「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
谷町筋から富田林へ


恐らくは抹香臭さの元締めであろう四天王寺。

http://komekami.sakura.ne.jpより
 大阪・谷町筋は何となく抹香臭い通りである。

 正確な定義は知らないんだけど、おれのイメージとしては、北は東天満のラーメン・薩摩ッ子のある交差点のトコから南はJR天王寺と阿倍野近鉄の間の歩道橋の交差点までが谷町筋で、上町台地を南北に走る結構な幹線道路と言えよう。多くの交差点は谷町筋側がアンダーパスとなっており、平日はともかく、土日ならば余り信号に引っ掛かることもなくキタと天王寺・阿倍野を行き来できる。

 そんな上町台地は、かつての大阪が本当に水の都であった頃、海岸線が今より内陸にまで来ており、今は拓けた難波辺りも縦横に掘割の走る低湿地だった時代から交通の要衝だった。それ故、歴史が動くときは激しい戦乱の舞台ともなったのである。
 有名な大阪冬の陣、夏の陣では茶臼山は重要な陣地となり、最後の天王寺口の合戦では空前の兵力を双方動員しての激烈な攻防戦が繰り広げられた。言うまでもなく死屍累々である。そのせいかあらぬか、今でも寺や神社が数多くあるのだ。だから何となく抹香臭い。

 そもそも天王寺の地名だって四天王寺から来てる。聖徳太子の創建と伝わるこの寺は、国内屈指の歴史を誇る大寺院である。しかし、今書いた通り戦乱の地となった関係もあって何度も丸焼けになっている。トドメは昭和20年の大阪大空襲だった。だから歴史の割に堂宇は真新しい。そぉいやおれが子供の頃はまだ、白い軍服みたいなんに身を包んだ怪しげな傷痍軍人が物乞いに並んでるのを見かけたものだ。戦前は癩病患者が物乞いの列を為していたという。
 夕陽丘の地名は夕日が美しいので歌に詠まれたのが由来などと言うが、浄土信仰の日想感が背景にあることは間違いない。六万体なんて地名もある。聖徳太子が六万体の地蔵拵えたなんてウソもウソ、大ウソ。間違いなく大坂の陣での戦死者や手当たり次第に殺された非戦闘員の菩提を弔うためだろう。時の権力者となった徳川家に遠慮して、聖徳太子の由来なんぞブチ上げたのだと思う。

 抹香臭さの向こうにあるのは、言うまでもなく死の匂いだ。

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 新大阪で新幹線を降りると真っ直ぐレンタカー屋に向かうのがこの数年の習わしになっている。もぉスッカリ常連で、顔まで覚えられてしまった。いつも借りるのは小さなリッターカーばかりである。
 大阪に戻ると実家関係の様々な雑事を片付けなくてはならないのだが、如何せんアシが無いと機動力に欠けてしまう。大した距離を移動するワケではないとはいえ、やはりクルマがあるとないとでは大違いで、片付く予定も片付かなくなってしまう。

 大阪の地理関係はある程度分かってはいるもののもう離れて20年近く、新しい道が出来てるかも知れないので念のために富田林までのルートをナビでセットする。休日だからムリに高速行かずともそこそこのペースで行けるだろう。大体、日常生活はボーッとしてるおれはいつもETCのカードを持ってくるのを忘れるのだ。

