「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
黒塚幻視行


これが笠石。伝説が事実ならばこの下で惨劇が繰り返されたハズなんだけど・・・・・・

    〽不思議や、主の閨の内を物の隙より良く見れば、
    〽人の死骸は数知らず、軒と等しく積み置きたり、
    〽膿血忽ち融滴し、臭穢は充ちて膨脹し、
    〽膚腑悉く爛壊せり。
    〽これは音に聞く安達が原の黒塚に、
    〽籠もれる鬼の棲家なり。

謡曲「黒塚」

 福島は二本松の町を東に少し行ったところにある黒塚、こと観世寺に行った。上に引用した通り、余りにも有名な「安達ヶ原の鬼婆」伝説の舞台である。

 細かい部分での異説は様々にあるが、かいつまんで大雑把に言うと、旅人を捉えては喰らっていた鬼婆が旅の僧に調伏される・・・・・・ってまぁそれだけっちゃそれだけの話である。そこにいろんなオプションがくっ付いて、鬼婆は元は都で貴族に仕える下女だっただの、恋衣っちゅう殺した身重の旅の女性が実は生き別れの実の娘だっただの、退治したのは坊主ぢゃなくて山伏だの、実は死なずに改心しただのなんだのかんだのと、凄惨な割には荒唐無稽で殆ど破綻したようなストーリーが積み上がって今に伝えられている。

 何でここに出掛けてったのか?っちゅうと、最近すっかりハマッてる巨石がここにあるからで、勿体付けて謡曲の行を並べてはみたものの、不勉強なおれは実はまったく能の世界にゃ疎いのだった。いよぉぉ~カッポンカッポン。

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 古くは松尾芭蕉、歌人の正岡子規なんかも訪ねたと言われるその寺は、意外なまでに小さく、またヒッソリと静まり返っていた。

 入口で拝観料を払って入ると、すぐ左側に累々と巨石が積み重なっている。これが鬼婆が住んでたと言われる鬼の岩屋なんだけど、一目見ておれには磐座の一種、それも自然石をそのまま信仰対象としたようなものではなく、かなり意図的に積み上げて拵えられたもののように思えた。キトゥンブルーをそのまま残した青い眼の小さな猫がニャァニャァ鳴きながら現れて盛んにすり寄って来る。コイツ以外にもやたらと境内には猫が多い。

 岩の周囲は笑えるくらいに立札だらけで、無茶苦茶にウソ臭い。「胎内くぐり」はまぁ何処にでもあるから良いとして、説明を読んでもサッパリ意味が分からない「安堵石」、さらには「祈り石」・「甲羅石」、鬼婆がその下に暮らしたっちゅう「笠石」・「芭蕉休み石」・「蛇石」・・・・・・20m四方くらいの狭い所によくもこれだけ色んな謂れを詰め込んだモンだと感心してしまう。ちなみに「笠石」はどんな方法で載せたのかは分からないが、巨大な平たい岩が横倒しになって、巨岩の上に庇状に大きくせり出している。なるほど周囲に小屋掛けすれば住めなくはないスペースは確保できようが、そんな「決して開けてはならない小部屋」まで拵えれる広さではなかった。
 オマケに横には小さな池があって、これは「出刃洗いの池」。要するに鬼婆が人を殺めた後に出刃包丁を洗ったと・・・・・・几帳面なババァだな(笑)。そして、追いかけられた旅の僧が御加護を願って必死に祈りまくったってな伝承の秘仏の如意輪観音が収められた観音堂がさらに続く。何と60年に一度しか開帳しないらしい。

 さらには本堂脇には黒塚宝物資料館なるものもある。いささかガランとして埃っぽい。入ってみると、掛け軸やら古文書その他オーソドックスなものと共に、鬼婆が使ったという錆びてボロボロになった出刃包丁、人肉を似たという殆ど鉄板の破片にしか見えない鍋、赤子の肝を収めたという壺の欠片・・・・・・ウソ付け!(笑)。
 残念ながら撮影厳禁ってコトで、展示品の数々を写真に収めるコトはできなかったけれど、ま~どれもこれも胡散臭い代物ばかりだった。

 だからダメだ!なんて野暮を言う気はサラサラない。これこそが古典的宗教アトラクションなのである。なるほど現代の感覚で見ればこれらの仕掛けはあまりにショボい。しかしながら、古の善男善女は鬼婆の恐怖に震え、それを退治した観音の御加護に深く感銘を受けてたのである。

 個人的にはひじょうに愉しめた一時だった。ヨメも何を思ったか急に御朱印帳を貰うなどと言い出した。かくして我が家の御朱印第一号はこのバッドテイストでキッチュな観世寺のものと相なったのである。最後までキトゥンブルーを残した猫はおれ達にまとわりついたままだった。

