「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
寂しき那須湯本


廃墟と化した湯治宿の前にて。

 ポルシェぢゃフェラーリぢゃロータスぢゃといった実用性ゼロの非日常的で超高額なクルマは、ナゼか伊豆・箱根、軽井沢、そして今回取り上げる那須でやたらと見かけるように思う。ま、今挙げたトコはどこも別荘地でお金持ちが休日にやって来るんだろうし、それに、これらスーパーカーの性能を幾許かでも引き出すには高速道路や高原地帯のタイト過ぎないワインディングがあった方がいいから自然と密度が高くなるんだろう。ロールス、ベントレー、ジャグァー等々もそぉいやよく見かける。

 それらのクルマがフツーに行き交う那須の登り口あたり、表通りから1本北の殺生石から下流にかけての川沿いを中心に、本来の那須湯本の温泉街は広がっている。そしてそれは時代から取り残されたような寂しい寂しい温泉街だ。

 日本の温泉文化は観光ではなく療養を目的として永く続いてきたものであり、まず湯(共同浴場)があり、その周囲に内湯を持たない宿が建ち、時代を経る中で次第に内湯を備えるようになってきた・・・・・・ってコトはこれまで何度か指摘してきたとおりだが、ここは観光地のイメージとは裏腹に、まさにその古い日本の湯治場の姿を残している。
 すなわち内湯を持たず、自炊での長期逗留を前提とした簡素な宿がここに密集しているのである。情けないことに今は「民宿街」なんて看板に表示されちゃってるが、これが本来の温泉宿・温泉街の姿なのである。実際、現代のような内湯完備で豪華な食事も提供するような観光旅館が一般化したのはそんなに昔の話ではない。

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 宿についてすぐに風呂にも入ったが、夕食まではまだまだタップリ時間がある。昼飯を食ったのは2時過ぎなので、このままウダウダしてても腹が減らない。おれたちは近所を散歩することにした。玄関にはクロックスのサンダルが並べられてる。下駄の風情はないけれど歩き回るにはこっちの方がラクだろう。表通りに出るとおお!おあつらえ向きに酒屋まであるではないか。早速ビールを買い込むことにする。ま、今日くらいは第2だとか第3だとかのビールもどきではなくチャンとしたビールにしてこましたろ、っと。歩きながら飲むにはエビスみたいにコクがあるのより、サッポロ黒ラベルくらいが丁度いい。

 表通りとはいえクルマが行き交うばかりで道行く人の姿はほとんどない。おれたちの宿と同じような小規模な観光旅館、あるいは商いを畳んだと思しき家等もチラホラあるが、何より目立つのは更地の多さだ。つまり末期症状のシャッター街と同じような風景がここには展開してるのである。両側に迫る山の斜面に挟まれた川沿いのわずかな平地に沿って温泉街が発達したために、広い駐車場を備えて収容力のあるような新興旅館はもっと山の上の方や逆に下の高原地帯に進出してしまい、複雑に入り組んだ地権なんかもあったと思うが、元々の中心地が取り残され、衰退してしまったのだ。

 一部で超有名な雲海閣の前を過ぎ、本来の用途に使われなくなって久しいと思われるモルタル造りの古風なタクシー車庫兼営業所のところから川沿いに下り、いよいよ民宿街に入って行く。観光客のための演出か石畳となった狭い通りの両側には昔ながらの自炊宿が立ち並び、浴衣姿の浴客のそぞろ歩く軽やかな下駄の音がカラコロと・・・・・・ウソ付け!