 ルートを示す青い線は梅田まで下りそっから東進し、東天満から谷町筋を下るよう指示している。それが最も合理的なルートである、ってコトだ。

 大阪城の西側に沿うように南下すると谷町六丁目交差点だ。ここを東に入ってすぐのところに戦前、父方の家はあったという。薬や化粧品といったケミカルの町であった大阪らしく、祖父は小さいながらも化粧品工場を営んでたそうである。どんな経緯で彼が郷里から出て来てどんな丁稚奉公をして工場を構えるようになったのかは聞かされてない。父親も知らなかったのではあるまいか。
 当時一体どれだけ収入があったのか、ともあれその暮らしぶりは随分と派手だったようである。家には女中や乳母、書生や茶坊主までがおり、大正のニューアカブーム以降、雨後の筍の如く登場してた新興宗教のパトロンっちゅうか谷町筋だけあってタニマチみたいなことまでしていた(笑)。
 父のいとこにあたる田舎の親戚のおじさんの話では、子供時分に盆休みに家族で遊びに行ったら、一族郎党引き連れて梅田の百貨店で好きなだけ物を買い与え、大食堂でたらふく御馳走し、宝塚の歌劇に繰り出してった、っちゅうからどうにも悪趣味で豪勢だ。今でいうなら田舎から出て来た子供たちをまとめてTDR連れてって、渋谷や原宿辺りで好きなだけ買物させ、さらには横浜中華街でたらふく食わせるような感じだろう。
 そんなんだから長男であるおれの父親は随分甘やかされて育ったようで、それであんなんになっちゃったんだろう。

 その家は前述の大阪大空襲で灰燼に帰した。致命的に痛手だったのは祖父がヘンな大阪商人のプライドで、「浪速のあきんどっちゅうもんは土地なんか持たんと、借家で商売に精出すモンなんだす」とかゆうて、自分の土地にしてなかったことだった。少し前に郷里に疎開してたおかげで全員命だけは助かったとはいえ、文字通り戦後、父の一家は丸裸になったのである。
 祖父は捲土重来、戦争が終わるとすぐ家族を郷里に残して単身再起を目指したようだが、戦前と変わらぬ零細で家内手工業的なビジネスモデルではそうカンタンに上手く行くハズもなく、おれの生まれる数年前に貧窮のまま失意の内に亡くなっている。つい最近になって知ったのだけど、郷里に戻ると戦前の羽振りの良さを振りまいて、それをカタに随分不義理を重ねていたようでもある。その金額は今の貨幣価値に換算すると数千万に及んだらしい。
 赤貧に喘ぐ一家には葬式を出す金さえもなく、まだ父親と結婚する前だったというのにおれの母親が仕方なく立て替えたってコトを、おれはガキの頃からクドクドと繰り言のように聞かされていた。

 そんな祖父が郷里に向かうために乗った電車は、次の谷町九丁目交差点をこれまた東に入った上本町から出ていた。近鉄である。今は延伸されて難波が起点になっているが、当時は上本町がターミナルだったのだ。その名残で今でも百貨店がある。ともあれ近鉄に揺られて若き日の祖父は青雲の志を抱いて大阪にやって来て、それなりに功成り名を遂げ・・・・・・そして経済的に破綻した晩年は、必死の金策のために郷里に向かってったのだろう。

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 四天王寺前の交差点を東に折れてダラダラ坂を下って行くと、環状線のガード下を潜る。寺田町の駅だ。すぐ左手に源ヶ橋商店街のアーケードが暗い口を開けている。子供の頃、おれはしょっちゅうそこに行ってた。その当時のことは以前別に纏めたんで今回は割愛するが、如何にも大阪な商店街ではあった。道路は商店街からはやや南に逸れながら林寺、桑津、百済とさらに進んでくとナビは今度は関西線のガードを潜って左折しろ、と無機質にアナウンスする。杭全町はもうすぐそこだ。
 おれの生家はそこに今でも残っている。母親が株で当時の金で数十万円ほど当てて買ったという2階建ての五軒長屋の真ん中辺りだった。そこで小学校に上がるちょっと前までおれたちの一家は暮らしていた。思えば、母親の類稀なる投機の才能と不思議な勝負強さが無ければ、おれん家はとっくに破産してたに違いない。

 東部市場の前を左折して今里筋を北上すれば母方の祖父母の家があった場所まではすぐだ。しかしここはそのまま直進。そのうちナビは右折のアナウンスをする。平野警察西交差点である。父母が結婚式を挙げ、おれが宮参りに連れて行かれたという杭全神社もほど近い。
 元は阪堺電車平野線の軌道敷を利用した阪神高速松原線の巨大な橋脚が右の方から迫って合流するあたり、背戸口町には逼塞してからの父の一家の暮らす家があった。元は遠い親戚の家だったのを借りて住んでたらしい。疎開先の郷里から家族が呼び戻されて戻ったのが恐らく昭和26〜7年、それから長吉長原の団地に引っ越すまでだから15〜6年だろうか、間取りがどぉだったとかはスッカリ忘れてしまったが、子供心にも薄暗くて狭いあばら家に思えたこと、ヤツデが狭い庭に繁ってたことだけは今でも覚えている。