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 ・・・・・・と、こっから先はおれの完全な憶測だ。何の根拠もないのでオッサンの阿呆な妄想と呼んでいただいても構わない。書きながらだいぶ酒も回って来たし(笑)。

 間違いなくここ観世寺の境内の巨石群は古代の磐座だろう。それは疑う余地がないように思われる。そしてその役割はおそらく安達太良山、あるいは北方の吾妻山まで含んだ火山群全体を聖地としたその遥拝所ではなかったか。それらを一望に見渡すために阿武隈川の河岸段丘のこの地が選ばれたのではないかとおれは思ったのだった。

 安達太良山の語源には諸説あって良く分からないところもあるのだけど、少なくとも言えることはまず初めにこの異様な山巓を見せる山が神聖視され、そして名付けられ、そこからこの辺一帯の地名が定まって行った、ってことだろう。事実、安達太良の麓であるこの辺一帯は古くから安達郡であり、そこにある原っぱだから安達ヶ原・・・・・・と。

 ちなみに火山には「A」音から始まり子音のS音が続く名前がひじょうに多い。阿蘇、浅間、そしてここの吾妻・・・・・・「アサマ」と「アヅマ」なんて殆ど一緒と言って良い。また那須や有珠、羅臼はその転訛と言われる。
 一方、安達太良は二荒(ふたら)や斑尾(まだらお)、倶多楽(くったら)等と同系でもあり、インドネシアのタランやタラカン、ニュージーランドのタラウェラ、タラナキも同じ系統である。「TA-RA」もまた「A-S*」と同様、火山に深くかかわる音韻であり、安達太良は両者の複合形の可能性も考えられる。いずれにせよこれらはそのコトバのルーツを南方系に持つ。
 さらにちなみに安達太良は今は「あ『だ』たら」と濁るけれど、古くは「あ『た』たら」と清音だったらしい。日本最大の火山密集地帯である鹿児島の錦江湾は姶良(あいら)カルデラであるが、そのやや南、指宿周辺の、大半は海の底にあるカルデラはその名も阿多(あた)カルデラであって、これらも語源的には共通しているんぢゃないかとおれは考えている。

 回りくどくゴタゴタ書いたけど、安達ヶ原の鬼婆伝説とは言語学的に見てもそのような古い歴史を持つ聖地であった場所を抹殺する過程で捏造されたストーリーではなかったのか?とおれは観世寺の巨石を見て思ったのだった。
 なぜ抹殺せねばならんかったんか?っちゅうと、その聖地は先住民族にとっての聖地であり、彼らにとっての魂の拠り所だったからだ。敵側の寺院や教会を破壊したりとか、相手の大切な場所を貶めたり辱めたりする行為は、民族紛争や戦争等でも割りとフツーに見られる現象でしょ!?

 抹殺とは言うまでもなく大和王朝以降繰り返された蝦夷征伐である。

 Wikiで知ったのだけど、この鬼婆伝説にはおれの勝手極まりない仮説を裏付けるような興味深い異説が存在する。旅の僧は偶然鬼婆に遭遇したのでなく、命を受けて討伐に向かったのであって、そして劣勢になった鬼婆は今の宮城県あたりにまで逃げてったのをさらに追っかけてって討った・・・・・・と。どう考えてもこれは蝦夷征伐の軍勢の動きをモロに連想させる。

 この二本松から南におよそ100kmの那須を舞台としたこれまた有名な玉藻前・・・・・・九尾の狐伝説もそうなんだけど(あの話では数万の大軍が遣わされたことになっている)、東夷平定が背景にあるようなストーリーには為政者によって捻じ曲げられた先住民の哀しみが詰まってるように思われたのだった。

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 寺を去る前、日に灼けて色褪せ、埃をかぶった木彫りが申し訳程度に並ぶささやかな土産物コーナーにあった、トーテムポールとニポポをいっしょにしたような木彫りの「黒塚人形」っちゅうのが気になって買い求めた。お寺の奥さんは良くぞ気付いてくれました、といった感じで、箱に入った在庫品を棚から取り出して包みながら、作者が亡くなってもうこれらは入手できないこと、こんな形だけど一応これはこけしであることと等を話してくれた。

 本当は醜くも恐ろしい鬼婆の形相を表現しているはずなのに、それはユーモラスで素朴な土俗の香りを漂わせつつ、何だか半ベソをかいたような顔で、今はおれんちの居間の土産物の棚に並んでいる。

2014.09.13

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