「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
彗星のように現れて消えた・・・・・・栃原金山


静まり返った比重選鉱場の内部。

 関ヶ原の戦いで家康を追討する密約を上杉家と結んでたコトがバレて、内示無しでいきなり常陸から秋田に国替えになったのが名門・佐竹家である。サラリーマンでゆうたら懲戒で左遷、っちゅうやっちゃね(笑)。ちなみに、驚くべきことに現在の秋田県知事も佐竹家の末裔だったりする。民主主義国家とは思えぬ世襲が県知事レベルで今も続いてるのだ。

 それはさておき佐竹家では甲斐の武田氏同様、古来より極めて優秀な山師集団を抱えていたと言われる。あくまで推測だけれども東国での奥州藤原氏との繋がりがそういった人材を育んだのではないかとおれは思ってる。ともあれ彼等の手によって秋田の院内や阿仁といった長く続いた優良な鉱山が開発され、藩の財政を支えたのだった。そして国替え前の常陸時代には永きに亘って久慈川水系に点在する金山を開発していた。もちろん当時の鉱山であるから「たぬき掘り」と呼ばれる原始的な手法による小規模なものばかりであったが、品位は高く、財政の大きな助けとなっていたのだった。その後こちらは御存じ水戸徳川家の天領となったにもかかわらず、産金量は大してなかったことからするとやはり佐竹家の鉱山技術はかなり高水準だったのだろう。

 ちなみに久慈川水系の金山は全て深熱水鉱床型である。昔の呼び方では老脈という。大体300〜450℃の熱水温度で形成される鉱床のコトだ。不思議なことにこのタイプの鉱床はあまり大規模に発達せず、また品位もさほど高くない代わりに大きな自然金が採れる。逆に世界一の高品位とも言われる鹿児島の菱刈鉱山は100〜250℃で形成される浅熱水鉱床型(幼脈)であり、こちらは鉱石中に目に見えるような自然金は析出しないが、品位そのものはひじょうに高いという特長があるらしい。余談だが、最近はあまり流行らなくなったものの、金鉱山の投資詐欺のネタに使われるのがこの深熱水鉱床型の金山跡の再開発だったりする。分かりやすい自然金の標本をチラつかせて投資を煽るのだ。こんな凄い金が昔は出たんです!今の技術で掘ればもっと出ます!と。
 そんな風に目に見える自然金が採りやすく(当然、砂金なんかも採れる)、鉱脈も大規模でなかったのは昔の鉱山技術には却って好都合だったのかも知れない。

 さて、今回紹介する栃原金山も元を辿ればそんな佐竹家によって開発された数多くの金山の一つだった。実は佐竹氏が秋田にトバされて以来、久慈川水系の金山はどれも永らく廃れてたのだけど、昭和の初め頃に降って湧いたようにゴールドラッシュが起きて、数多くの鉱山が再開発される。しかし元から鉱脈がさほど大きくなかったのと戦時中の金山整理令によって軒並み強制的に閉山となってしまっていた。
 それがどうした風の吹き回しか、昭和も終わり近くの1987年になって東洋金属鉱業って会社が再興したのである。試掘の結果、トン当たり30gという高品位な含有量が判明したかららしい。日本では珍しいタングステン鉱山として有名だった高取鉱山が県内にあって、たまたまその少し前に閉山してたので、そこから様々な機材が移設され、選鉱場が建てられた。

 一時は本州最後の現役稼行中の金山としてニュースに何度も取り上げられもしたが、繁栄はそんなに長くは続かなかった。その後急速に進んだ世界的な金相場の下落で採算が取れなくなったところに坑道の落盤、出水が追い討ちをかけ、たちまち経営が行き詰まってしまったのである。実際に採掘していたのは僅か5年とも6年とも言われる。その後はお決まりの観光坑道で生き残りを図ろうとするが、さして交通の便が良いともいえず、規模的にも零細な鉱山に人が来るはずもなく、いつの間にか誰もいなくなって10数年が過ぎた。肝心の鉱脈はまだまだ残ってるらしいが。

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 水郡線の上小川という駅からタバッコ峠という変わった名前のピークに向かって数キロ、今は何の特徴もない道沿いの集落に金山の入口はある。今でも「東洋金属鉱業・栃原金山」という看板が残ってるのですぐに分かる。上に書いた通り、戦前はこの周囲にも多くの鉱山が存在した。
 観光坑道として再起を図った時に作られたと思しき歓迎のアーチも肝心の文字部分が全部失われて、赤錆びた鉄のフレームだけが残っている。広い空地は駐車場だったのだろう。道はすぐにぬかるんだダートの林道になり、そこを腹を擦らぬようにソロソロと上がって行く・・・・・・よくこんなひどい道、なんぼマイクロバスの送迎とはいえ観光客連れてったな。

 鉱山はおよそ3つの地区に分かれている。谷間で広い土地を確保できなかったことからこのような配置になったと思われる。
 一番奥が坑道、坑口から出たトロッコの線路がそのまま引かれて300mほど下がったところにホッパーがあり、コンベアで1次選鉱場に鉱石は運ばれる。ここである程度の粗鉱状態にしてからトラックかなんかでさらに500mほど下ったところにある、鉱山風景の象徴とも言える雛壇型の2次選鉱場に運んでさらに細かく擂り潰して比重選鉱によって金の純度を上げて行く。ここでは精錬までは行わず、最終的なインゴット製造は佐賀関まで運んで行ってたらしい。
 これらの設備がほぼ完全に残るのは、全国的に見てもあまり類例がない。それは建前上は閉山ではなく休山となってるからだ。