 人っ子一人歩いてへんやんか。

 土曜日っちゅうのに入り口にカーテン、それも何だか色褪せたシーツみたいなんを引いて玄関を固く閉ざした宿ばっかしである。どだいそもそも今でも営業してるのがどれだけあるのかも疑わしい。大体どれも似たような白い木造モルタル二階建て、おおよそ奥行き4間×幅10間ほどの横に長い造り。これが例えばもっと古めかしい羽目板張りの木造旅館であったなら、もちょっと情緒もあったろうに、まるでアパートが並んでるみたいである。一言で言ってかなり殺風景だ。くすんだ色合いの町並みに、それだけ妙に派手に「素泊まり3,500円」と大きく看板が出てたりするのもうそ寒い。

 殺生石に向かってだらだら坂を登って行く。このような古い歴史のある温泉街に付き物の、露骨に胡散臭い由来の地蔵やら石塔やら祠やらがシブくも楽しい。最も怪しかったのは「でき穴」なる龍神さんとお稲荷さんを同時に祀った、駐車場の下に地下室状に広がる摩訶不思議な施設だった。
 硫黄成分で白くなった川を渡ったところには宿泊者専用の「滝ノ湯」がある。その向かいの旅館は儲からない湯治宿に見切りをつけて観光向けにリニューアルしたのだろう、そこそこ客が入ってる。結局は経営努力をしたところはそれなりに生き残ってるワケだ。僅かながら浴衣姿で歩いてる人もいたりして、少しおれは安堵した。

 道は最後、一般観光客にも開放されている共同浴場「鹿ノ湯」の入り口につながり、あとは駐車場から殺生石に向う遊歩道となる。今では大半の人はクルマで訪れ、表通りから駐車場に回り込んで入るだろうから分かりにくいが、ここ那須湯本は温泉街の突き当たりに巨大な共同浴場を構えるという、ロケーション自体も極めて古風なところなのだ。

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 そのまま殺生石まで上がって振り返ると、谷に沿って白土化した噴気地帯の向こうに細長く延びる温泉街が遠望される。その景色を見て唐突におれは、九尾の狐伝説ってーのは茶臼岳噴火に由来するものちゃうんかい!?と思いついた。

 もう20年も昔の話になってしまったが、雲仙普賢岳の噴火ではムリムリと地の底から盛り上がって来る溶岩ドームの崩落に伴う火砕流が頻発して山麓の住民を大いに苦しめた。その発生は延べ1万回にも及んだと言われる。火砕流はいろんなものを焼き尽くしながら谷に沿って流下し、火口から放射状に何条もの灰白色の筋を残した。ここ那須の茶臼岳のてっぺんも、今は冷えて固まってはいるものの同じような巨大溶岩ドームからできている。その形成は室町頃と言われており、やはり当時は雲仙同様の火砕流が頻発したらしい。
 その流れた跡を、九つに分かれた尻尾を持ち国を滅ぼすほどの災いを為す古狐になぞらえたんではないのか?と思ったのである。根拠はまったくないけど(笑)。

 ともあれ、那須湯本は谷底に位置するから大規模な火砕流に襲われればひとたまりもないだろうし、程度はともかく過去にそのようなことが全然なかったとは考えにくい。また、地形上も地質上も大雨に弱い。現に温泉街には「山津波殉難の碑」なる大きな石碑があった。たった150年ほど前、集中豪雨による地滑りや土石流で村は全滅してるのである。
 しかし、それでもしぶとく温泉街は復興されてきた。今はもうサッパリだけど、当時はそれだけ湯治の需要があった、ってコトだ。

 素泊まり3,500円っちゅうコトは2週間泊まって5万円弱だ。宿泊日数が増えればもう少し割安になるのかも知れないが、食費ぢゃなんぢゃ他の費用を考えると、まぁそこそこ掛かってしまう。だから、無条件ってワケには行かなくとも、年寄りの療養ってコトで保険の補助出せるようにすれば、もう少し安上がりに泊まれる仕組みが作れるんぢゃないか。病院にばっか儲けさせちゃいけない。また、土建屋だけが甘い汁を吸ってあとは赤字垂れ流しの過剰に立派なデイケアセンターおっ立てるより間違いなくローコストだ。そんな風にあるものを上手く活用していきゃいいのだ・・・・・・。

 九尾の狐に始まったとりとめのない夢想は結局、そんな風にして再び温泉街が鈴なりの浴客で溢れ返って活況を呈する時が来ればいいのになぁ〜、などとガラにもなく殊勝で前向きなところまで辿り着いたのだった。


ギャラリーのアウトテイクより。

2010.07.19

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