「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
堅破山に登る


薄暗い森に鎮座する太刀割石。マジで巨大。

 初めに申しあげておきたい。

 関東圏に在住で巨石に興味を抱かれてる方はもちろん、巨石に興味のない方も堅破(たつわれ)山だけは登ってみられることをお勧めする。そして他の岩はどうでもいいから、少なくとも名前の由来となった太刀割石だけはご覧になられることをお勧めする。そこに溢れる自然の造り出した、H・ムーアも裸足で逃げ出すほど現代彫刻以上にシンプルでシュールなフォルムをじっくり観察していただければ、おれが拙い言葉で一生懸命伝えようとしてることが幾許かでも了解していただけるものと思う。

 ・・・・・・って書いちゃうと最早結論は出てるワケで、こっから先グダグダとおれがヘタな文章を書き連ねる必要も無くなってしまう。文章に於ける「4分33秒」をここで狙ってみても詮無いことで、まぁいくら駄文とはいえなんぞ書かんと仕方ない。そんなんで後はオマケと思って読みトバしてくださいな。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 平成の大合併で今は日立市に吸収合併されてしまった旧・十王町の外れに堅破山はある。標高700m弱の山でこの辺では一番高いが、周囲の山との比高はそれほどでもないので独立峰として目立ってるワケではない。700mと聞くと、登るのしんどそうだなぁ〜と二の足を踏まれる方も多かろうが、かなり高い所まで自動車で上がれるから、実際はハイキング程度の山である。登山道も殆ど階段になってたりして、おれはサンダル、ヨメに至ってはヒールで上がったくらいだ。何の問題もなかった。

 東国の山にはよくある伝承だけど、ここもまたやはり東夷平定と切っても切れない関係にある。そもそもはホントに実在したのかどうかは定かでない黒坂命(くろさかのみこと)という紀元前の人物が蝦夷征伐に出掛けて、ここで病気になって死んだと言われる。その霊を慰めるべくここに黒前神社っちゅうのが作られた。
 その後、これまた蝦夷征伐で有名な坂上田村麻呂が廃れてたその神社を日吉山山王権現として再興し、さらには後三年の役なんかでの勇猛な武将ぶりが有名な八幡太郎源義家がここに登って必勝祈願をした・・・・・・と。
 ・・・・・・言うまでもなくそれらは征服者・為政者の側からの作られた伝説だろうとおれは思っている。古代から巨石信仰の文化が連綿とあったところに、そのような後付けのデッチ上げがどんどん盛られてったのが実態だろう。紀元前に蝦夷征伐なんてあるワケないし、坂上田村麻呂が東夷平定に出てた頃にはまだ日吉山山王権現は成立してない、っちゅうねん。
 間違いないことは、江戸時代くらいには堅破山は天台宗系の修験・山岳信仰の山になってたってコトだ。つまり寺があった。神社に変わったのは江戸も終わる頃、全国に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐によってである。

 それはともかく、20台分くらいの広さの駐車場に停めたおれのクルマは本格クロカン4WDも驚くほどの泥だらけになっていた。アプローチを間違えたのである。ナビが示したルート通りに進んで行ったらだんだん道が狭くなって、最後はヌタヌタの林道になったのだった。脚の短いツーリングワゴンで良くまぁスタックしなかったもんだと思う。すれ違ったシングルトラックマニアと思しきMTBの連中は驚いた顔してたもんな〜・・・・・・(笑)。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 杉林の中を歩き始めるといきなり最初の「不動石」。平べったい岩の上に小さな不動明王の石仏が置かれ、その足許から水がチョロチョロ流れ落ちてる。まぁ、水は自然に流れてるモノではなく樋で引いてあったりして地味かつベタなな演出ではあるけれども、最初の一発目のギミックとしては面白い仕掛けだと思った。ちなみにこの不動石、割りと近年になってから名付けられて仕掛けが作られたらしい。
 それでも森閑とした森の中に静かに鎮座する巨石には素晴らしい存在感があった。もぉ撮影モード全開でバンバン撮りまくって行く。とは申せ初夏とはいえ朝もまだ早い。オマケに標高も500m近くあるモンだから、付き合わされるヨメは寒がってる。すまねぇ!(笑)

