「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
花袋の愛した温泉・・・・・・藪塚温泉


藪塚採石場跡の威容

 何度も前を通りながら何となく入ったことのない温泉っちゅうのがある。随分昔に拙文にまとめた京都の北白川ラジウム温泉なんてまさにそうで、その前の道である通称「山中越え」を攻めるだのなんだのゆうて、ハングオンとかなんとか膝が接地しただのステップ擦っただのと言いながら、単車を寝かし込んで散々走りまくってたクセに、何となく近いしあんまし寄ってもワビサビしてなさそうに感じて、近所に暮らしてた時はついに入らず仕舞いだった。
 現在ではその多くが喪われた大阪・河内長野の鉱泉群や、温泉場として消滅した紀泉国境近くの山中渓温泉なんかもそうで、今から思えば己の不見識が悔やまれるばかりである。

 今回紹介する群馬の藪塚温泉も、そんな温泉場だ。これまで前を通り過ぎたことは所用も含めると3〜4回あったハズだ。

 最初に言ってしまうともぉミもフタもないんだけど、本来的にはそんな力を込めて紹介するトコではなかろう。ならばそこで何か面白いエピソードが起きたのか?っちゅうと、それもない。おれたちはそこに立ち寄り、いくらか時間を過ごして、出た。それだけだ。いやもう、一稿としてマトモなボリュームに出来るのかも覚束ない。
 実際、「温泉」と名乗っているけれど実は単なる冷鉱泉で、東武電車の駅から少し離れた丘陵地に何軒かの旅館が固まるだけの、これといった特徴に欠ける、そして昔はちょっと郊外に出るとどこにでもあったような温泉なのだ。
 だからこそ、三日月村やらスネークセンターといった脱力系っちゅうかキワモノ観光スポット拵えて集客に躍起になって来たのだと思う・・・・・・まぁ、そのような施設の常でどっちもパッとせんのだけど。

 大体に於いて田山花袋が既に明治の時代に太鼓判を捺してくれてるのである。「田舎式の汚い鉱泉だ」・・・・・・と。このことについては以前触れたけど、彼は西長岡鉱泉(こちらは昭和30年代に火事で無くなった)と共にもぉボロクソにコキ下ろしながら、何度も何度も取り上げ、そいでもって最後には誉めたりしてる。結局は、幼少のころから慣れ親しんだこの2つの平凡な「村の湯」を彼はやはり愛していたのだった。
 これは、不味い不味いと言いつつ、何十年も近所の蕎麦屋の出前を頼み続けた内田百閧フ有名なエピソードを想い出させる。手放しで褒めちぎるなんてホントの愛ぢゃないのかも知れない。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ノーガキはともかく、そもそも藪塚に行ったのは温泉が目的ではなく、その裏手の山を入ったトコにある石切場の跡を見たかったからなのだった。あ〜もぉ最近のココロザシの低さバレバレやね。
 それはさておき、この石切場について若干説明すると、昔ここは「藪塚石」っちゅう大谷石にも似た凝灰岩の石材の取れる場所としてそれなりに栄えた場所なのだ。最盛期には何百人も働いてたっちゅうから、ナカナカの規模だったんだろう。鉱泉場も過酷な石工たちの疲れを癒す場としても流行ったようである。しかしながらぶっちゃけ品質がかなり劣ったために嫌われて、昭和30年代初めには廃業してその跡だけが残った・・・・・・と。
 どこの石切場にも共通することで、その景観はまるで何かの神殿の廃墟のように荘厳である。特にここ藪塚のは他と違ってあまり観光開発の手が入っていないためにその雰囲気がより一層強いって知って、こりゃ撮影のロケーションに宜しかろうとやって来たのだが、3連休で天気が良いこともあってか意外にポツポツながら人がやってくる。これはいささかマズい。

 ちょっと意気消沈しつつ、それで仕方なく温泉に立ち寄ったのだった。どうやら「かかし祭り」というのにブチ当たったらしく、こっちはこっちでけっこうな人出だ。旅館で規模的に大きいのは「ふせじま」だが、いかにも観光っぽいので違うところに行くことにする。最初に訪ねたところは大声上げて何度訪問を告げても人が出て来ず断念、狭い道を入った奥にある「藪塚館」っちゅうのに入ってみることにした・・・・・・って、ああ、書けば書くほど馬脚を現してるな。そう、温泉入るのに事前のリサーチも何もせず、テキトーに気分で選んだのだ。以前のおれでは考えられんことだろう。

 まったく期待せずに入ってみて、意外にシブい佇まいにいささか驚いた。昼時とあって館内は静まり返り、灯りも殆ど消されている。入口の印象よりは内部は年季の入った建物のようで、適度のヤレもあって好感が持てる。早速一人700円だかの入湯料を払って、半地下状の浴室に向かう。平凡な男女別の内湯だが、入口からして年季の入った作りでナカナカの佇まいだ。廊下の反対側の洗面台の古風さも良い感じ。
 細かいタイル貼りの浴室には、奥に舟を模した形の浴槽が一つあるだけ。チャンと舳があって、もやうための鉄環も付いてたりもする。冷鉱泉の宿命である加熱の都合もあってかかなり小さく、4人も入れば一杯だろう。なぜか壁のタイルの意匠がローマ時代のチャリオットになってるのは、かつてはローマ風呂とでも洒落込んだのだろうが、だとすればもろに和船の浴槽との取り合わせの辻褄が合わないな。
 低い仕切りの向こうの女湯の湯舟ちょっと歪んだ小判形で、こちらには意匠らしい意匠は施されておらず、タイルの種類も異なることから、元は混浴だったのを分けたのかも知れない。いずれにせよこちらの浴槽もかなり小さい。

 湯は正確には含炭酸重曹泉らしいのだけど、入った感じでは何だか良く分からない。老朽化した走湯管の錆で湯口が赤くなってるので、むしろそれが印象に残ってしまう。それくらいに清澄で特色を挙げにくい湯ではある。休日だというのに、町の中ではそれほど盛大ではないにせよ祭りをやってるというのに、小一時間の間、他の客は誰一人やってこなかった。ひたすら静かだった。湯に沈んでいると、チョロチョロと流れ込む湯の音、後はたまに表を通り過ぎるクルマの音くらいしかしない。傾きかけた秋の午後の陽の差し込む浴室内には白い光が溢れ、何だか療養所の病室にでもいるような気分になって来る。

 こうした地味な鉱泉で過ごすダウナーな時間って、実は安楽死(あるいは生まれ変わりかも知れないが)へのプロセスの疑似体験ぢゃないのか?って思えてくる。そうそう、羊水体験マシンって一時流行したことがあった。あれって結局、死でも生でもない、成長でも退化でもない、明るくも暗くもない、楽しくもないが悲しくもない、快でもないが苦しくもない、幸せでもなければ不幸せでもない、限りなく宙ぶらりんの状態の体験ではなかったのかと思うのだが、多分それと同質のモノだろう。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 夢から覚めたような気分で表に出る。花袋の見た風景からはおよそ120年経ち、もちろん大きく様変わりしてるんだろうけど、それでも叢深く凡庸な基調は少しも変わってないように思われる。いみじくも「田舎式」と一言で言ってのけた彼の審美眼は鋭かったと言える。そしてくどいようだが彼は、その田舎式を唾棄しつつも深い郷愁と愛着を抱いていたのだった。

 北関東は候補地がまだまだある。石切場跡はまたそのうち機会見付けて、これらと絡めて訪ねることにしよう。そしてその時はまたこの地味な鉱泉場も訪ねてみよう。


変わった形の女湯

2014.01.07

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved