「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
お茶坊様って行者がいた!


「お茶坊様の洞窟」入口。下段の穴は人が入れるほどの広さはない。右に伝って来たロープが見える。

 その存在を知ったのは本当に偶然の連続の結果である。

 ここんトコ、何故か愛知・静岡方面にすっかりハマってて、先日、浜名湖の近くでで殆ど知られてない巨石/磐座系物件を見付けたのに気を良くして、それであっち方面に未知の懸崖造りなんかは残ってないモンかな〜?・・・・・・などとまことに大それた考えでもってネットをウロウロしてたのが最初だ。
 そしたら、バームクーヘン状の魁偉な地層のオーバーハング状に切れ込んだ岩壁に、めり込んだように建てられたお堂の画像が見付かったのである。一見それは房総の投入堂として知られる寂光不動にロケーションを含め似てたが、岩壁も建屋もあれより遥かに立派だ。ん!?何だろ?知らねぇな〜、って調べてったところ、それが信州は松本市北方、旧・四賀村にある観音堂であることが判明した。それにしてもこれほどの素晴らしい物件が殆ど知られないまま今に至ってるっちゅうのも奇妙なことだなぁ〜、と思ってるうちに俄然行きたくなってしまったのである。

 ところがこの篠ノ井線周辺の一帯はまことに観光的には地味であって、所謂観光名所っちゅうのがほとんど存在しない。いわば「観光真空地帯」と呼んでいいくらいに何ぁ〜んにもないのである。だからってこの観音堂だけを訪ねに信州くんだりまで出かけるほどサスガのおれも酔狂ではないし、時間的な余裕もない。行くならば、他の候補地を何とか絞り出さねばなるまい。
 そんなんでまことに泥縄の誹りを免れないけど、ニワカの猛リサーチでこの辺の観光協会等をネチネチ調べ上げたりしてるうちに引っ掛かったのが今回取り上げる「お茶坊様の洞窟」だったのだ。場所は四賀の隣、筑北村の昔の善光寺街道の宿場町である乱橋(みだればし)ってトコからちょっと山に入ったあたりにある。

 「お茶坊様」は愛称であって、諡号・隆明霊神と呼ばれるこの修験の行者について具体的なことは殆ど何も分かっていないようである。ただ、「霊神」は御嶽系の修験者でそれなりのステイタスにあった人にのみ与えられる諡号なので、御嶽系であったことは間違いなかろう。ネットで拾った数少ない情報をテキトーに繋ぎ合わせてみると、その生涯は大体以下のような感じになる。

 隆明は文化6年(1809)に武蔵国多摩郡に生まれ、初めは高尾山にて修行、その後全国の霊地霊山を訪ね、ついには御嶽の行者となり修行によって神通力を得た。
 幕末近く、40代の彼は本城の乱橋に現れ、以後、亡くなるまで西条との村堺地である鷹巣山の岩穴を修行地として定住した。茶が飲みたくなると山から下りて来て何処の家と言わず気軽に立ち寄ってお茶を飲んだことから、村人からは「お茶坊様」と呼ばれ、飲み水のない家に湧水地を教えたり、深い霧の中でも呪文で行先を導いたりと霊力を発揮し、土地の人達からは親しまれていた。
 乱橋・西条・東条の御嶽信者による法隆講を組織し、毎年先達として御嶽山に登る他、各部落の先達の育成にも努めていた。明治19年(1886)に77年の生涯を閉じたが、その時に残されたものは背負子・銅鍋・1本歯の高下駄だけだったと言われる。死後、遺言により修行地に埋葬され、石碑が建てられいる。また、近くには寝起きしていたとされる岩穴が今も残る。

 ・・・・・・平たく言うと、幕末から明治にかけての動乱の時代に、信州の草深い田舎で地元に根差した修験の活動によって地域住民から敬われてた在野の聖、ってコトになるだろうか。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 クルマ1台がようやっと通れる程度の狭い急坂の末端より歩き始める。予想してたよりも急な山道を赤い案内看板に沿って登って行くので迷う心配はない。15分くらい歩いたところで朽ちかけた鳥居が現れ、ようやっと着いたかと思うとこっからがまた遠い。折角登ったのに今度はずんずん下って、ようやくなだらかな道に出たと思ったら急に景色が開けて明るい岩場に出た。何だかんだでトータルで30分くらいは歩いたろうか。すでに息は上がり、Tシャツは汗だくだ。

 この辺りは所謂「フォッサマグナ」の西縁に当たっており、太古の昔は海だったのが隆起してできた地層のために脆い砂岩質の岩があちこちで剥き出しになっでいる。手で触っただけでもボロボロ崩れるくらいで風化が早く、独特のグニョグニョした特徴的な風景を見せている。驚くべきことに昭和30年頃までは小規模ながら炭鉱なんかもあったらしい。太古の昔に水辺近くで堆積した植物が石炭になったのである。思えば以前に行った上田の鴻ノ巣もこんな感じだった。
 余談だが、この極端に水はけの良い土壌ゆえに信州であるにも拘らず松林が広がっており、松茸の一大産地となってたりする。だからこれ読まれてもこの辺に秋に行くのは絶対に止した方が良い。泥棒と間違われて問答無用でフルボッコにされるか十万単位の罰金を取られる危険性がある・・・・・・言ったからね!オマエ等絶対に行くなよ!ホント、シャレになんないからね!

