横断と縦断の夢の跡への旅(V)


夕暮れ迫る駅に列車が滑り込んでくる。

 この数年、折を見ては房総半島に残存するローカル線の踏破や走破をおこなって来ている。そんな中でやり残した宿題のような、まるで気乗りはしないくせに何だか妙に気が咎めるような、そんな気持ちがいすみ鉄道に対しては残っていた。いや、別にこの廃止寸前のローカル線に特段の借りがあるワケぢゃないのだけれども、そのうち行かんとアカンなぁ〜と思いつつ、どこか避ける気があったのだ。

 理由は簡単、っちゅうか一銭五厘の値打ちもないおれのヘンな拘りのせいである。おれは第3セクター鉄道ってーのがどうにも好きになれないのだ。初めから公的資金を当てにしたようなユル〜い雰囲気が全体的に漂っているような気がしてどうにも気に食わない。車両新調したり、立派な駅やら車庫おっ建てたり、どこにそんな余裕かましてるヒマあんねん!?と問い詰めたくなってしまうのだ。国鉄時代に赤字が嵩んで3セクに転換されたワケっしょ?営業係数ムチャクチャやったワケっしょ?ナンボ新規巻き直しやからゆうて、そんなボンボンボンボン金遣てどないしまんねん!?と思うのだ。

 旧、国鉄木原線がいすみ鉄道の前身で、本当は久留里線と繋がって半島横断鉄道となるはずが叶わず、すでに昭和30年代から廃止が取り沙汰されるような弱小路線であったことはこれまで繰り返し述べた通りだ。それが何のはずみか21世紀まで生き残って辛くもこれまで続いてきたのだが、いよいよ廃止される公算が強くなったと聞いて、おれはようやく出かけて行く気になったのだった。

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 秋晴れの上総中野の駅前は相変わらず閑散としている。小湊鉄道のここまでの直通列車は9時台が始発なので、五井の駅で随分時間を無駄にしてしまった。もう10時前だ。早起きしたのがパーだ・・・・・・まぁ、事前にちゃんとダイヤを調べとかなかったおれが悪いのだけど。
 ここから大原までは路線距離で27km、歩くと迂回したりするからもうちょっとあるだろう。途中で日が暮れてタイムアウトになるかも知れない。行けるトコまで頑張ることにする。

 基本的には海辺に向かってダラダラと下って行くコースなので歩きやすいことは歩きやすい。すぐに最初の駅、「西畑」に到着。強いて言うなら茶室みたいな待合室が特徴かな?という程度の単なる路傍の駅だ。テキトーに写真を数枚撮ってすぐに次に向かう。並行する国道はほとんどクルマの通行がない。そらそうだ。国道465号線・・・・・・つまりは400番台国道ってヤツなのだ。国道が国道らしいのは概ね200番台までである。300番台以降は急に単なる田舎道の県道等を政治の色々な都合で無理やり国道に昇格させたようなのが増えて来る。何でこんな文句なしの田舎を鉄道が通ってるのか本当に良く分からない。道沿いにも廃業したと商店とおぼしき荒れた空き家が目立つ。

 「総元」まではけっこう歩いた。せいぜい2両編成が止まれる程度の短い片面ホームの上に、不釣合いなほど立派な公民館がくっついた駅本屋・・・・・・っちゅうか公民館に駅の待合室がへばりついた、と言った方が正確だろう。教会の礼拝堂みたいなデザインの室内には誰も人がいなかった。一体全体こんな立派な建物の費用をどこから捻出したんだろう、と思う。
 「三育学院大学久我原」は大きく蛇行する夷隅川に挟まれた台地に埋もれるようにある。周囲には何もない。最近流行りの命名権ビジネスってーので頭に「三育学院大学」って名前が付けられたようだが、その大学は2km近くも離れたところにある。ずぇ〜ったいにこのローカル線で通う学生なんて一人もいないに違いない。どだいこんな山間の小駅の名前の頭に大学名付けて何がしかの宣伝効果が望めるのだろうか?夜なんて真っ暗やで、物騒やで。それに大体、三育学院大学って名前自体をおれは初めて見たぞ。小さな待合室には鉄チャンが忘れてったのか、立派な三脚が転がっていた。

 大きな切り通しを越えると急に景色が開け、大きく線路がカーブして「東総元」。そいうや大昔、鉄道雑誌かなんかでこの巨大なカーブを2軸のレールバスが行く国鉄時代の写真を見た記憶がある。待合室はペラペラなのに白木で凝った造り。屋根の上に「大吉」と看板が立ってるのが意味不明だ。なぜか待合室の中には手で回すおみくじ。昔はいろいろ建物があったのを更地にしたのだろうか、辺りは一面アスファルトで固められて殺風景な中、取って付けたような安っぽさだけが浮き上がっているようで苛つく。一体何なんだ?(※)

 さらにダラダラと下って国道を少し外れたところに「小谷松」。山裾に埋もれるような小駅の横には踏切、そしてそれを渡ったところには小さな鳥居と石段。絵に描いたようなローカル線の小駅だ。思えば、線路沿いには小さな寺や神社が目立つ。
 そうだ、ここで夷隅川についても触れておこう。標高が低く、なだらかな房総半島山中を源流とする川はどれも大きく蛇行し、軟らかい砂岩質の土地ゆえに流れの緩やかさのわりに深く刻まれた峡谷を形成し、河岸には護岸のために植えられたのが野生化したのかびっしりと竹林が密生しているのが特徴なのだが、この夷隅川は特にそれが顕著である。橋の上から覗くと、竹が覆いかぶさるように伸びており、川面は昼でも薄暗い。

 再び国道に戻ると、道路沿いに急に民家が増えだす。沿線最大の町、大多喜が近づいたのだ。鹹水と天然ガスで有名な町で、「天然ガス井戸発祥の地」の看板や、住宅の庭先には多分ガス井なのだろう、トタンで蓋をされレンガで囲われた通常とは異なる形の井戸があったりする。
 町はどうやら「房総の小江戸」として売り出したがってるようで、あちこちに観光客のための小さい公園や案内板が整備されているのだが肝心の町並みそのものは大したことない。大正時代に火事で丸焼けになって、古い建物がほとんど残っていないのだ。お城が遠くに見えるがそれも再建されたものらしい。売り方に根本的に無理があるのである。おれはクルマに乗った観光客にとんかつ屋への道を尋ねられた。有名な店が近所にあるらしい。おれかてここ初めてや、っちゅうねん。どうもおれは旅先で道を尋ねられることが多い。
 また、この町はつげマニアにもつとに有名である。町に入るところの橋のたもとにある「旅館寿恵比楼」や「大屋旅館」は、二岐温泉「湯小屋旅館」なんかと並ぶ「聖地」である。特に白土三平に誘われて前者に逗留したことで生み出された初期の傑作群はこの辺の風景無しにはありえなかった。さっき書いた夷隅川の澱んだ暗い情景も「沼」に余すところなく描かれている。
 しかし、おれはもうどっちも写真を撮らなかった。つげ原理主義みたいなマニアはどうにも好きになれないし、作品世界の風景を追認してどうなるもんでもない、ってことが最近ようやく分かってきたのだ。おそらく、もしつげを読まなかったとしてもおれは自分なりに温泉やら何やらの古くて侘しくもどこか退嬰的な風景にそのうち向かっていたのではないかと思う。

 閑話休題、駅は町外れの高台にあって、車庫なんかもあるローカル線としてはかなり大きな、駅らしい駅だ。駅前ロータリーには天然ガスにちなんだガス燈が立ち、タクシーが数台。いかにも無理やり拵えたハリボテの大手門、土産物屋や物産館・・・・・・何となくホッとした。ここにはまだ人が集まる場所としての熱気みたいなものが幾許かは感じられる。
 駅名はここも命名権とやらで正確には「デンタルサポート大多喜」となっている。待合室には危機的な経営状況の足しにするためだろう、さまざまなオリジナルグッズや菓子が並べられている・・・・・・ま、焼け石に水だろうが。黄色いレールバスが離合し、それでもパラパラと観光客が降りてきた。

