「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
すべては放棄されて・・・・・・村樫石灰戸叶鉱山


こうして見るとどこでも行けそうなんですがねぇ・・・・・・

 日本有数のセメントの町として有名な栃木県の葛生は結構好きなトコだ。かつては今よりももっと町全体が真っ白だったらしい。今でももちろん石灰鉱山はあちこちで操業中で、ベンチカットといって雛壇状に露天掘りでゴリゴリと掘り崩して行く異様な光景を至る所で見ることができる。まさに時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げますな状況なんだけど、そんな空までが霞んでるなんてことはない。
 何のこっちゃない、ただもう昔に比べて道路事情が良くなって舗装化が進み、行き交うダンプやクルマがあまり石灰の粉塵を巻き上げなくなったのである。
 産出される石灰って元々何かっちゅうと2億年も前の二畳紀って時代のサンゴ礁らしい。その証拠に鉱脈はリング状になってこの辺りに点在している。気の遠くなるような時を掛けてサンゴ礁は内陸の山奥にまでせり上がって来たワケだ。
 も一つ余談を紹介しとくと、この一帯、鍾乳洞として知られるのは宇津野洞窟があるくらいだ。日本の他の石灰産出地には見事な鍾乳洞があると相場が決まってるのに、何故かこの地には少ない。それは何故か?・・・・・・あくまで噂話の域を出ないんだけど、現場で見付かったところで学術調査だなんだで商売上がったりになるもんだから、とっとと発破掛けて爆破して闇から闇に葬ってしまうんだそうな(笑)。ともあれこの街の石灰資源は無尽蔵と言っても過言ではないほどの埋蔵量であり、大事なメシの種なのである。鍾乳洞の一つや二つで騒いでられないっちゅうのがホンネのようである。

 昭和50年代初頭くらいまでは、この地は産業用トロッコの宝庫でもあった。508mm、609mm、762mm・・・・・・1062mmの普通の狭軌までゲージも様々で、多くの鉱山が自前で運搬用の線路を敷設しており、それらの多くは東武電車の葛生駅、あるいはそこから分岐した引込線に向かっていたのだった。有名なところでは日鉱羽鶴や住友唐沢鉱山、駒形石灰ってなトコだろうか。
 今はもうほとんど全部なくなってしまった。第一、最大の集積地である東武鉄道が貨物輸送を止めてしまったのだから仕方がない。葛生駅は単なる閑散としたローカル私鉄の終点となり、広大なヤード跡が草ぼうぼうの空地になって残っていた。それはそれで味のある風景だったが、最近になってメガソーラー基地として活用されるようになり今は太陽光パネルがびっしり並んでいる。ちなみに今なお唯一残るのは吉澤石灰という会社の地下軌道だけだ。残念ながら採掘現場から加工場まで全線が地下にあるので一般ピーポーが見ることはできない。

 そんな街の中心部を離れ、5キロほど山に分け入って行くと今回紹介する村樫石灰戸叶鉱山跡が現れる。廃墟物件としてひじょうに有名だ。道路を挟んで反対側も別の会社の経営する石灰鉱山でこちらは今なお現役である。ちなみに村樫石灰という会社自体は今も健在であり、街の中心部に本社を有し、別に開発された鉱山が盛業中である。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昔は荒々しい岩肌を見せていた筈の山肌も閉山から40年近くが経って、随分灌木が生い茂ってしまっているが、その下には藪に呑み込まれつつも巨大な黄色の貯蔵タンクが10基並んでいるのが遠くからでも良く分かる。1967年に開山というからそれほど古くはない。会社のホームページには未だに住所等が記載されるトコからすると、あくまで休止扱いで閉山にはしてないようだ。
 目立たぬようにクルマを停め、雨に削られた急な坂道を上がるとタンクの横あたりに出る。驚くべきことに殆どの設備が半ば朽ち果てながらもそのまま残されている。オマケに鉄条網で囲われたりといった野暮な措置はされていない。そらまぁ私有地だし立入禁止は立入禁止なんだろうけど、大らかに放置されてる廃墟が少ない中、これはナカナカ太っ腹な姿勢だろう・・・・・・って、まぁ恐らくは原状回復が義務化される以前に閉山になっちゃっただけなんだろうが。