 坑口はいろんな鉱山がそうであるように意外に小さい。どうだろ?タテヨコ2mくらいのトンネルが口を開けているだけだ。盗掘するバカが居るとも思えないが、入口は物々しい鉄柵で厳重に封鎖されている。現役時代はこの主坑道が100mくらい奥まで続いていて、そこから下に向かって3階層の坑道が広がっていたようだ・・・・・・もちろん今は水没しちゃってるんだろうけど。シュリンケージで逆に上に向かって掘り抜くようなことはやってなかったみたいである。
 坑口前に広がっていた線路は今はすべて撤去され、草生した空地になってしまっている。レール引っぺがして売り飛ばした方が金になったってコトだろうから、末期の危機的な状況が伺える気がする。倒れかけた小屋は恐らくは坑夫の休憩所兼資材置場だろう。中にはカンテラやヘルメット、バッテリー等が放置されたままだ。なんか妙に生々しい雰囲気がある。

 トロッコの軌道が突っ込んでいたホッパーも今はビッシリと草に覆われてしまっている。ここでは発破で砕いたばかりのゴロゴロした原石を卸していた。それがコンベアで何だか町の鉄工場みたいな背の高いスレート波板張りの建物の最上部に吸い込まれていく。
 DQNが蹴破ったらしき穴から建物に入ってみることにする。破壊跡からおれも入ったのだからエラそうには言えないが、ヒドいコトをするもんだ。中は鉱山っちゅうよりは何だかプラント内部のような雰囲気だ。要はここで大きな石をバリバリ砕くのである。観光坑道になった時に取り付けられたらしい説明版で、何となく内部の流れが分かる。
 黒ずんだ大粒の砂くらいの状態にまでなるとここでの工程は終わり。建物横には大量の出来上がったものが今でも放置されていた。10トンダンプ一杯くらい持ち帰って精錬すればあるいは指輪1個くらいにはなるかも知れない(笑)。それくらい金って含有量は少ないのだ。

 さらに下ったところにある比重選鉱場に向かう。観光坑道として生き残りを図った時に建てられたわんがけ体験場が倒れそうになって残っている。キャンプ場やバーベキューなんかも目論んでたようで、炊事場みたいなものの残骸もあった。また、事務所には湧き出す水を詰めた「金山水」なる大量のペットボトルが今も放置されたままだ。
 選鉱場はかつての大鉱山の規模と比較するとマコトにささやかだし、近代的な鉄骨スレート張りの構造故、往年の木の梁が縦横に走る繊細さに比べると随分大味な造りだが、それでも圧巻の光景が広がる。内部は大きく5段になっており、上方にあるボールミルで件の砂を粉末状にまで擦り潰し、水と混ぜては流して揺すって金だけを分離して行くのである。何のこっちゃない、手作業でパンや揺り板を揺すって砂金を採るのと原理的には少しも変わらない。
 この工程はかなり執念深く行っていたみたいで、一度揺すって残ったズリももう一度上まで揚げて流し、最後はネコ流しなんて古典的な方法まで駆使して微細な金まで濾し取っていた。比重選鉱にはとにかく大量の水が使われるから当然のように隣には沈砂池があるが、今はスッカリ藻が繁殖した汚い池になってしまっていた。そして廃墟の常で周囲には人っ子一人おらず、あたりは静寂に包まれている。

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 栃原は実際、常陸の金山としてはかなり有望だったようである。前述の通り鉱区内にしたってまだ全然掘り尽くしてはいなかったし、品位がどの程度かは分からないが沢を挟んだ北向かいの山にもほぼ確実に鉱脈は広がっていると言われる(何故なら鉱床とは面的なマグマ貫入によって形成され、その証拠に北方に塩沢・久越、南方には久隆と、およそ南北方向に金山が点在するのだ)。恐らくはそんな将来的な規模拡大も見越してこれらの建物は建てられたのだろう。
 一方でひょっとしたら、この栃原金山って存在そのものが極めて大掛かりな投資詐欺の舞台だったのかも?という疑念も残らなくはない。どだい東洋金属鉱業って名前だけは大層立派な会社の氏素性がこれまた良く分からないのである。いろいろ調べてみたけれどはかばかしい情報は得られなかった。つまり栃原での細々した採掘はあくまで釣りで、幹部たちは今後の業容拡大をチラつかせて資金を集めてドロンすることを初めから見越してたのではないか・・・・・と。

 いずれにせよその後すぐ、日本では苦労して地中から鉱石を掘り出すよりは、ケータイやPC等の精密機器を鋳潰した方がよほど金は安価かつ大量に採れる時代が到来してしまった。オマケにこれだと希少金属まで採れてしまう。都市鉱山、と呼ばれるものだ。全ての社会的な生産活動は経済原理によって動く。絶えず命の危険と背中合わせに地中深く入ってく必要が無くなってしまったのだ。

 こうしていろいろ考えて行くと20世紀も終わり近くになって突然、歴史の闇の中から復活し、そしてアッと言う間に消えて行った栃原金山は、近代産業構造の転換という大きな時代の変遷の狭間、それも最後の最後の狭間に咲いた、侘しく小さな徒花のような存在だったように思えて来る。




※参考資料
「山口大学工学部学術資料展示館」 http://www.msoc.eng.yamaguchi-u.ac.jp/
「砂金掘り日記」 http://d.hatena.ne.jp/garimpo/
「常陸金山史研究会」 http://www.geocities.jp/omorigold/index.html
「奥久慈レポート」 http://blog.livedoor.jp/oku_kuji/


高取鉱山から移設されたと言われるボールミルと選鉱機。

2010.12.11

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