「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
秘境駅への旅・・・・・・小和田


朝靄が山肌を這い上がる中、小和田駅全景。

 ・・・・・・ふと、小和田駅に行ってみたくなった。

 この駅について語る前に、まずは駅の置かれる日本屈指の山岳路線、飯田線について説き起こすトコから始めた方が良いだろう。名古屋と浜松の間の地方都市である豊橋から中央本線の旧線区間にある辰野を結ぶ200km近い巨大ローカル線だ。何と駅が90いくつもある。
 その成立は複雑で、豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気鉄道という4つの小私鉄が前身となっている。それらが戦時体制の中で国にまとめて買収されて飯田線となったのだ。何となくどの駅も線路配置がチマチマと狭苦しい感じがするのはこれが理由なんだろうと思う。最も早くに開業した区間は1898年(明治31年)だったが、最後の区間である大嵐〜小和田が開通したのは1937年(昭和12年)と、実に全通まで40年近くも掛かっている。それほどまでに難工事だったのだ。

 旧・三信鉄道に属するこの区間の建設については、「黒部の太陽」や「プロジェクトX」並みの壮絶なエピソードが残っている。あまりに険しくて工事どころかその前段の測量でさえ誰も引き受け手の無かった難工事を完遂させるために、会社は不世出の天才測量技師として北海道内にその名を轟かせていた人物をわざわざ招聘したのだった。その名を川村カ子ト(かねと)という。
 出自がアイヌであった彼は、現場での理不尽な人種差別とも闘いながら、切り立った断崖絶壁と天竜川の激流、そして中央構造線による脆弱な地盤が阻み、平地が皆無なこの区間の測量だけでなく、本業ではない工事までをも見事成し遂げたのであった。もう、この人の評伝だけで1冊の本が書けるくらいに凄まじい。昔の日本にはホントにどてらい漢がいたのである。

 つまり小和田駅周辺っちゅうのは元々人跡果つる鳥も通わぬような山の中の秘境だったワケだ。かつては斜面にへばり付くように十数戸の民家が固まっていたと言われるが、それも昭和30年の佐久間ダム建設によって多くが湖の底に沈んでしまった。今は山道を15分ほど登ったところに民家が一軒あるだけだという。
 そんなんでここは、全国秘境駅ランキング(そんなんあるんかい!?笑)で堂々の全国三位っちゅうとんでもない駅だったりする。ただ、漢字が一緒ってコトで皇太子殿下御成婚の折りには狂い咲きのように一時とても盛り上がった。駅で結婚式を挙げたモノ好きまでいる。ちなみに読み方は異なっており、あっちは「『お』わだ」、こっちの駅の方は「『こ』わだ」と読む。

 最近は秘境駅ブームとやらでTV番組で取り上げられたり、行楽シーズンには「秘境駅号」なる臨時列車が仕立てられ、切符は予約ですぐに完売するなどでそれなりに注目を集めてはいるけれど、まぁ実態は「なんでこんなところに存在するのかそもそも分からない」系の駅の典型と言えるだろう。

 鉄チャンだったガキの頃、おれにとって飯田線は遠い彼方にある憧れの地だった。そこはリベットの跡も物々しい戦前の旧型電車の宝庫だったのである。関西だと阪和線や片町線、中部地方では飯田線・身延線・大糸線、関東なら南武線・鶴見線あたりが、都落ちしたかつての電車が余生を過ごす地として有名だったんだけど、車種の雑多さで飯田線は群を抜いていた。
 しかし、いつまでもそんな電車が残れるワケもなく、たしか83年頃に最後の淘汰が終わって、飯田線はただの山中を行くローカル電車になってしまった。そうそう、82年に自転車で飯田から浜松に抜けた時にちょっと見てみたいと思ったものの、前日の宿もおれの我儘でコースを変えさせてもらった手前、どぉにもメンバーに言い出せず、結局そのままになってしまったんだった。

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 信州の秋らしくパッキパキに冷え込んだ中、朝靄に霞む天竜峡駅のホームには2両編成の白地にレンジの電車が入線してきた。これから乗り込む7時48分発の豊橋行き上り普通列車だ。熟慮に熟慮を重ねた結果、おれは北の長野県側から向かうことにしたのである。駅の窓口で往復の切符を買おうと行先を告げたら、怪訝そうな表情を浮かべた駅員に念押しされてしまう。