 次が「烏帽子石」・・・・・・う〜ん、どこにでもこの名前あるよなぁ〜。そらまぁあんまり突拍子もない名前も如何なモノかと思ってしまうが、ベタ過ぎる名前も一考の余地があると言えるだろう。
 続いてすぐ現れるのは「手形石」・・・・・・って、ちっちゃぁ〜!ワザワザ名前付けるほどの大きさではない。件の源義家の手形が残るとかナントカの伝説があるそうだが、この窪みが手形だとすれば、ちょっと手ぇデカ過ぎとちゃいます!?。
 ここから斜面の上に見える巨石の方がよほど迫力があるのだが、何故かコイツには名前が付いてない。登山道から外れて転がったのが不運だったのかも知れない。。
 さらには畳石。源義家は必勝祈願するわ、修験の行者はこの上で座禅組んだわ・・・・・・と伝承テンコ盛りなんだけど、実際はかなり斜めっていて座ると滑り落ちそうだ。割れ目から伸びる木の生え方からするに、元は立ってたのが倒れたのではないかと思われた。。

 おそらくは先の震災で倒壊したと思われる炭焼窯の跡である「あかめやき窯」を過ぎると取って付けた感たっぷりの弁天池。その横に上の神社に向かう山門がある。そこを通らずに一旦ルートを外れて少し行くと、薄暗い木立の中、巨大なそれはあった。
 冒頭に挙げた「太刀割石」だ。またもや源義朝登場。彼が戦勝を念じつつ太刀を一閃、スパッと叩っ切った・・・・・・ワケないやろ!?

 実は地質学的に言えば良くありがちな詰まらない話なのである。気の遠くなるほどの時間を掛けて卵状に風化した巨大な花崗岩塊が、ある時節理に沿って偶然、綺麗に真っ二つに割れ、一方はゴロンと転がった・・・・・・ただまぁそれだけっちゃそれだけのことだ。
 しかし、眼前の光景は自然の造形の妙と一言では片付けられないほどに見事だった。長辺で凡そ7mほどもある真っ平らな切断面を見せて背よりもはるかに高い半球状の巨大な岩が転がる。ちなみにこれもまた先の震災の被害を受けて、少し下にズリ落ちたらしい。残った半分はまるで何かの巨大モニュメントのように傍らに聳え立つ。ともあれ圧倒的な迫力だ。
 ただ、ここにも伝説の大いなる捏造があることは、我ながら野暮だとは思うけど少し書き留めといても良いだろう。源義家はおよそ1000年前の人だが、この太刀割石の小さな亀裂に生えた木の根がだんだんと節理を押し広げがパッカァ〜ン!と割ったのは推定でおよそ500年くらい前のことらしい。つまり時系列が明らかに矛盾してるのだ。
 伝説はともかく、この自然の作り上げた見事なオブジェをバックにさらにバシバシおれたちは撮りまくった。凄いロケーションだ。

 上に上がると広場状になっており、いささか荒れ気味のお堂が1つだけ残る。今は神社に鞍替えさせられてしまった寺の名残である釈迦堂だ。それに向かい合うようにこれまた魁偉な「甲石」、さらにその手前には「舟石」が並ぶ。「甲石」は元は「和光石」と呼ばれてたのが、水戸光圀によって名前が変えられたという。案外、伝説の捏造者は、今でいう歴史マニアで歴史書としてはトンデモ過ぎる「大日本史」の編纂を命じた彼、あるいはその側近たちなのかも知れない。
 「甲石」の上には見事な松が根を張っており、いずれは「太刀割石」のようにパッカァ〜ン!と割れる日が来るのだろう。「舟石」はそうして「甲石」から剥がれ落ちたものらしい。ちなみに甲石は上の方が刳り抜かれて祠になっている。佐貫観音でも見た形式で、ここにはかつて薬師如来や十二神将が入れられてたそうだ。

 頂上はまだもうちょっと先になる。急な石段を上がると本殿があって、さらに尾根伝いに上がるとようやく頂上。小さな展望台があったが、残念ながら曇り空で、あまり眺望は利かなかった。「胎内石」はまだもうちょっと先にある。これまた見事だったが、ロケーションの説明はもうこれくらいで沢山だろう。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 クルマを置いたトコまで戻らねばならないので、今回は神楽石や奈々久良の滝はパスすることにしたけれど、それでも巨石の放つ原初のパワーみたいなモンは十分に堪能できた。捏造された伝説でどれだけコテコテに糊塗されようと、巨石はとにかくそこにある。

 名草から始まった巨石巡りもこの堅破山を訪ねたことでいよいよ病膏肓になってきた気がする。何てーか、大きなターニングポイントとでも言えば良いのか、単に「うわ〜!石、大っきいのぅ〜!スゴいのぅ〜!」からもう少し違う感じになったのだ。
 言葉にしちゃうとエラく大層な感じになってしまって汗顔の至りなんだけど、これまで延々と積み重ねられてきた、それは伝説をも捏造してしまうほどに情熱的な古代から現代にいたる過去の日本人の石に対する愛着に対して少し興味が湧いて来たのである。

2015.03.26

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved