「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
一年で一番暑い時に日本で一番暑い町へ行く


熊谷市の意味不明なキャラクター「あつべえ」。

 地球温暖化の影響か、最近は最高気温日本一を更新する町が全国で続出してるんだけど、一般的には利根川流域にクソ暑い町が多い。そんな町の一つである埼玉の熊谷市は岐阜の多治見市と並んで目下40.9℃のレコードホルダーである。とにかく暑い。

 今年の盆休みは関西に帰省することも遠出の旅に出ることもなく、基本的に家でゴロゴロしてた。ヒマである。ヒートアイランド現象とやらで関東は結局どこにいてもうだるような暑さなのだけど、折角この暑さなんだしいっそいっちゃん暑い熊谷に出掛けてみようって話になった。こぉゆうのを物好きという。

 ただ出掛けるだけでは詰まらないんでGoogleMyMapにマッピングしてあるスポットをチェックし、ネットで情報も仕込んでみるものの、恐るべきことに観光名所がホントに少ない。網を広げて廃墟系とかも調べてみるがこれまたロクなモノが無い。
 それでも妻沼の聖天さんっちゅうのが古刹として有名なコト、その門前で売られる巨大ないなり寿司が名物であるコト、町興しの一環として「雪くま」なるかき氷が市内のあちこちにあるコト、かつての東武妻沼線のディーゼルカーが保存されてるコトなんかが判明した。まぁ、道中に色々絡めれば一日の小旅行は何とか組み立てられそうだ。

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 混み合う高速道路を尻目に間道をチョロチョロ走って、まずは懸崖造りで行き残してたスポットである東松山・吉見の岩室観音堂に立ち寄ることにする。何のこっちゃない、吉見百穴のすぐ手前、岩窟ホテルの並びくらいのところにあった。老朽化や経営者の高齢化、そして何よりワニや露出マニアによる風紀紊乱等、様々な問題を抱えてた関東平野最後の混浴・百穴温泉はもうちょっと先にあったが、一昨年ついに廃業に追い込まれたらしい。以前駄文に書いた通りだ。ネット時代の被害者と言えるかも知れない。
 それはさておき観音堂は懸崖造りと呼ぶにはいささかムリがあるようにも思える山門風の建物だ。軟らかい砂岩質の崖には穴が穿たれ、石仏が安置されていた。

 続いてそのまま熊谷を通り越して深谷にまで出て、以前から気になってた東京第二陸軍造兵廠櫛挽製造所を見る。だだっ広い畑の中にポツンとコンクリート作りの10mほどの高さの四角いがらんどうの建物が残るだけだ。こんなチンケな建物でチマチマと兵器作って本気で戦争に勝とうとしてたのかと思うと、ホント戦前の軍部、特に陸軍ってアホばっかだったことが良く分かる。
 続いてさらに旧・日本煉瓦製造にも行くが、盆だというのに閉まってた。どうもお役所仕事は杓子定規でいけない。

 そしていよいよ熊谷、妻沼の聖天さんだ。日本三大聖天の一つとも言われる。残る二つは浅草の待乳山と奈良の生駒らしい。

 その前に聖天信仰って何なのかについてちょっと触れておくと、聖天とは正しくは大歓喜天、ヒンドゥーのガネーシャがルーツとも言われる人の体に象の頭の姿の二頭(?)・二人(?)が抱き合う姿で表されることが多い異形の仏である。二人で一人、バロム1かよ!?(笑)。別にこれは取っ組み合って相撲を取ってるわけではない。要はセックスしてる最中なのだな。だから歓喜。インドの古代仏教が本来的に持ってたセクシャリティの称揚って要素はあまり日本に伝播しなかった中で、抑制された表現とは申せ歓喜天が広まったのはかなり珍しいことかも知れない。
 ・・・・・・で、謳われる御利益は絶大な現世利益であり、当然ながらそこには夫婦円満、子宝なんかも含まれるんだけど、ちょっとややこしいことには、チャンとお参りせんと逆にひどいしっぺ返しを食らうって信じられてる。その辺はさすが破壊神シヴァの息子・ガネーシャの流れを汲むだけのことはある。バチが当たるっちゅうのだ。ハイリスクハイリターン、っちゅうやっちゃね。冷静に考えると何だか参拝客確保のための寺の策略のようにも思えるけど、このためもあってか専ら江戸時代くらいから大いに栄えたらしい。