 ------行っても何もないですし、次に戻って来る電車、11時19分までありませんよ。
 ------ええ、分かってます。だから行くんです。

 休日のクラブ活動にでも向かうのか、結構な数の高校生が狭いホーム上に並んでる。あとはおれたちのような旅行客がチラホラ。さらに鉄道旅行をしてると何故か良く見かけるタイプの、アスペルガーなのか自閉症なのか行動障碍なのか良く分かんないけど、どうにも落ち着きなくて挙動不審で胡乱なオッサン(笑)。

 電車は定刻通り動きだした。何たる不運か、ヘンなオッサンはおれたちの後ろの席に陣取って、ひたすらブツブツ独り言を言いながら上機嫌で写真を撮りまくってる。おれはわざわざ彼を避けて後ろの車両に座ったのに、結局こっちに来やがった。しきりに立ち上がって車内をウロウロするのがこれまた鬱陶しい。
 途中、鈍行にも拘らずいくつかの駅を通過して温田駅に到着。高校生は全部ここで降りてしまった。さらに一駅飛ばして次の平岡駅で地元民らしき数名が下りると、車内はおれ達と件のヘンなオッサンだけだ。小和田まであと4駅。頼むから一緒に小和田に降りることが無いように、おれは心の中で必死で祈った。こんなキモチ悪いんと山中の無人駅で長時間過ごしたくはない。鶯巣、伊那小沢、中井侍・・・・・・頼むぞ〜!後生だから絶対に降りてくれるなよ〜!

 8時49分、結局、小和田で降りたのはおれ達だけだった。南側に山が迫って陽が射さないもんだからひどく寒い。降りるおれたちの何がそんなに可笑しかったのか、窓から顔を出して「キャッホウ〜!」とかたいめいけんの旦那みたいな奇声を上げて笑う彼を乗せて列車は去って行った。心底おれは安堵の胸を撫で下ろした。次は10時12分、同じく上りで中部天竜行きが来る。

 それにしてもまぁ何にもない山中の寒駅だ・・・・・・って、実際に冷え込んで寒いんだけど。

 両側をトンネルに挟まれ、天竜川に落ち込む山肌を削って造られた僅かな平地に、高い擁壁に守られて元は二面二線の構造のホームと、余りの平地の無さに本線に並行するように延ばされた短い貨物側線があるだけだ。ホーム上には長野・愛知・静岡の境界上にあることを示す木のプレートや、御成婚にあやかった「恋愛成就駅」なる看板等が目立つ。元は貨物上屋があったと思われるトコには保線の詰所があって、今日はたまたま工事なのか4〜5名の保線夫がワイワイ言いながら架線の修繕を行っている。無人ちゃうやんか(笑)。

 開業当時のままの古めかしい駅本屋は、元が私鉄なだけあって妻面を出入り口にした比較的珍しい形。恐ろしいことに建物の半分近くは斜面から張り出しており、つっかい棒で転げ落ちないように支えられている。雅子さまブームの時の「花嫁号」なる臨時列車のヘッドプレートが軒下に飾られ、あとは駅訪問ノートが収まった箱、机、極めてぞんざいな駅周辺の案内板、結婚式を挙げた人の写真・・・・・・って、こりゃ見てるこっちが恥ずかしくなるな(笑)。

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 駅前は急な坂になっており、少し下ると四阿があって、ペンキで大きく「愛」と書かれたこれまた恥ずかしいベンチが置かれてある。やはり雅子さまブームの時の掘っ立て施設だ。隣の平地には結婚式のためのステージまで特設で拵えられたらしい。
 さらに下ると、製茶工場と民家の廃屋、あとはかつてはここまでクルマが入れた動かぬ証拠と言われる空色のミゼットの廃車体があるってことは事前調査で分かってる・・・・・・今は伸びた木々に覆われているが、目を凝らすとあちこちに石垣が組まれて平地となってるのは、そこに住居があった証だろう。

