「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
持越の秋


大判サイズで紹介します。昔はもう1〜2段上まで建物があったんですが・・・・・・

 秋の終わり・・・・・・いや、もう初冬と言ってもいいだろう、そんな季節に伊豆の持越鉱山を訪ねた。湯ヶ島温泉から西に寂しい山中を行くと忽然と現れる中外鉱業の出発点となった廃鉱山である。事実上の閉山後も精錬施設は稼働し、色んな電化製品等をリサイクルで集めては溶解して金銀を鋳造してるという風に聞いてたが、今は都内に新工場が出来て交通の便の悪いココはどうやら放棄されてしまったようで、色んなプラントも全く動いてる気配がない。
 ここの最大の特徴は、大方崩壊しかかりながらも雛壇状になった木造の選鉱場が辛うじて残ってる、ってコトだろう。今や国内で現存するのは数ヶ所しかない。大半は上屋を失ってコンクリートの基礎だけになってたり、残ってても鉄骨スレート葺きみたいなんばっかしだ。ちょっと前に紹介した栃原にしたってそんなんだから、味気ないっちゃ味気ない・・・・・・いや、ま、それだって十分貴重なんだけどね。

 もちろんその存在はズーッと昔から知ってたし、これまで何度も前を通ったことはあったのに、入ってみるのはこれが初めてだ。

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 持越の名前を最初に知ったのは小学校くらいの地理でだったと思う。その頃はまだ現役鉱山で、串木野等と並んで国内に残る数少ない金山だってな風に聞かされた。菱刈が発見される何年も前の話だ。
 自分で言うのもアレだけど、おれはとにかく記憶力が抜群に良い。不思議なコトに人の名前を覚えるのはトンと苦手だが、自分の興味のある事物については一発で覚えて諳んじることができる。実際単なるサラリーマン、それも平均よりは恐らく休日も少なけりゃ労働時間も長いのに、こんな風にサイト運営できてるのもこの能力に助けられてるところが大だ。ともあれそんなんで持越の名前も場所もシッカリと脳裏に刻まれたのだった。

 改めてこの鉱山について調べてみたところ、それほど歴史があるワケではないコトが判明した。湯ヶ島の名旅館である落合楼の主人だった足立三敏が大正年間に鉱脈を発見し、昭和初期に中外鉱業によって操業開始、一時期は一山挟んだ清越鉱山と共に何千人もの従業員を抱える巨大金山だったが、昭和50年代終わりくらいに金相場の下落であえなく休山となっている。プラザ合意が滅ぼしたのは自転車産業だけではなかったのだ。しかし、その何年か前にはシアン化合物を大量に含む鉱滓の流出事故を起こしたりしており、補償等の問題が生じてすでに色々経営状態は逼迫していたようである。実質50年ほどの歴史だった。これは深部熱水鉱床で比較的鉱脈が短いと言われる伊豆の金山の宿命なのかも知れないが、鉱脈そのものはまだ尽きてないらしい。持越・清越合わせての金の総産出量は21トンほど、これは日本の金山の産出量としては10位の成績だった。一方、品位は深熱系らしくそれほど高くないようで回収効率の高い青化法での精錬を行ったことがその後の事故の遠因になったと思われる。

 休山、というのは資金力に乏しい鉱山会社の常套手段なのかも知れない。いやいや、一時的に止めてるだけなんですよぉ〜、ってコトに建前上はしといて荒れるに任せて放置し、施設の解体費用を免れようとしてるのだろう・・・・・・廃墟マニアにはその方がありがたいのだろうが(笑)。これがオマエ等のやり方かぁ〜っ!?っておかずクラブだな、ったく。
 実は中外鉱業系はそっくりそのまま施設が放置されてることが多いように思う。ロケットのような特異な形状の焙焼炉が幾つも並ぶことで有名な北海道の上国鉱山もそうだし、島根の都茂鉱山も末期に掘っ立て子会社に売却したのだが、ココも未だに施設が大方残ってるそうだ。

