「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
奇想を巡る旅(T)・・・・・・栄螺堂


こんなヘンな形。

 栄螺(さざえ)堂と呼ばれる建築は日本独自のモノらしいが、現存するのは国内に僅か9ヶ所しかない。殆どは関東以北にあるが、唯一、九州の島原に天如堂といって、明治の半ばからゆきさんの寄進によって建てられたという灯台のような特異な形のものがある。また、新潟・竜照寺に現存するものは1階が潰れて平屋建てになってしまい、残念ながら今は栄螺堂としての要件を満たしていない。

 歴史的にはそんなに古いものではなく、江戸時代中期くらいから明治にかけて隆盛を極めた三十三観音や百観音と呼ばれる巡礼行を庶民が合理的かつお手軽に行うために考案されたものだ。その最大の特徴は、押し寄せる参拝客の善男善女たちがぶつからないようにするため、一方通行で堂内をグルグル上がってそのまま降りて来れるよう、通路が二重螺旋となっていることにある。その建物の形、あるいは螺旋から栄螺堂と名付けられたようだが、もちろん本物の栄螺の内部は二重螺旋にはなっていない。なってたら壺焼きはもっと食べやすかっただろう。

 世界を見渡すと同じような例ではイタリアにあるサン・パトリッツィオの井戸やフランスのシャンボール城なんかがあるらしいが、おれは見たことが無い。仕事が相変わらず忙しいのとネコの世話で、たかだか三連休さえままならなくなった今の状況では実見することはナカナカ叶わない夢ではある。

 ちなみに二重螺旋と申し上げたけれど、本当に通路が完全な二重螺旋構造になってるのは会津と島原だけだ。後のは広い廊下を上り下りに仕切ったり、かなり無理な急な梯子段で繋いだりしてるので螺旋と呼ぶにはいささか無理があるとおれは思う。島原の方は未見なので、今回は会津の方についてちょっとあれこれ書いてみたい。

 いずれにせよ懸崖造りに魅せられたおれが栄螺堂にも魅せられるのはけだし当然の帰結だったのかも知れない。

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 会津の栄螺堂について触れるならば、やはりまずは明治維新前夜の白虎隊の悲劇のことも書いておく必要があるだろう。

 尊王攘夷と左幕の最後の決戦だった戊辰戦争の、その隅っこの方の局地戦として会津戦争ってぇのがあって、会津藩のちびっ子部隊とも言える白虎隊の少年兵士たちまでが動員を掛けられたのだった。白虎があるくらいだからもちろん青竜とか玄武、朱雀なんてーのもあって、どうやら年齢別の組織となっていたらしい。徳川の泰平の世ならまぁ、ボーイスカウトとかカブスカウト、あるいはサッカーチームのジュニアとシニアみたいなもんだったんだろうが、時代が風雲急を告げて急展開する中、ロクな武器も渡されないまま実戦配備されたってんだから実にムチャクチャな話である。
 今さらここでおれが言うまでもなく、薩長連合を中心とする新政府軍は兵力・武器共に圧倒的であった。会津藩全体としてはいろいろゲリラ戦を仕掛けたりして善戦はしたもののどしたって敗色は濃厚で、いよいよ自軍の劣勢を悟った白虎隊は万策尽きて一斉に自決したのであった。その数、20名。1人だけが偶然生き残った。
 一説には早とちりで鶴ヶ城が落城したと見誤って悲観したとも、あるいは特攻かけようか迷った挙句、生きて虜囚の辱めを受けるくらいならいっそ、と思い詰めたとも言われるが、いずれにせよ年端も行かぬ少年ばかりが切腹して果てたのが城の東方に位置する飯盛山、そしてその一角に栄螺堂はある。

 大河ドラマの舞台に選ばれると地元はその後10年くらい食えるってな話を聞いたことがあるが、ここもやはりそうみたいで、とっくに終わった「八重の桜」の綾瀬はるかが勇ましいポーズで鉄砲を構えたポスターや幟が未だあちこちにある。飯盛山は今や会津盆地の一大観光地で、立ち並ぶ土産物屋の向こうには有料のオートスロープまでが設けられている。とにかく暑い。軟弱なおれは汗だくになるのがイヤでとっとと乗ってしまったのだった。
 てっぺんは白虎隊の墓になってる。余談だけど、その近くにも土産物屋があって、冷やかしに覗いたおれはその店が「土産物屋の木刀」発祥の地であることを初めて知ったのだった。何でも好奇心を持って見るに限るね・・・・・・で、そっからダラダラ坂を下ると呆気なく栄螺堂はあった。

 写真では見たことあったけど、この眼で見る栄螺堂はホント何とも言えない奇妙な形をしていた。所謂寺院の堂宇の形と呼ぶにはかなり無理のあるフォルムだ。上方に向かって伸びる螺旋をそのまま六角堂にまとめ込んだような、木造の建物なのに水平方向の支えが無い、不安定といえばこれほど不安定な形はないだろ、ってな建物だ。入口には差掛け屋根が張り出しているのだけど、何となくそっちに向かって全体が傾いてるようにも見える。