 妻沼聖天は町の中に溶け込むようにしてあった。件のいなり寿司を扱う店は3軒あって大体近くにある。早くしないとどこも昼過ぎには売り切れてしまうみたいなんで、お参りの前にその名もズバリ「聖天寿司」、それと「森川寿司」の2店で買うことにした。
 薄揚げ1枚をそのまま使った長いいなり寿司が3本と干瓢だけが入った太巻きが4切れ、あと紅ショウガがチョコッと付いて460円。とてもボリュームがあって安い。
 「雪くま」も聖天寿司の3軒ほど隣の「騎崎屋」って茶店が有名みたいなんで、そこに入っちゃう。いやもう日は既に高く、気温がどんどん上がって来てるのだ。暑がりのおれには堪らない。おれは抹茶あずきミルク、ヨメは梅って珍しいのにしてみた。出て来たのを見るとまぁ要は昔ながらに大きな氷をチャンと鉋で薄く欠いたフワフワしたかき氷のコトだった。
 ともあれ、お寺の門前の茶店で、古風で小さなテーブルに座って後頭部を押えたりしながらかき氷を食べる・・・・・・悪くないシチュエーションだ。

 聖天はもう目の前である。参拝客がオーバーキャパになるためか、珍しく鰐口がぶら提げられた仁王門をくぐると、玉砂利の照り返しの眩しい向こうに本堂が見える。その裏手、近年修復工事が終わったという日光の東照宮ばりのコテコテの聖天堂がとにかく凄まじい。あまりのコテコテぶりにちょっと高いとは思いつつ700円払って目の前まで行ってみることにした。
 バッドテイストとマニエリズムの極致とも言える全身倶利伽羅紋々の極彩色の満艦飾、隙間なく詰め込まれた彫刻の意匠といい色彩感覚といい、最早これは建物のタトゥー、あるいは建物版のチバラキ仕様のヤン車とでも呼ぶしかない。何でこれが国宝で人間の身体や改造車だとアウトなのか良く分からなくなって来る凄まじいセンスだ。
 何となく立地や建物のコテコテぶり、さらには門前に名物料理があることから、板倉町の雷電神社に似てる気がした。ちなみにあちらは鯰料理が名物だ。

 クルマに戻る途中、先刻の寿司屋や茶店の前を通るといつの間にか結構な行列が出来ていた。

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 妻沼聖天から南東に少し行った、恐らくは合併前の町役場だったトコに隣接する展示館ってトコに、「かめ号」なる愛称だった東武・妻沼線のディーゼルカーが保存されてるっちゅうので、ついでに立ち寄ってみることにする。

 妻沼線自体の歴史はそんなに古くはない。太平洋戦争末期、熊谷から川向うの群馬県にあった中島飛行機の工場への物資輸送のために突貫工事で作られたのだ。それが敗戦によって結局利根川を越えることもなく、また近隣の集落の立地を一切無視してショートカットで繋ごうとしたために、ワケの分からない盲腸線となって戦後に残ったのである。
 だから終着駅は村外れの何もない所にポツンとあるという、如何にも戦時下の無理が祟った安普請の路線だった。この点では国鉄篠山線なんかと似ている気がする。運行開始から僅か40年であったとは申せ、それでも昭和58年まで持ったのだから良く頑張った方だろう。昔鉄道雑誌を立ち読みしてて、おれもその廃線の記事を読んだ記憶がある。
 かつてそこに駅があったとは俄かには信じられない、今はただの交差点脇の建物の軒下にそれはあった。アイボリー一色でノペッとしながややや半ベソをかいたような顔立ちで鎮座している。

 再びクルマに戻る。北関東の変化に乏しく何のランドマークもない真っ平らで平凡な風景は、真夏の底で白く煮えくり返るようだ。クーラーの効いたクルマはありがたい。しかし、体温を超える強烈な暑さを期待して行ったのだけど、残念ながらその日の気温は35℃とさして上がらなかった。

 家に帰って食べたいなり寿司は甘目の味付けが独特で美味かった。また暑い時期に出掛けてみよう。


上が聖天寿司、下が森川寿司。見た目の色は濃いが、森川寿司の方がややアッサリ目。

2016.09.03

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