 いずれにせよ、小和田駅および周辺の状況はおおよそこんなモンである。遠くから低くグオングオン聞こえてくるのは、天竜川に浮かんだ浚渫船のクレーンの音だ。ダムが出来て水流が弱まったせいでどんどん泥が溜まってしまうから、たまにこうして浚えてやらねばならないみたいだ。何だ〜、結構人いなさそうでいるやん。
 そぉいやおれたちの着く30分ほど前には、豊橋6時丁度発の下り列車が到着してるハズだ。これは小和田駅訪問では比較的良く使われる列車なので、あるいは既に下車して散策してる者がいるかも知れない。しかし、たとえいたとしてもこの周辺の人の気配の無さからするに、歩いて半時間ほど掛かる崩壊した吊橋跡にでも向かってるんだろう。よしよし・・・・・・何がよしよしやねん!?(笑)。

 まずは製茶工場に入ってみることにする。床が抜け、屋根も半ば崩壊しかかり、柱も傾いてかなり危険な状態だ。山あいの建物は人が使わなくなると湿気と降り積もる落ち葉でアッと言う間にダメになって行く。薄暗い内部には何に使うのか良く分からない機械が沢山放置されたままになってる。こんなのが建ってるくらいだから、昔はこの辺りも一面の茶畑だったんだろうが、今はスッカリ森に還ってしまってる。
 打ち棄てられてもう何年経つのか、噂のミゼットは杉の木の根元で錆まくりの哀れな姿を晒して転がっていた。小型オート三輪はスピードは出ないけど荷物が沢山積めて急カーブと急坂に滅法強いので、この辺の地形には打ってつけだったのだろう。70年代初頭までは駅で貨物取り扱いもあったから、その頃に駅との往来に使われてたに違いない。
 廃屋の方はかなり大きな2階建ての建物だ。一般的な民家の雰囲気ではない。入口の脇に珍しい陶製の湯たんぽが落ちてる。半地下になった1階はコンクリートで固められた物置で、コンクリートの狭い階段を上がると古風な竈の台所と住居部分になっていた。物置には大きな茶籠や唐箕をさらに巨大化したような木製の機械、何故かナショナルの電池の看板等が残されたままだ。ひょっとしたら駅前ってこともあってよろずや兼旅館でも営んでたのだろうか。
 2階の住居部分はまぁ、要は空家物件の佇まいで、ビリビリに破れた障子、抜けかけた床、あちこちに転がる箪笥や棚、水屋の類・・・・・・ん!?急に人の話し声が近付いてくる。

 ハハッ、ビンゴやんか!睨んだ通り、おれたちの前に着いた列車で下車して吊橋方面に向かってた連中がいたのだ。腕時計を見るとなるほど10時過ぎ、そろそろ次の列車の来る時間だ。
 如何にも鉄チャンな3人組の若者は、談笑しながらそのまま駅の方へと上がって行った。

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 この列車でまた誰か下りて来るかと思ったが、それもない。手に持ってウロウロしてるのもいい加減重くなって来たので、おれたちは天竜峡で買い込んであった弁当を愛ベンチに座って食べた。寒い中弁当を食べるって何となくしみじみする。
 11時、豊橋行きの特急「ワイドビュー伊那路」が通過する。水窪で行き違う天竜峡に戻る列車が来るのは間もなくだ。ここまでとにかく寒くてペースが上がらなかったのを取り返すように、ラストスパートでおれはシャッターを淡々と切り続ける。

 11時19分、定刻通り豊橋発の列車がやはり2両でやって来た。紅葉シーズンが近いこともあって座席は観光客っぽい雰囲気の乗客で8割方埋まってる。おそらくみんな天竜峡にでも向かうのだろう。暖房の効いたシートがありがたい。あら!?ロングシートで談笑してるのは例の3人組鉄チャングループではないか。恐らくは大嵐あたりから折り返してきたんだろう。こら絶対マニアやな。

 ともあれこうして2時間半の秘境駅滞在は終わった。こんな時、急に現実社会に引き戻されたような気がするのはいつものコトだ。まぁ、たまにはこうした贅沢な時間のムダ遣いも悪くない・・・・・・あやややや、筆かマウスかキーボードか知らんが滑ってしまった。心にもないことを書いちゃいけないよね。

 それはムダどころかとても濃密で大切な時間だったと思う。

2014.11.07

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