 生い茂る雑草を踏み分けながら、タンクの裏側一帯に入ることにする。そこにはマニエリスティックとも言える光景が広がる。メカには詳しくないんで何が何だか良く分からないが、ピタゴラ装置のようにベルトコンベヤが縦横無尽に張り巡らされているのである。逆に部屋とか小屋等はそれほど多くない。
 想像するに行程としてはそんなに複雑なコトはやっておらず、山の上の方にある切羽から掘り出された原石を細かく粉砕しては最終的にタンクに入れてたんだろうが、何をこんなにややこしくする必要があったのか、まるでヴァン・ヘイレンのフランケンギターの塗り分けみたいになっちゃってる。

 中二階になった建物へ上がる鉄の階段はかなり錆びて所謂・「韓国海苔状態」になっており、踏むとグニョングニョン揺れまくる。そうカンタンに折れることはないだろうとは思うが、なるだけステップの端を踏むように慎重に上がる。そこはおそらく制御室だったようで、大きなコンソールボードと分電盤が設置されていた。こういった鉱山には付き物の巨大なモーターや、漏斗状のタンクなんかも見られる。そう、何故かコマ付の灰色の事務椅子が所在無げにポツンと一つだけ残るのもこの手の鉱山跡の特徴かも知れない。残務処理に一人だけ残らねばならなかったとか、何かワケでもあるのだろうか。

 どこも元はもっと明るかったのかも知れないが、今は生い茂る雑草に覆い尽くされてかなり薄暗い。単なる廃墟探索ならば、草が枯れ、長袖の服を着ても暑くなく、さらには虫刺されとかの心配の少ない秋以降から春にかけての方が都合が良かったりする。しかし如何せんその季節はどしたって寒かったりする。朝夕ならばなおさらだ。
 それは撮影にはいささか都合が悪い。写真撮るならやはりなるだけ朝夕が良い。光の具合がとにかく良いのと、人出の多い時間を避けられるメリットがあるからだ。でも寒くてはどうにも被写体の方がしんどい。鳥肌立つわ、縮こまるわ、機嫌悪くなるわでは盛り上がらないモンね(笑)。
 かといって、春から秋に掛けてはこんな風に暗くなったり陰翳が濃くなったりしがちだし、虫も多ければ茨で引っ掻き傷を拵えることもある。本当にベストなシチュエーションって滅多にない。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・いささか話が逸れてしまって前フリのオチを忘れるところだった。

 ここにもトロッコが敷設されていたという。どんな理由があったのかは分からないけど一部が坑道掘りになっていて、そこに線路が敷設されていたらしい。当時の写真をネットで探すと、地上に出てたのはホンの数十mに過ぎなかったようで、規模としてはとても小さかった。ただ、よく想起されるヘロヘロの線路に木箱に毛の生えたような貨車ではなく、距離は短いもののシッカリした線路に本格的なグランピー鉱車を何両も繋げてナカナカに勇壮な姿だったみたいだ。
 閉山後、山の上の方からそれらは降ろされたものの、次の人生を歩むこともなく朽ちるままに放置されている・・・・・・ってな事前情報だった。

 案外簡単にそれは見つかった。貯蔵タンクの下のコンクリートでできたホッパーの前に並べられているのが藪の間から見下ろせたのである。最初に登って来た坂道のすぐ近くだったワケだ。藪を掻き分けて行くとKATOのディーゼル機関車が2輌あった。状態はかなり無残で、殊に古い方と思われるのは車体もキャブも、薄い鋼板部分は全て喪われ、台枠だけみたいな哀れな状態になっちゃってる。もう一輌はまだ産業ロコならではの黄色いペイントだけでなく全体的にも機関車としての形を何とか保っているものの、車体の至る所に蔦が絡みつき、最早二度と息を吹き返すことはなかろう。

 全てが放棄されたまま静かに朽ちて行く村樫石灰戸叶鉱山・・・・・・こう書くといささか詩的とも言えるが、ただもう実情は解体コストを考えれば荒れるに任せた方が遥かに安いという経済原理の結果なんだろう。そんな不安定なあわいの中にいつだって廃墟はあるように思う。
 荒廃はかなり進んでいる。もしこれ読んで行きたいという方がおられたとして、ムリして死んでも責任は取れませんで、ってコトで今回はお仕舞い。


藪に呑み込まれつつも今なお残るKATO。

2016.05.22

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved