「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
極北より

 ここのところ温泉そのものから遠ざかっちゃってる感がある。

 最後に行ったのが去年の秋の終わり、それも日帰りだったから、マトモに何日もかけて出掛けてったんは果たしていつなんだろ?ってご無沙汰の状態だ。そりゃまぁチャリにハマってるとか、しだすといろいろ言い訳はあるのだけど、やはり時間が取れない、ってことが最大の原因であって、これについてはおれ個人が忙しいだけでなく、家族全員がなんかワチャワチャしてる。残念ながらこの状況は今しばらく止みそうにもない。

 とは申せ、捻出しようと思えば、ナンボでもとは言わんまでも、幾許かは捻り出せるのが金と時間である。それをしなかったのは率直に言って温泉に対して以前のような情熱が湧かなくなっていたからだ。東京に来てはや10数年、関東近辺のめぼしいトコはあらかた行き尽くしてしまって、今や未訪の温泉は虫食い状にあちこちに点在してる状況だ。行く以上は再訪をあまり織り込まず、未訪の所だけで固めたいが、ただもう移動ばかりが増えてしまう。それはちょっとキツいし、コストパフォーマンスも悪い・・・・・・ってな感じで生来の吝嗇も手伝って(笑)、動き回ることが少々億劫になってたのである。
 積み残しの候補地に地味な冷鉱泉系が多いのは言うまでも無い。ぶっちゃけ周囲にはこれといった観光名所も何もないのが普通だ。つまり、所謂「行楽」からはかけ離れた旅程とならざるを得ない。

 もちろん、おれは地味な冷鉱泉が大好きだ。そこにはとうの昔に喪われてしまった事物が些かなりとも残っている。それを丹念に掬い上げることには密やかでしみじみとした歓びがある。それは間違いない。
 ただ一方で、行けば何とも落ち込んだ気分になることも事実だ。大抵の場合そこには寂しい寂しい光景が広がっている。年寄りが一人だけ残った細々とした商い、手入れが行き届かず忍び寄る荒廃、埃を被って乾き切った片方の浴室・・・・・・。
 ギャラリーに辛気臭いキャプションつけたって仕方ないし、なるだけ面白おかしく書くように心掛けてるもんだから、あれだけ見たらとっても楽しい奇湯・珍湯ツアーに見えるだろうが、実際は様々な暗い感情が湧き上がって来るのを抑えることが出来ない。居た堪れなさ、やるせなさ、切なさ、虚しさ、苦しさ、哀しさ・・・・・・どこがおもろいねん!?
 辛うじて残る風景を少しでも留めておきたいっちゅうヘンな義務感に衝き動かされて熱心にこの数年、冷鉱泉にかなりウェイトを置いて行動してきたが、正直どっかでちょっとばかししんどさも感じていた。

 これって冷静に考えると、音楽に目覚めて最初はノー天気にハードロックなんぞ聴いてたんがだんだんマニアックになってって、晦渋な顔してハーシュノイズとかを聴き込んでるのと構図的にひじょうに近い。「温泉」ってジャンルにおいて同じような極北に到っちゃってた、と言ってもいいだろう。ま、温泉についてはその端緒につげ義春があったから、音楽よりは余程マニアックなトコからいきなり始まってるけど(笑)。
 無論それは誰から頼まれたワケでもない。自分で選び取って向かって行ったんだから文句垂れる筋合いでもなかろうし、垂れる気もない。ナンギな音楽もツブれかけた鉱泉もそれはそれで好きなのだし。

 ただ、やはりバランスは大事だわ。

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 ぢゃぁどうすれば良いのか?っちゅうと、答えは実に単純明快なのであって、要はただもう基本に立ち返ることだろうと思う。「基本」とは鳥も通わぬ山の中の野湯のことではない。それはたしかに温泉の原初の姿ではあろうが、行楽の基本形ではない。誰でも知ってるような名前の通ったフツーの温泉こそが基本と呼びうる。そう、最近では低予算な団体旅行でも敬遠されてしまうようなモッチャリしたダサダサの歓楽型温泉・・・・・とまで言うと却って露悪的であざといが、まぁ概ねそんなチョー分かりやすいトコからもう一度温泉めぐりを始めるのである。