 狭い家に父の兄妹4人と両親だから恐ろしく窮屈であったことだろう。祖父は捲土重来もヘチマも戦前の羽振りも人脈もどこへやら、やることなすこと上手く行かず、細々と食いつなぐだけが精一杯だった。そうなると立場的には長男であるおれの父親が経済的に一家を支えるべきであったハズだろうに、演劇にハマって役者になるとかなんとか世迷言を並べてすぐに家に居付かなくなってしまったらしい。まぁ、かつてミュージシャンになるとかなんとか世迷言を並べた息子のおれにそれを嗤う資格なんてないのだけど・・・・・・。
 ともあれ残されたのは、も一つ生活力に欠ける祖母と高校生になったばかりの弟、中学生の妹、そしてまだ年端も行かぬ末弟である。結局、父はボンボンに育てられたせいで激変した生活環境を直視することが出来ず、現実逃避してたんだと思う。昭和も30年代になろうとしてた。

 そういえば、平野のその家には月に一度、おれは母に手を引かれて行ってたハズだが、不思議とそこに父が一緒にいた記憶がない。郷里のことについてだって昔話を嬉しそうに色々語るのは何度も聞かされたが、実際に連れられてったのはたった一度きり、それも1泊しただけでトンボ返りで戻ってきた。他に行った時はいつも、叔父である次男に連れられてだったのだ。
 たしかに休みもロクになく働いてたのは事実だったから、ナカナカ時間が取れなかったって理屈は成り立つだろう。しかし、盆暮れにはそれなりに連休があったんだから、もっと帰ろうと思えば帰れたハズだ。

 ・・・・・・明らかに父は郷里や実家を忌避していたのである。その思考回路は良く分かる。

 プライドだけは売るほどあった彼にとって、かつて都会育ちで田舎の子では滅多に行けない旧制中学に進み、それこそ「末は博士か大臣か」と持て囃された郷里で、あるいは役者になるとかなんとかスカしてエラそうに吹聴した実家で、今でいうフリーター状態で何年も過ごした挙句、小さな会社のしがないサラリーマンにしかなれず、祖父の借金も踏み倒したままな現在の姿を見られることは耐えがたい恥辱だったのだ。どのツラ下げて、っちゅうヤツである。
 素直に一言素直な心情を吐露すればすべては氷解したはずなのに、どうしてもそれが彼にはできなかった。それは間違いないと思う。

 そんな平野をさらに南下すると瓜破交差点。ここを左折して大和川沿いにちょっと行けば、祖父に先立たれ零落したまま亡くなった祖母が最後に暮らしてた長吉長原の団地があるはずだ。今思えば不思議なコトだが、亡くなるまでのホンの短期間だったとはいえ何故か結婚したばかりの次男夫婦と同居してた。その辺の事情はおれも知らない。
 ・・・・・・って、曲がるとそうなんだけど、ここは交差点を直進。すぐに大和川だ、後はとにかくひたすら国道309号線を行けば道なりで富田林に着く。

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 それにしても、何という偶然の巡り会わせだろう。初めて新大阪でレンタカー借りてナビの指示に従って走った時、おれは少しばかりゾッとしたものだ。谷町六丁目付近から始まった、父を巡る一家の流転の歴史のポイントが、単純な一本のルートでほぼ時系列に沿って繋がっており、その末端に終の棲家となった一戸建ての家がある・・・・・・。

 そう、おれには何だかまるで断ち切りがたい悪因縁のように、谷町筋の持つ抹香臭さが見えない一条の細い煙となって、そこまで漂って来てるように思えたのである。

2015.03.15

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