「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
・・・・・・そして静かな廃市(2)


ぶっちゃけ本家長崎よりも立派な眼鏡橋

 10何年前に湖北の町・長浜についてこのタイトルで書いて以来だから(2)としてみたんだけど、永年に亘ってエラい勘違いしてたことに気付いてしもた。スカしたタイトル付けたまでは良かったが、それに借りた北原白秋の有名な散文詩、念のためにと思って久しぶりに読み返してみてエラい間違いに気付いたのだ。あわわわわわ!

 ----私の郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである(水郷柳河)----

 正しくは「そ『う』して静かな廃市」なのである。「ま」が抜けてたらそらマヌケだが、「う」が抜けてたのだった。

 ここに謹んで訂正は・・・・・・めんどくさいんでしない(笑)。それに彼は自分の郷里・水郷として有名な柳川について述べた出だしでこう語ってるのである。郷里ゆえのいろいろ感傷的な思い入れがあったらばこそ、言葉の響きも意味もいささか素っ気ない「そして」ではなく、「そうして」と「う」を入れて引っ張らせたように思える。
 残念ながらおれがこれまで語って来た廃市は自分の故郷ではない。つまりおれは一個の余所者だ。だから畢竟、眼差しは観察者のそれで、どこか冷徹に醒めており、「そうして」を使ってしまうといささか甘ったるくなり過ぎてしまう。ここは何だか「そして」の方が自分の心情に近い。なもんでそのままにしておく。ハハ、牽強付会だなぁ〜・・・・・・。

 ・・・・・・と、どぉでもいい漫談じみた前置きはさておき、今回取り上げるのは長崎の交通の要衝、諫早だ。柳川とは有明海を挟んで対岸に当たる。

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 交通の要衝と廃市では噛み合わない気がするだろうから、若干の説明が必要だ。長崎本線と大村線、島原鉄道が集まり、大きなバスターミナルまである諫早駅は元の旧市街からは2キロ近く離れている。長崎自動車道と旧来の国道が出会う諫早インターに至っては大村湾に面しており5キロ以上離れて、むしろ喜々津に近いところにある。つまり、本来の城下町としての諫早の町は近代から現代にかけての交通網の発展から取り残されてしまっているのである。

 何年か前の夏の終わり、仕事の都合でおれはこの町を訪ねた。出張時の労働密度はひじょうに低いもので、仕事ったって殆ど昼過ぎくらいで終わってしまう。宿に戻ってしばしの午睡の後、おれはスーツから身軽な私服に着替えて旧市街のあちこちを散歩し、そうして歩き回るうちに、ここがやはり廃市の一つであると識ったのだ。

 まず地理的にどんな町なのかが見えないと分かりにくいだろうから、簡単に説明してみよう。東に有明海、西に大村湾が迫って最も陸地が狭まったところに、さらに北からは多良山系の山肌が迫り、南には小高い丘陵地帯(ただ、それも大した幅ではなく裏側は橘湾)っちゅうひじょうに狭隘な低地の中、北から流れてきた本明川が大きく東に曲がって有明海に注ぐ河口近くに諫早の町は広がっている。恐らくは陸繋島とか砂嘴とか三角州と呼ばれるような成り立ちなのではあるまいか。
 今でこそ有明海の干拓が進んで海岸線は随分遠くに離れてしまったが、かつては町のすぐ近くまで海が迫っていたことが地図を見ても分かる。旧市街は道が曲がりくねっているのに、干拓地は見事に碁盤の目状になっているのだ。そんな水はけの悪い低湿地ゆえ、町の中は縦横に細い水路が走ってる。

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 水の町には死の臭いが付きまとう・・・・・・この町を散歩してて、何となくそんな思いに到った。

 実際、諫早はこれまで何度も大水害に見舞われている。本明川は距離の割りに高低差が大きく、おまけに町の入り口あたりで向きを変えているために氾濫しやすいのだ。近年では昭和32年の諫早水害が有名で、この時は町の誇る石造りの眼鏡橋があまりに頑丈すぎて、そこに流木やらガラクタやらなんやらがどんどん引っ掛かって川の流れを堰き止めてしまい、それで余計に被害が拡大した。このときの死者・行方不明者はこの町だけで500人以上に上ったっちゅうから、まぁなんぼ現代と治水の事情が違うとはいえ、とんでもない災害だった。

 泊まってるホテルのある諫早駅近くから川っぺりを歩いて行くと、城跡近くに大きな観音像が立っている。その慰霊碑だ。しかし、その遥か以前からも洪水は何度も何度もこの町を襲い、その度に沢山の死人が出たのである。
 大水に耐えた眼鏡橋は今は城跡公園に移設されている。クソ忌々しか橋ばってん、マイトば仕掛けてぶっ壊してしまおうたい!おお、おお、それがよかばい!(←方言は想像)なんてぇ過激な意見もあったらしい。気持ちはまぁ分からんでもない。しかし、橋が頑丈なのは基本的には良いことなのだし、先人たちの偉大な努力の産物でもあるし、文化財的に見たって価値があるだろ、ってことで移し替えられたのだ。こういった場合、やはり感情論の方が分が悪いのは今も昔も変わらない。果たせるかなこの眼鏡橋、今は国の重要文化財として貴重な町の観光資源となっている。

