来たことを物語る銘鈑。

 先日、福島の巨石巡りに出掛けた際のことだ。川俣線ってたしかかつてこの辺を通ってたハズだよなぁ〜、と思いながらクルマを走らせてると、交差点の脇に汽車が鎮座してるのが見えて、おれは慌ててクルマを停めたのだった。

 川俣線とは所謂「赤字83線」の1つとして1972年(昭和47年)には早くも廃止されてしまった国鉄の盲腸線だ。ローカル線の大量淘汰は地元の反対等で当初計画よりも大幅にズレ込んで、1984年(昭和59年)前後にほぼ集中してるんだけど、それより12年も早く消えたのだから、余程収支状況が厳しいだけでなく地元からも見放されてたんだろう・・・・・・もちろんこんなことはずっと後年に至って知ったことなのだが。
 ともあれそんな川俣線は小さい時からなんだか気になるローカル線だった・・・・・・っちゅうのも家にあった保育社のカラーブックスシリーズの1冊・「蒸気機関車」のC12の紹介ページに川俣線を走る客車1両、貨車1両のミニマムな混合列車の写真が載っており、それがとても印象的だったのだ。ちょっと記憶が定かではないけど、確か「秋祭りの太鼓の音が聞こえてくる昼下がり」ってなキャプションが付いてたように思う。子供心にも何とも長閑で良いなぁ〜、って気がした。
 もう少し大きくなってからは今も蔵書で大切にしてる機芸出版の「シーナリィガイド」との邂逅があって、そこにもやはり川俣線の特集が載っていた。リアルなダイヤ運転をレイアウトで楽しもう、ってな企画で取り上げられてる。読むと、中間駅が1つだけの実にささやかな線だったことが分かる。余談だが、「シーナリィガイド」には何故か川俣線以外にも早々と70年代初頭に廃止されてしまった鍛冶屋原線や篠山線への言及が目立っており、何となく著者・河田耕一氏の消え行くものへの嗅覚の鋭さが伺える気がする。

 脱線が長くなったが、走ってて見付けた汽車はその唯一の中間駅・岩代飯野の跡地に置かれてあったのだ。何のこっちゃない、全く気付かなかったがかつての線路跡は自分の走って来たバイパスの下に埋もれてしまってたのである。道路を挟んで小さな野菜の直売所があって、栗やら唐辛子やらを購入したら、店のオッチャンが写真を撮ってたおれたちを見てたのだろう、汽車の裏の役場になってる部分がまさに駅で、高校の頃、通学のために毎日乗ってたことなんかを懐かしそうに話してくれたのだった。

 戻ってから泥縄で調べて、終点の岩代川俣駅跡に保存されてたもう1両のC12が今は復活して真岡鉄道で走ってることを知った・・・・・・って、拙サイトの15年くらい前のギャラリーにも写ってるやんけ。
 2両のC12は川俣線廃止の見返りとして当時の国鉄から地元に無償提供されたのだという。廃線の翌日、遠く会津若松から自力で走って来て、それぞれの駅の貨物側線に入ってそのまま火を止めたのである。何だか即身成仏みたいだ。それから幾星霜、比較的保存状態の良かった川俣駅の66号機に復活動態運転の白羽の矢が当たった、ってな次第だ。

 そんなことを知るうちに、何だかちょっと乗ってみたくなったのだった。実はおれ、これまで観光運転のSLにはあまり興味がなかったのだった。何かワザとらしくってウソ臭いし、いい大人が遊園地のお猿の電車に乗るみたいで落ち着けないからである。やはり、鉄道はリアルにそこに存在してこそなんだ、って強く思う。
 実は最近、関東周辺でも元祖・大井川鉄道だけでなく秩父鉄道だとか上越線とか磐越西線とか、結構あちこちでSL運転は行われてるんだけど、そんなんでこれまではあまり出掛けたいと思わなかった。

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 下館駅は最近の地方都市の駅の例に漏れず、3つの路線が接続する乗換駅であるにも拘らずひどく閑散としてる。しまった!少々早く着き過ぎてしまった。

