「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
牛の町を行く


松阪駅のホームより名古屋方を望む。おれの立ってる場所は以前、線路だった。
向かいのホームの屋根の外れあたりにはテルハがあったと思う。


 人口では三重県第4の町である松阪は、廃市の雰囲気がそこここに漂う古い城下町である。

 昔はさほど広くもなかったのが、平成の大合併で周辺の町村を呑み込んだ結果、今は随分市域は広がった。父親方の郷里は、その今では呑み込まれてしまったエリアにある。あまり知られてないけれど読み方は「まつさか」と濁らないのが正しい。地元の人はどちらかっちゅうと「まっさか」と撥ねて発音する・・・・・・ま、どぉでもいいコトだけど。

 伊勢湾に面してはいるものの海までは案外離れており、港湾都市としての性格よりは街道筋の宿場町、或いは交通の要衝ゆえの商都としての性格が強かったものと思われる。日本三大商人は大阪・近江・伊勢と言われるが、そんな伊勢商人の出自は松阪あたり多かった。今や巨大コンツェルンとなった三井も元はこの地の出身で、駅前をちょっと行った所に旧家跡が残ってたりする。
 江戸時代を代表する国学者の一人である本居宣長はこの地の生まれ、終生ここで過ごしたが、生家はやはりそれなりの店を構える裕福な商人だった。要するに金持ちのボンボンやったワケやね。ただ、本人は商人に向いてないと思ったらしく、その後、開業医になっている。まぁお金持ちの町医者が趣味が嵩じて私塾っちゅうかサロンみたいなんを開いてたら、門下生が沢山集まっちゃったようなのを想像すればよいのだろう。後は小津安二郎や田端義夫とかもこの町出身らしい。

 ・・・・・・って、そんなんよりも松阪を有名にしてるのは何たってもう牛である。近年レギュレーションが緩和されたせいで、地元で育ってりゃ何でもかんでも松阪牛を名乗れるようになったもんだからちょっと格は落ちたと言うけれど、それでも日本の元祖ブランド牛にして今なお最高の名をほしいままにする和牛の代表だ。高級なモノになると肥育のためにビールを飲ませ、せっせとカラダを藁でこすってマッサージしてる、っちゅうエピソードは俄かには信じがたいけれど、ホントのホントに実話である。
 これまた駅近くにはすき焼きの超名店である「和田金」や「牛銀」が如何にも敷居の高そうな店構えで建っている。どちらもマトモにハラ一杯呑んで喰うと3〜4万はブッ飛ぶっちゅうとんでもない店だ。ステーキでは和田金のすぐ裏側手にある「三松」なんてーのがあって、ここも基本的なセットで2万くらいしたハズだ。ホンモノの松阪牛は手間暇が掛かってる分、とにかく値段が張る。

 そんなにお金出せないよ、ってな人向けの庶民的なトコとなるとやはり焼肉ってコトになるが、これも「一升びん」なんて超有名店があったりする・・・・・・が、地元民はそんなに普段からバカスカ牛肉ばっかし食ってるワケではない。大間の地元民が名産の鮪を食べないのと同じ伝で、金になる良い部分の多くは大都会に向けて出荷されてしまうのだ。
 そんなんだからちょっと駅前を外れると牛肉ではなく若鶏の焼肉店がやたらと多い。決して焼鳥ではない。ブツ切りになったのがタレに揉まれて金属の皿に乗って出て来るんだからやはりこれは焼肉なのである。これに牛ホルモンを組み合わせた摩訶不思議な値札が店内には下がってたりする。
 しかしながらこの若鶏の、ちょっとパチモンとも言える焼肉、おれはかなり好きだ。牛肉だといささかクドく感じるこの地方特有の濃い味噌ダレも淡白な鶏にはむしろ似合ってるように思う。これを七輪ではなく、ホーロー引きの昔ながらの四角いガスコンロに、今時100均でも売ってなさそうなペケペケの安っぽい網で焼くのが実はこの地方の流儀だったりする。若鶏ばかりでなく「ひね」と呼ばれる成鳥、あるいはセセリなんかも歯応えがあって美味い。
 とは申せ、焼肉屋自体がこの地に出来始めたのは案外歴史が浅く、昭和30年代の終わりから40年代の初頭のようだ。

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 松阪駅は、国鉄が豊かだった時代の亜幹線の大きな駅の雰囲気を未だに色濃く残していて好ましい。だだっ広い構内、片隅を間借りしたように遠く離れた私鉄ホーム、いくつも並ぶ線路班の詰所、何本もの線路を越えて行く古風な跨線橋、錆で真っ赤になった路盤、支柱の列が美しいホームの木造の屋根、歴史を感じさせる煉瓦積のホーム、天井が高く薄暗い待合室・・・・・・。
 しかし今はもう沢山停まってた貨車の列もなく、名松線の線路だった部分は埋められて拡張されたホームの一部になってしまった。幹線駅に欠かせなかったテルハも撤去されてしまってる。昔は大きな水タンクが聳えてた気がするがそれももう見当たらない。何より列車が随分短くなってしまった。昼間なんてヘタすりゃ単行、せいぜい二両が基本だ。特急でも4両くらいしか繋がってない。あまり頻繁に列車は来ない代わりに、特急も急行も鈍行も貨物もどれも長大な編成でしずしずと入って来た時代なんてとうの昔に過ぎてしまった。