 思えば、所謂「大温泉地」にも久しく行ってない。昔はそれでもコースに別府や伊豆・箱根、草津や那須・塩原、湯田中、登別といったポピュラーで大きな旅館が立ち並ぶ温泉地を適度に組み込んでたものだ。大阪時代、いっちゃん良く泊まった温泉なんて美作三湯の一つ、旅館の立ち並ぶ湯原温泉である。もぉムチャクチャ分かりやすい。まぁ、貧乏だったからどこに行ってもあまり大した旅館に泊まったことないけれど、それでもそんな大温泉地が片方にあったからこそ、旅にもメリハリとか抑揚みたいなものが生まれ、ディープな珍湯・奇湯ももっと心の底から愉しめていたように思う。

 卑近な喩えをするならば、それはセックスの快感みたいなもんでもある。最初のうちはヤルだけで楽しい。前戯もそこそこに正常位で突きまくるだけで楽しい。しかし、そのうちだんだんフツーでは面白くなくなって、刺激を求めて凝り始める。体位がどうだから始まって、シチュエーションがどうだ辺りから、さらには相手がどうだ、被虐と嗜虐はどうだ、な〜んてなって来て、人によってはついには野外露出だの3PだのスワップだのBDSMだのと複雑怪奇な趣向に向かったりもする。ところが人間、いつもかっつもディープなことやってるとそれはそれで麻痺して来る。たまにやるから楽しいし刺激にもなるワケだ。

 喩えがエグ過ぎると眉を顰められる御仁もおいでだろうから、食べ物で言ってみるならそれは「辛い物」みたいなもんでもある。最初は七味を多い目に振り掛けたり、ココイチで何辛頼んだくらいで充分に楽しいのだが、だんだん馴れて麻痺して来ると満足できなくなって、ハバネロがどぉこぉだの、ブレアのデスソースがどぉのこぉのと言い出す。最早常人では到底付いて行けない辛さである。激辛なんてたまに食うから面白いのだ。

 美術様式なんかもそうなんだけど、全ては複雑化っちゅうかハードコア化して行く定めなのだ。

 実はこのハードコア化そのものはアブノーマルなことでもなんでもない。いわば正常進化である。そもそも生き物だってそうではないか。ゾウリムシのシンプルさからすれば哺乳類なんて複雑の極みだ。ただ、今でもゾウリムシはゾウリムシであり続けるように、もちろん全員がその道を歩むワケではないという注釈は付く。それに、進むばっかりだと陳腐化したり疲弊したりするのも事実ではある。複雑になるってコトはゴリゴリの教条主義や権威主義への近道でもあるからだ。とはいえしかしやはり、何事も這えば立て、立てば歩めなのは大枠では確かだろう。
 ちなみに真のアブノーマルとは始めっからその地平にいるか、あるいはその世界以外に居れない人のことである。進歩も退化も前進も後退もない。カレン・グリーンリーは手順を踏んでネクロフィルになったワケではないもんね(笑)。

 話がいささか脱線したが、カプサイシン結晶まで行けば辛さの追求も終わるように、このハードコア化にも自ずと限度っちゅうのがある。小口末吉の妻みたいにSMだってやりすぎて死んでしまったらおしまいだ。ならばそこで必要なのは結局は揺り戻しぢゃなかろうかと愚考する。髭男爵ぢゃないが「ルネッサァ〜ンス!」なんてぇのもまさにそのような取り組みだったワケだ。

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 ・・・・・・ちょっと酔っ払って論旨が混乱してる部分はあるものの、概ねこのように実に大層な理論武装まで勝手にやって(笑)、おれは気分一新、誰でも知ってる有名温泉地の俗に言う名旅館に張り切って予約を入れようとした。そして愕然とした。

 3ヶ月以上先まで綺麗に予約が埋まっていたのである。

2010.05.21

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