 秋晴れの空が一層空漠の感を強くする。休日ってこともあって都内にでも出かけると思しき中高生くらいの子たちが連れ立って1日乗り放題切符を窓口で買って改札を通って行く姿が散見される。2,670円で片道2時間弱電車に乗れば渋谷だアキバだ新宿だ、って行けちゃうんだから安いモンだろう。真岡鉄道で茂木まで行くだけでも片道1,030円、さらに汽車だと別途500円なんだし。8時の電車に乗れば店のオープンにだってヨユーで間に合う。そりゃ地元店はツブれるわな(笑)。運動会でもあるのか遠くで花火の上がる音が聞こえる。秋祭りの太鼓の音は聞こえなかったが。

 それにしても駅前には蒸気機関車の宣伝が少ない。僅かに、A4一枚だけのチラシがチラシ立てに入ってるくらいで・・・・・・ちゅうかそもそも真岡鉄道の案内自体がロクにない。元は国鉄・真岡線だったこの線はJRの敷地を間借りしてるだけなので、どうやら大人の事情ってヤツで派手な広告が出せないのかも知れない。しっかしいくら袂を分かったとはいえ元は仲間なんだからもうちょっと都合してやれば良いのになぁ、って気もする。まぁ、汽車に乗りに来る人の殆どはJRでやって来て改札出ずにそのまま乗り換えるから、駅の入口にポスター貼っても意味がないのだろう。

 9時半くらいにディーゼル機関車に牽引されて真岡から列車がやって来た。一度はホームに入るものの入換して、ディーゼルは切り離されて側線の奥、C12と客車3両はその前方に停まる。どうやら同時にいろんな点検をやってるみたいだ。
 1本、定期列車を先に発車させた後、再び入換が行われてようやっと入線。いつの間にかホームは汽車目当ての乗客で一杯になってる。当然ながら小さい子連れの家族が圧倒的に多い。汽車の前に子供を立たせてみなさん代わりばんこに記念撮影するのも微笑ましい。停車中でも蒸気機関車はあちこちから湯気を噴き出し、ガッションガッションと色んなトコが動いて生き物みたいだ。客車は修理する資金が不足してるのか、かなり色褪せてるだけでなく塗装のあちこちが剥げており、同色のテープを貼って誤魔化してるような箇所が目立つ。
 7割くらい席が埋まり、10時35分の定刻通りに汽車は景気よく汽笛を鳴らして茂木に向けて出発した。毎週休日に運転してこの入りならまずまずなのではあるまいか。大体、朝の通勤ラッシュ並みに乗客が入ったりしたら非力なC12ではマトモに走ってくれないかも知れない。

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 汽車はあまり変化のない風景の中を淡々と走って行く。ところどころ、三脚を据えて撮影する鉄チャンの姿も見える。

 今でこそノスタルジーと物珍しさでこうしてお客もやって来るけれど、本来汽車旅とは決して快適なモノではなかった。加速は悪いしスピードは遅いし、冷房なんてない時代は窓開けると室内に煤煙は入って来るしシンダも飛んでくる。だから今はもうスッカリ見かけなくなってしまったホーム上の洗面台も、昔の峠を越えた駅には不可欠だった。でもまぁ顔が狸みたいになるくらいならまだ笑い話だが、運転手がトンネル内で煙に巻かれ窒息して気を失って、それで汽車が暴走するなんて事故もあったくらいだ。
 さらに蒸気機関車はエネルギーの変換効率が極端に悪く、発生熱量の1%くらいしか運動エネルギーに使えないとも言われる。だからしょっちゅう石炭や水を足してやらねばならず、それだけ設備も必要になる。もちろん使ううちに窯には灰が溜まるから随時掻き出してやることも必要だ。動かしたいからってすぐに動かすことも出来ない。蒸気圧がマトモに走らせるレベルに上げるには石炭をボンボンくべて少なくとも数時間掛かるのだ。中身は巨大カラクリみたいな構造だから至る所が摺動部品だらけで部品交換の頻度も高く、水回りだらけの仕組みゆえ錆びたり水垢が溜まったりもしやすい・・・・・・つまりは恐ろしくメンテナンス性が悪くて手間の掛かる乗り物なのである。消えて行くことは遅かれ早かれ必定だった。