 日の傾きかけた中、遠くからは部活のブラバンが練習する音がブーカブーカ流れてくる。城跡に学校、特に高校は付き物だ。

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 道をいくつか曲がるとアーケードの商店街に入った。ここもまた見事なシャッター街と化しており、恐ろしく寂れている。赤い字で「テナント募集中」と書かれた張り紙があちこちに張られてるのばかりが目立ち、甲子園出場を祝う大きな横断幕がアーケードの天蓋の上から寂しく下がる。かなりの老舗と思われる大きな本屋兼文具屋に至っては破産宣告の張り紙がしてあった。
 開いてる店にしたって、本来の商売ではなくガランとした所に健康食品や健康器具並べてたり、老人の手押し車や介護グッズなんかを申し訳程度に扱ってるところが散見される。実はこれらは商店街の健康状態を占うバロメーターである。このテの商売が現れ始めるっちゅうのは、その商店街がかなり衰えて来てる証拠だ。何のこっちゃない、健康に関する店ができるのは商店街の不健康の徴なのである。

 どだい人が歩いてないんだからどうしようもない。しかし多少座ってはいる。もう暮れなずむ時間なのに老人たちは別に何をする風でもなく、更地になったところに置かれたパイプ椅子や、横切るクリークの脇のベンチなんかに座り込んでボーっとしている。
 そのように1軒抜け2軒抜けしたところを地上げでもしたのか、商店街の途中には大きなマンションが建設中だった。アーケードの中にマンション・・・・・・なるほど、この寂れた通りに人を呼び戻す妙案だとは思うし、雨に濡れずに買い物に出れてベンリかもしれないが、何か違う気がした。
 田舎町特有のレコード屋兼楽器屋はそれでも近所の中高生が来るのか健在で、冷やかしで覗いて見ると意外にシッカリした品揃え。こういうところには得てしてデッドストックのピックが残ってたりするから、丹念に升目に区切られたケースをほじくり返してみたけれど、あまりたいしたものは見つからなかった。佐世保の方が大漁だったな。

 アーケード下には有線だろうか洋楽のBGMが流れている。殆ど店が開いておらず、灰色のシャッターが固く閉ざされた中、まったく場違いな雰囲気で音楽だけが流れている。そのうち、聞き覚えのある引き摺るようなリズムのイントロが流れてきて、おれは一瞬耳を疑った。それはなんとP・ガブリエル「V」の「ゲームス・ウィズアウト・フロンティアーズ」だった。K・ブッシュの気怠いリフレインをバックに繰り返される、もう20年以上も前の分かりにくい反戦ソングだ。誰がこんなマニアックな曲リクエストしてん?

 ----Games Without Frontiers , War Without Tears(国境のないゲーム、涙なき戦争)
    Games Without Frontiers , War Without Tears(国境のないゲーム、涙なき戦争)
    Games Without Frontiers , War Without Tears(国境のないゲーム、涙なき戦争)

 ・・・・・・客のおらん商売の方がよっぽどキッツいやんか(笑)。

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 アーケードを離れると廃市ならではのくすんだ町並みが広がってることが良く分かる。色褪せた羽目板の壁、錆が複雑で抽象的な模様を描くトタン、琺瑯看板、かつては豪商である証だった米屋や燃料屋・・・・・そして町のあちこちには石造りの恵比寿像が目立つ。どれも磨耗して苔むした素朴なものだ。元々北九州一円は地蔵の代わりに恵比寿が立ってるような地域で、ことに佐賀市などは到る所恵比寿だらけで、それで町興しを図ってるので有名なのだが、この諫早の町も地理的に近いせいかかなり多い(※)。
 商売繁盛で笹持って来い、の十日戎を例に引くまでも無く、恵比寿は日本独自の七福神信仰の中でもとりわけ人気がある。烏帽子を被り、釣竿を背負い、魚籠を腰に付けたいでたちで、でっかい鯛を脇に挟んでニタニタ笑うその姿は全国的にもひじょうにポピュラーだし、それにちなんだ祭りや縁日、講、市なども各地で見られる。しかし、庶民信仰で石像に刻む例は一般的ではない。

 あくまで根拠の無い推論ではあるものの、石像になった恵比寿には表裏、二つの意味が込められてるのではないかとおれは思ってる。表は言うまでも無く豊漁祈願のため、裏は漂着した水死者の菩提を弔うためのものだ。陸で死んだら地蔵で、海で死んだら恵比寿、みたいな。斃死した牛馬の菩提を弔うために路傍に馬頭観音が建てられたのも似たような感じだな。

 ぢゃぁ何でこの北九州一帯なのか?までは分からない。これまた思っ切りあてずっぽで言わせてもらうと、毎年の台風による高潮(有明海は日本で最も潮汐差の大きい海だ)や河川の氾濫、あるいは日本の歴史の中で最悪の火山災害である島原大変肥後迷惑が大きく影響してるのではなかろうかとおれは想像してる。

 やはり、水の町にはどこか死の臭いが付きまとう・・・・・・ただ一方では、豊かな恵みもある。特異な内海である有明海は実に多種多様な海産物をもたらしてきたし、古くから進んだ干拓は稲作も発展させてきた。つまりは町に富をもたらしたのだ。恵比寿はナカナカ巧みにそんな町の過去の悲惨と栄華の両方を反映しているのかも知れない。

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 古い町並みを歩き回り、いい加減お腹の空いたところで再び商店街に戻る。九州でも有数の鰻の老舗「福田屋」で、名物である二重底になった瀬戸物の容器で蒸された鰻定食を食べに行くのだ。廃市を巡るとりとめのなくも物憂い夢想のひとときは終わった。



※註
後から調べて判明したのだが、旧長崎街道沿いに数多く分布しているらしい。 

2010.11.23

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