 駅前にしても往年の賑わいはない。昔は駅の国鉄側の出口を出た左手に、如何にも地方都市らしい三交百貨店(三重交通だから三交)っちゅう地元資本のデパートがあって、たしかその下がバスターミナルになっており、乗り換え客やら買い物客が駅前に溢れてた記憶がある。近鉄のビスタカーで寂しい青山トンネルを越えて平地に下ってしばらくするとこの駅に到着するのだけど、子供心にも人が沢山いて賑やかなトコだな〜、と感じたのだから。
 そんなデパートも今は建物ごと取り壊されてしまい、ただの更地にしとくのも勿体ないってコトで広い駐車場になって無残な空漠を晒している。気になって調べてみたら10年ほど前に会社自体も清算されて無くなってしまってた。変わってないのはそんな三交バスの塗り分けくらいだろう。暗緑色とアイボリーのいささかアカ抜けない色合いは地方私鉄やローカルバスの基本色だと思う。
 どだいいつ来ようが駅前には人が殆ど歩いてない。実は近鉄とJR合わせれば1時間に上下合わせて15〜6本くらいは列車が到着してて、田舎駅としては驚くほどにフリークエントなダイヤになってるんだけど、乗降客はひどく疎らな上に、殆どが迎えに来た親とか親戚のクルマ等に乗ってそそくさと行ってしまう。

 さらにもっと昔はこのビルの跡地になったトコから小さな軽便電車が奥地に向かって出ており、父親はそれに乗って片道だけで2時間以上かけて市内の中学に通ってたという話をおれは何度も何度も聞かされた。戦後間もない電力事情の極めて悪かった時代のことで、電車は馬力不足でしょっちゅう上り坂で動けなくなったらしい。そうなるとみんなで電車を降りて押したんだそうな。
 しかしながら恐らくそれは彼にとって最も鼻高々の時代だったのではあるまいか。旧制中学に進学できたってコトはそれなりに地元では経済的余裕もあって勉強もできた証だったろうから。
 裏町に向かって大きくカーブしながら入ってく細い通りがその廃線跡だ。ちなみに冒頭に挙げた「一升びん」の平生町店ってーのがこの軌道敷跡に沿って行くとある。沢山ある支店の中ではここの倒れそうなオンボロの佇まいはナカナカ良い。

 駅前の目抜き通りの商店街にしたって人通りは閑散としており、シャッター街というほどヒドくはなってないけど何かヒマそうだ。眠った様な佇まいなのに老舗っぽい和菓子屋や古そうな料亭が目立つのも古い町らしい。もちろん、松阪牛を扱う立派な肉屋があったりもする。
 さらに行くと少し小高くなったところが城跡で、周辺には元は武家屋敷だったのか何なんなのか、立派な門構えの家が今でもけっこう多い。

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 いつだったか書いた通りで、おれが生まれる前に亡くなった祖父は、小学校を出るとすぐにこの町から大阪に向けて一人前の商人になるため当時は大軌と呼ばれていた近鉄電車に乗って旅立って行った。戦前、それなりに功成り名を遂げ着飾って意気揚々と凱旋将軍のような面持ちで降り立ったのもここだったし、戦後零落してからは金策の結果に胸を撫で下ろしたり、落胆したり、途方に暮れたり、あるいは激昂したりしながら大阪への電車に乗ったのもここだった。

 父親も最初こそ疎開で不安一杯でこの駅に降り立ったはずだが、中学になってからは毎日この町に胸を張って通っていたのだろう。しかし、結局卒業まで通うことは叶わなかった。途中で旧制から新制に学制が変わってしまい、仮寓する近くに新たに出来た高校に移ることになったからだ。体力的には随分ラクになったと思うが、変化に乏しい田舎町に押し込められることは、大阪の、それも当時はキタやミナミと並ぶ繁華街だった上本町界隈で何不自由のない幼年期を過ごし、地方都市とはいえ近郷では一番賑やかなこの町に日々通ってた立場からすると、精神的にはかなりの苦痛だったに違いない。さらにそれは家計の逼迫が顕在化し始めた時期とも重なっており、その後の人生に何らかの暗い翳を落としたことは容易に想像できる。
 なぜ彼がここからあと少しの郷里にはあまり帰りたがらない割りに、この町へは行きたがったのか、今なら何となく分かる気がする。

 松阪・・・・・・おれにとってはさほど馴染みのない町であるけれど、彼等にとっては万感の思いの去来する町であったのは間違いなかろう。

 これまた昔からありそうな花屋で仏花を買い求め、おれは駅前で借りたばかりのレンタカーに戻った。これから一旦青山高原の方に回って、そこから冒頭にも書いた今は松阪市の一部となった父方の郷里に向かわなくてはならない。とは申せ、菩提寺の寺は呵責ない過疎化の波の中で、今では廃寺寸前の体たらくだ。しかしそれでもそこに今しばらくは墓所を残さねばならない事情がある。いやはや辛気臭くも気鬱な旅だ。

 夜になってホテルに荷を降ろし、外に呑みに出掛けた。相変わらず通りは閑散としていた。

2015.08.18

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