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 赤い鉛丹葺きの、規則正しく明り取りの三角小屋根が並ぶ選鉱場は何となく山小屋みたいで瀟洒な印象だ。敷地の高い所に意外にもまだかなりが残っている。実は数年前まではほぼ完全な形で残ってたのだが、伊豆半島にしては極めて珍しい大雪が降ったせいで、その重みに耐え切れず3/4くらいが残念ながら倒壊したり屋根が抜けたりしてしまったのだ。こうして解体費用を特に掛けずに何年も何年も掛けて更地に戻して行くつもりなんだろう。木なら放って置けば腐るワケだし。固定資産税とか発生してるだろうが山林だから二束三文だろうし、それにそれ払うことで赤字にキッチリなれば法人税も発生しない、ってな寸法だろう。

 各地の古い鉱山写真を見ても明り取りの窓が並ぶのは他であまり見られなかったデザインであり、ひょっとしたら伊豆半島の鉱山の特有のデザインではないかと思う。単に効率性だけ考えれば、ノッペリと平屋根にして低い壁を立ち上げた方がラクに作れただろうに、わざわざ小屋根を沢山飛び出させてるのである。2000年頃に惜しくも解体された帝産大仁金山の選鉱場も似たような造りで、こちらはひじょうに典雅で装飾的な逆U字型の凝ったデザインの明り取りが特徴だった。戦前のモダニズム建築としても一級品のデザインだっただけにとても惜しまれる。ちなみに清越の方にも三角屋根が大きくなったような別のデザインでこれまたユニークな形の選鉱場があったのだが、地元業者に敷地が資材置き場として売られてたのが保存、もとい放置の点からは災いしたか、こちらは東日本大震災の後くらいに解体されて今は跡形も残ってない。

 内部に入る。木の梁が縦横どころか斜めにも走る繊細でいながらマニエリスティックな光景が広がる。件の明り取りを裏から見るとひじょうに凝った造りになっていることが分かる。機械類の点検のためだろうか、中空の廊下状の通路もあちこちに拵えられており、元々雛壇状で立体的なのががさらに複雑になっている。それらがすべて木造だ。
 もちろんここでは大量に撮影したのだけれど、惜しむらくは内部の木材もいささか怪しくなって来ており、踏み抜く危険があってあまりあちこちをウロウロすることは叶わなかった。恐らくは現存部分もせいぜいもってあと数年の命だろう。

 この特徴的な選鉱場以外にも施設はそっくりそのまま残っている。てんで化学には疎くて良く分からないのだけど、金と銀を別々に取り出すために色んな工程を経なくてはならなかったようで、鉱山っちゅうよりは工場な建物が多い。プラチナを取り出す建物なんかもあったけど、新しそうなトコからすると、リサイクル事業を始めて以降に増築されたのかも知れない。少し離れた川向うにも巨大プラントは広がっており、それ以外にもごく一部分だが鉱山住宅の残骸なんかも残っている。真剣に見て回ると半日くらい掛かりそうな広さだ。

 軽く1万坪はあろう構内には人っ子一人いない。晴天の下、爽やかなクセに不思議な重みをもった秋風だけが吹き抜けて行く。良く見ると選鉱場以外の建物にも荒廃の翳が忍び寄っているコトが分かる。張り巡らされた配管は錆び、壁や屋根のあちこちに破れたところがあったり、ガラリが落ちていたり・・・・・・産業の世紀はここでも終わってしまっているのだった。

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 思えば、かつては現役ではなくなってしまったものに興味を抱けなかった。関西時代、それこそ東洋一と言われた神子畑の選鉱場なんていつでも行こうと思えば行けた。それどころか当時は明延の鉱山施設もほぼそっくり残ってた。ザッと思い付くままに挙げるなら、もうちょっと小規模な亀岡の鐘打や大谷、池田の奥の多田、姫路の富栖、赤穂の近くの旭日・・・・・・坂越大泊鉱山なんて閉めたばかりではなかったか?
 しかし、脳内で四の五のゴタク並べておれはついに行かなかった。知ってて場所まで押えてるのにどうにも足が向かなかったのだ。本当に惜しいコトをした。今はもう全て建物は喪われ、放埓に茂る雑草や伸び放題に伸びた木々にどれも覆われてしまってるだろう。

 温泉ばっかし行かず廃墟ももっと早くから行っときゃ良かったなぁ〜・・・・・・今は素直にそう思う。おらぁグズで何でもハマるのがいつもいささか遅すぎるわ。


圧巻の内部も大きなサイズで。

2017.01.21

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