 川に沿うようにカーブが連続するのは次の「城見ヶ丘」までである。郊外型ショッピングセンターの建設に伴って新設された駅で、クロスオーバーする国道297号のバイパス道路の下に隠れるようにしてある。この鉄道で買い物に来る人がどれだけいるかは大いに疑問だが、ともあれベンチには年寄りが一人座って列車を待っていた。
 線路は大原に向かってあとは概ね東進するだけだ。また、この辺からは駅と駅の間がかなり離れてくる。「上総中川」まではかなり歩いた。立ち並ぶ家の隙間のようなところに駅はあり、片面だけのホームには案山子のような人形が沢山飾られている。近所の高校の美術部が作成したものらしい。上手いか下手かはともかく、取り敢えずムチャクチャ不気味。古い木造の待合室では、頭の悪そうな顔した高校生が一人、携帯を弄る。
 さらに歩きまくって「国吉」。「総元」同様、地元施設タイアップ型の立派な建物で、こっちは町の商工会議所に駅待合室がへばりついていて、さらには味も素っ気もない片面の短いホームだけの小駅が大半を占める中、珍しくここは列車が対向できるようになっている。貨物側線も残り、保線用のトロッコが押し込まれていた。駅周辺はちょっとした商店街になっていて、僅かながら活気が感じられる。あちこちに鉄道存続を訴える幟がはためく一方で、バス停には「高速バス・羽田まで1時間45分」の案内が出ている。これぢゃ誰も鉄道には乗らなんわな。

 道端にあって何も無い「新田野」を過ぎ、だんだん日が暮れかけてきた。膝も痛い。残りは「上総東」「西大原」、そして終点の「大原」だ。全部歩いていては真っ暗になってしまう。野宿予定ならまだまだ時間の余裕はあるが、今日はどうしても家に帰らなくちゃならない。かといって残り区間を全部列車に乗ってしまうのは趣旨に反する。時刻表で見ると、次の駅に付く頃に大原行きの列車が丁度やって来る筈だ。乗り遅れるとどうにもならんので、とにかく急ぐしかない。
 「上総東」もまた交換設備を備えた駅だが、それは近年増設されたもののようで駅舎は存在せず、ホームの外れに開業当初からのものと思われる古い待合室があるだけだ。歩いてると気にならないがこうしてベンチに腰掛けると秋風が冷たく身体がどんどん冷えていく。ウィンドブレーカーをザックに入れてこなかったことをおれは後悔した。

 しばらくしてやって来た列車は意外にも満席、立ってる乗客もいる。一駅だけ乗って降りて行くことへの奇異の視線を背中に感じながら次の「西大原」で下車。振り出しの「西畑」同様の路傍の駅だ。ただ、町が近いせいか随分と埃っぽい。再び線路沿いに歩き始めるが、なんぼも行かないうちにポロッと終点「大原」入り口の交差点に着いた。小さな旅が終わった気がした。疲れた。ダラダラと23〜4kmは歩いたろう。だからダラダラ書いてみた。

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 それにしても、と思う。

 どうして大原と木更津という、さほど大きいとも思えない2つの町をわざわざ山越えまでして鉄道で結ぶ必要があったのか、その合理的な理由がどうしても分からない。外房方面から東京方面に出て行くなら別に外房線回りで何の問題もない。軍需目的で大多喜の天然資源を運ぶ計画なんかもなかったようだし、沿線に巨大な寺社仏閣があるわけでも、風光明媚な観光地があるわけでもない。人口にしたって過疎化の進んだ今はともかく、大昔から少ない。要は何も無いのだ。こうして全ての路線を歩いたり自転車で行ったりしてみて、改めて鉄道建設の意図が分からなくなった。そもそも巨額の費用を投じてそこに鉄道を敷設する必要など少しもなかった。

 合理的な理由がないのにも関わらず物事が進む場合、その原動力は大体二つくらいしかない。一つは体面とかプライド、ってもの、もう一つはルサンチマンだ。そう考えるとこの木更津〜大原間の半島横断鉄道の残滓である2つの路線、殊に外房側に残ったいすみ鉄道が何だったのかが分かり始める気がする。すべては裏返しだ。東京からさほど遠くもないところにあるにもかかわらず、これといった産業も寺社仏閣も観光地も、いや町さえも何もなかったからだ。言っちゃぁ悪いがムッチャクチャに田舎だったからだ。月光仮面が悪人追っかけてってガス欠起こしてそのまま行き倒れになったと言われるほどの、田舎。

 その怨念こそが何だか良く分からない路線を作らせ、とうの昔に無くなっておかしくない状態なのをここまで生き永らえさせた・・・・・・そう考えると、謎が全て氷解するような気がする。



※:「TVチャンピオン」とのタイアップで一昨年、宮大工の手により建て替えられたらしい。

2010.01.23

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