 とにかくまずは400円払って入ってみることにする。

 入ると右回りのスロープがいきなり始まる。そんなに急ではない。階段は全く無く、滑り止めのための横棒が放射状に渡された木の廊下が延々と同じ曲率で曲がりながら登って行ってる。天井は低く、中肉中背のおれでも頭がつっかえそうだ。
 塔の中心部分は元は観音を入れてたらしい厨子がスロープに沿って等間隔に並んでいる。心柱があるのかどうかは分からないが、こんなグルグル曲がった廊下を積み重ねただけで巨大な建物が耐えられるとは到底思えず、真ん中部分はそれなりに意味のある躯体として機能してるのではないかと思った。唐突におれは古い旅館とかの廊下の隅っこにある料理運搬用の人力エレベータみたいなものが入ってるスペースを想い出した。
 そんなに何周もするワケではなく、2周くらい上がるともう最上階。ギッシリと天井や柱に張られた千社札がかつての信仰の深さを物語る。ここで真ん中を横切る小さな橋を渡ると今度は逆回りの下りのスロープが始まり、登り通路の下を通って降りて行く。出口は入口右側にあった。

 とにかく見事な二重螺旋である。

 この奇天烈な建物を設計(?)したのは郁堂なるお坊さんらしい。ウケ狙いでもなんでもなく、押し寄せる参拝客を合理的かつ円滑、安全にさばくためにこのようなとんでもない形を思い付いたのである。ダ・ヴィンチのスケッチを見たとか、紙縒りを捻ってて偶然思い付いたとか諸説あるが、おれとしては関東で始まった栄螺堂なるものの噂を聞きつけた住職が、「グルグル回って登って、そのまま下って来る」って機能面だけで想像を逞しゅうして知恵を絞ったのではないかと思う。

 元祖とされる江戸・本所の羅漢寺の栄螺堂の建立が早くて1723年、遅くて1780年、これは他の栄螺堂と同じ形式で外観二階建ての三層構造で、廊下は曲線になってはいない。1796年に会津が完成するが、その時点までに造営されたのは北関東あたりが北限であり、どれも形式としては元祖のデッドコピーであった。
 当時は今よりもっと遠かった会津に設計図その他がそう簡単に伝わったとは思えない。また、これだけオリジナリティの塊のようなものがすぐに完成したとも思えない。比較的構造的にはムリの無い形をした元祖の本所にしたって完成までに短く見積もっても十年以上を要しているのだ。
 とするならやはり、元祖の噂を聞き付けた住職が何年も呻吟した挙句、さらにまた何年もかけて完成に持ってったと理解するのが一番自然だろうと思う。

 まぁ、いずれにせよこんな奇妙なものを引き受けさせられた宮大工は死ぬほど大変だったろう。「お坊さぁ〜ん、こんなんムリっすよぉ〜」とかナキが入ってたかも知れない(笑)。

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 恐らく郁堂って坊さんはとても真面目で愚直で不器用で、さらには人付き合いなんかもあまり上手くないタイプの人だったのではあるまいか。グルグル回って登ったら同じようにグルグル回って下るんですよ・・・・・・ってな情報とも呼べないような僅かな手掛かりだけを頼りに、あーでもないこーでもないと必死で考えた結果が極めて特異なあの形になったとおれは思うのだ。

 というのも奇想とは必ずしも元来カッ飛んだ天才肌でちょっとばかしヘンな人にばかり降りて来るのではなく、むしろ往々にしてコツコツと真面目で融通が利かないくらいの人が、課題についてトコトン考えに考え抜いた地平に立ち現れるものだからだ。
 ついでに言うと、従って奇想には実のところケレン味もハッタリもない。だって本人には奇妙なことを考えてる自覚さえないのだから。この点で奇想は極めて素朴で純粋とも言える。だけど常識から完全にズレたところにこそ奇想の面白さがある。ウケ狙いでこの面白さはどうしたって出せない。

 会津の栄螺堂はパッと見はなるほど奇妙奇天烈ではあるけれど、例えば二笑亭やシュバルの理想宮のような狂った点は微塵も感じられない。見れば見るほど、目的達成のために余分な属性をすべて削ぎ落としてったら、必然的にあの形が残ってしまいましたと言わんばかりの合理的で骨太なシンプルさが全体に漂っていることが分かって来る。ある意味バウハウス的なのかも知れない・・・・・・でもやっぱし構造的、力学的にはムリあるし、とってもヘンなんだけど(笑)。

 奇想を巡る旅も悪くない。


埼玉県本庄市の成身院百体観音堂。これが一般的な栄螺堂の形。

2015.06.26

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