 C12って蒸気機関車は見た目の古風な外見に似合わず、実は設計年度は比較的新しい・・・・・・っちゅうか、B20とかE10とか特殊なのを除くマトモなタンク機関車としては最後発なのである。しかし淘汰は意外に早かった記憶がある。
 明治維新以降急速に整備された鉄道網も、大正の終わりから昭和にかけてようやく幹線〜亜幹線と整備が一巡したことから、閑散線区の整備が始まる。そういった輸送量の見込めない、路盤もレールも貧弱なトコで使えるようにって考えで作られたのがこの機関車だ。だから「玩具のような」とはちょっと言い過ぎになるものの、本線上をマトモに走る汽車としては国産蒸気の中で最小の部類であることは間違いない。
 さらには生まれた時代も悪かった。昭和の世界恐慌の真っ只中であり大戦前夜であった一方で、蒸気機関車という技術が過去のものになりつつある端境期でもあった。また、戦後の急速な経済復興は予想以上のペースでモータリゼーションを進展させただけでなく、地方部の人口を流出させもした。つまり、走らせようにもそんな路線自体がもう成り立たない時代がやって来たのだ。
 結局、設計が一世代古く、図体も一回り大きなC11の方が使い回しが利き、出回ってた数が多かったこともあって長く使われる結果となった。過ぎたるは猶及ばざるが如しってコトだろう。

 川俣線はそんな挙国体制での鉄道網整備事業の最後の方に出来た、始めから終わりが見えてるような路線だった。昭和2年に開通したものの、戦時中は不要不急路線として鉄の拠出のために線路を引っぺがされるっちゅう憂き目にも遭い、戦後ようやく復旧は果たしたとは申せ距離は僅か12キロ、特に交通の要衝でもなんでもない所で線路は途切れ、浪江まで延伸されることもついに叶わなかった。いや、よしんば浪江まで繋がってたとしても、阿武隈高地を東西に横切るニーズなんて殆どなかったろう。
 真岡線にしたって本来の延伸計画は水郡線の太子までであって、そして実際かなり工事も進んでいたのだけど(GoogleMapで見ると今でも路盤がハッキリと分かる)、やはり戦争のせいで工事は凍結、何もない平凡な街道沿いの田舎町である茂木で線路は途切れてしまってる。いや、よしんば太子・・・・・・以下同文(笑)。沿線に特にこれといった観光名所もなく、特産の木綿は輸入品に押されて消滅し、強いて言うなら益子の焼物くらいしかないようなロケーションだ。まぁ今は「ツインリンクもてぎ」が出来て、そこまで線路を伸ばそうかなんて話が出てるのがせめてもの救いだが、ツインリンクもてぎ自体がも一つパッとしない状況なので全く楽観視はできない。

 途中の真岡や益子で乗り降りする人も多く、通しで乗ってたのは3割程だろうか、下館を出て約40kmの道程を1時間半かけて茂木に汽車は着いた。機回り線の途中に新設のターンテーブルが置かれた奇妙な駅だ。大体、タンク機関車っちゅうのはバック運転を想定した作りなので、ターンテーブルで回す必要なんてないと思うのだけど、最早それは要らぬ知恵の付いたおっさんの野暮な感慨に過ぎない。無邪気な子供たちはユックリと転回する汽車に大喜びだ。いっそ電動ではなく手押し式にしたらもっと面白かったのに。

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 小旅行は終わった。夢うつつの微睡みから起こされたような気持ちで下館の駅を出ると、相変わらず駅前は閑散としてる。人もクルマも殆ど通らない。空は朝と変わらず抜けるように真っ青だ。1億円をバラ撒こうが、野合のような合併を繰り広げようが、地方の衰退は一向に止まりそうにない。

 真岡鉄道のC12はたしかに国鉄蒸気としては玩具みたいに小さかったけど、おれを過去へと連れてってくれる汽車ではなかったようだ。


岩代飯野駅跡のC12。保存状態はかなり劣悪。

2017.10.10

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