 所々に石碑や石塔が置かれ、如何にも修験の行場の雰囲気を今なお残す濃い場所だ。すぐ向こうは切り立った深い谷になっており、崖では覗きの荒行なんかが行われてたのかも知れない。
 さらに平らで傾いた滑りやすい岩場をロープに掴まってトラバースして、少し上がったところに粗末な傾いた四阿が立つ。果たしてそれがお茶坊様の眠る地だった。隣にはちょっとした座敷ほどの広さの吹き抜けの建物がこれまた半ば壊れかけて残る。かつてはここまで講として近郷近在から詣でる人も多かったのだろう。
 件の洞窟は、ここから再びロープに掴まって崖を10mほど下ったところに暗い口を開けていた。良くもまぁこんな場所見付けたものだと感心してしまう。入口はそれほど広くないものの、中は20人くらいなら体育座りが出来るほどの広さがあって、仏具とも神具とも分からない三本の棒を並べたものが祀られている。この広さならたしかに暮らせそうだ。
 遥か下の方からは時折、車の走る音が聞こえて来る。何のこっちゃない、ここは県道の側の崖の上だったのだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 汗を拭き拭きダラダラとクルマに戻りながら、色んな疑問が浮かんできた。それにしても一体全体、食料はどのように調達してたのか?熊や猪、いや当時はまだ狼だって居たかも知れない、そんな獣共に襲われることはなかったのか?比較的雪は少ない地方ではあるとは申せ標高1,000m近い高地である。どのようにして凍て付く冬を過ごしてたのか?77歳まで生きたとは、当時としてはかなりの長寿である。こんな厳しい環境でどうやって健康を維持できたのだ?・・・・・・それこそが修験の荒行の末に得た神通力なのか?
 とにかく何一つ分からない。分からないけど、これだけは言える。おれはこのお茶坊様というほぼ無名の謎めいた行者の生涯と、そんな怪しい行者をやんわりと受け入れたこの村の生活共同体に何となく心惹かれてしまったのだ。

 考えてもみて欲しい。ナンボ善光寺参りの宿場町で様々な風体の人の往来は他の村よりは多かったとは申せ、氏素性も得体も知れない行者が忽然とどこからともなく現れて、何がそんなに気に行ったのか、それがそのまま近くの山に棲み付くのですよ。ムチャクチャに胡乱やないですか。そしてそんなどこまでホンマに偉い行者さんか分からん人が、時折ノソッと家にやって来ては「お茶を飲ませてくれ!」なんて言うワケですよ。そらまぁ聞くところによれば神通力でありがたいコトもしてくれてるらしいけど、そんな凄い力があるんなら、逆に怒らせたりしたら大変ちゃうやろか・・・・・・現代の目線でなくとも考えるとこりゃかなりコワい状況でさえあると思うけどなぁ〜。

 近代以前は「聖」と「俗」、「貴」と「賤」、あるいは「浄」と「猥」といった概念は決して未分化なワケではなかったものの、もっと渾然一体としていた・・・・・・っちゅうかそれぞれの軸が直線で、さらにはただ一つの交点で交わるような単純な構造ではなかった。実はそれらのベクトルは直線ではなくある種の円環構造を持ち、さらには幾何学的な言い方をするとまるでそれぞれが「ねじれの位置」のように、ある角度から見れば相関関係を持つが、別の角度から見ればまるで真逆の関係になるような、複雑で多面的な構造だったと言える・・・・・・何となくカッコ良く纏めちゃったけど、要するに非合理でワケ分かんなかった。
 修験の行者なんちゅうのはそんなワケの分からなさの極みの存在の一つと言えるだろう。野良仕事するワケでも、柴刈りするワケでもなく、日がな一日、修行とやらで山中を駆け巡り、頼めば加持祈祷で拝み屋とか疳の虫封じのまじない、憑き物落としのお祓い、雨乞い、占いなんかもやってくれたりする。生活の知恵なんかを授けてくれたりもする。怪しい丸薬や薬草を処方してくれたりとかもあったろう。たまにチョロッとばかしの奇蹟も起こす。さらには誰も行ったことのない遥か遠くの御嶽山まで一緒に行って案内さえしてくれる・・・・・・だからって、絶対に生活に必要不可欠な存在か?っちゅうと何だか良く分からないものの、居ないと何だか困るような気がしないでもないし、でもコメも作らにゃ木も伐らず炭も焼かず、生産的か?っちゅうと極めて非生産的だったりもする。

 おれはそんな得体の知れない存在が大好きだし、とかく閉鎖的・排他的と言われる日本の村にだって、そんなヘンなのを何となく受容してしまうような回路があったことに心惹かれたのだった。

 余談だが、列強に追い付け追い越せで一心不乱に近代国家を目指した明治政府が修験道を禁じたのは、あるいは当然の措置だったのかも知れない。単に神仏分離のためだけではなく、その在野性・非合理性・非生産性、そして妙に長けた講のオーガナイズ能力等を放置していては、これからの日本にとって好ましからざる存在になりかねないことを見抜いてたからではないのか?っちゅう気がするのだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 むつかしいことはさておき「お茶坊様の洞窟」、名もない修験者のプライベートな行場がほぼそのまま現代に残った、何とも摩訶不思議な雰囲気の漂うディープな場である。個人的にはしょうもない観光地に行くよりも100倍インパクトがあった。強くお薦めしたい・・・・・・松茸シーズン以外で(笑)。



※【参考資料】
   「八十二文化財団」(http://www.82bunka.or.jp/)
   「里カフェ 小さな国」(http://chiisanakuni.net/)
   「筑北村てくてくブログ」(http://chikuhoku.jp/blog/)
   「信濃路てくてく まちづくりはどこへいく」(http://kamaneko.cocolog-nifty.com/blog/)
   「筑北村」(http://www.vill.chikuhoku.lg.jp/) 

2017.08.21

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved