「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
この代限りで・・・・・・喪われ行く冷鉱泉へ


ギャラリーのアウトテイクより(鉱泉名は敢えて省いてあります)

 今、いろんなものが国内では絶滅の危機に瀕している。

 希少動物しかり、農林水産業しかり、伝統芸能や祭りしかり、寺社仏閣や日常に根ざした信仰、暦や節気への感覚、風習・因習、風景・・・・・・そしてそれら一切合財の基盤であった「村」という共同生活体までもが、各地で「限界集落」などと呼ばれ、その存続が危ぶまれる状況となってきている。
 その、いささか民俗学的と呼んでも良い文脈の上におれにとっての「冷鉱泉」がある。実にナサケないことに他の失われ行くものとは異なり、まともに語られることも報じられることも・・・・・・否、一顧だにされることもまずないのだけれど。

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 湯がチャンと出る温泉はなんのかんので、よほど辺鄙なところにあったりさえしなければ、そりゃぁ温泉街として寂れたり、団体向けに過剰投資しまくったコテコテ観光系が廃墟になっちゃったり程度のことはたまにあるとはいえ、実はそんなに簡単になくなってしまうことはない。

 それでなくとも泉温の高さは世間一般では温泉の「華」を測る上での重要な尺度となっている。おれは冷鉱泉の佇まいの素晴らしさを知り合い達にこれまで事あるごとに語って来たのだけれど、悲しいことにいつも彼等の食い付きは極めて悪く、おれは偏固な温泉マニアとしてくらいししか見られなかった。まぁ、そんなもんだ。
 例えばまったく同じロケーションにまったく同じ旅館が2つあって、片や100℃近い温泉、片や14℃とかの冷鉱泉だったりしたら客の入りはどうなるだろう?間違いなく10倍以上、来客数には開きが出ると思う。ましてや前者が硫黄臭プンプン、後者が無色透明無味無臭な放射能泉だったりしたらもぉタイヘン。その差はもっと出るかも知れない。

 温泉に入ることが療養から観光にほぼシフトしてしまった今の時代、そもそもの華に乏しい冷鉱泉はとっても不利なのだ。

 まだある。

 寒ノ地獄のように冷たさを売り物にしている奇湯ならともかく、風呂である以上はどしたって沸かさねばならない。そうなると燃料代が掛かる。重油を使うとタールが溜まったりして痛むから、ボイラーが故障することだってあるかも知れない。薪ならば割るのは重労働だ。勢い湯船は小さめとなってしまう。温泉宿なのに風呂が妙に小さいのも地味な印象をより強くしてしまう。
 その点、温泉は何せ初めから温度が高いモンだから、沸かす手間も金もかからない。経営的にも冷鉱泉は初めっからいくつもハンディキャップを背負わされてるのである。

 さらには温泉の多くは火山性のものであるから、周辺にはそれの創り出した雄大で魁偉な風景が広がっていることもまた多い。観光資源に恵まれとるワケだ。それに比して鉱泉は、なんてことない凡庸そのものの風景の中にあることが圧倒的に多い。これまた温泉入浴が観光にシフトした現代において、どうしようもなく冷鉱泉が不利な点だ。

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 そんな冷鉱泉がこれまで命脈を保てて来たのは、大まかに言って一つには日本特有の農閑期もしくは年寄りの隠居の湯治場、もう一つは村の共同浴場としてだった。今時家に風呂が無いなんてよほどの安アパートくらいのモンだが、昔は家に風呂があるっちゅうこと自体、特に水利に恵まれない地方等においてはかなり贅沢なことだった。
 最近では風習自体がほとんど消滅したので死語となったが、かつては「もらい湯」というのだって普通に行われていた。要は村の中で何がしかのお礼と引き換えに他所の家の風呂に入れさせてもらうのである。必ずしも自分ん家に風呂が無いからってワケではない。各戸がそれぞれに風呂を焚くことなんて非常に労力的にもコスト的にももったいないことだったのだ。
 それが証拠に・・・・・・って何か文献等を見つけたワケではなく、あくまでこれまでのおれの経験則なんだけど、地味な冷鉱泉は川近くではなく、そこから少し離れた高台の集落等にあるケースが多い気がする。

 ・・・・・・と、雑駁極まりない書き方をしたけれど、平たく言うと、温泉がいささかなりとも非日常の世界の側に近いのに対し、地味な冷鉱泉は生活に深く密着していたのではないか?・・・・・・要するに「ハレ」と「ケ」のような関係になってたのではないか?とおれは睨んでいるのである。
 しかし、ここで言う「日常」が既に喪われた「過去の日常」であることは言を待たない。今時、風呂のない家なんてスッカリ少数派だし、相当の田舎でも上下水道は完備され蛇口をひねればすぐに水は出るし、ボタン一つで風呂は沸かせる、もらい湯なんてーのも完全に過去の話である。もはや燃料代を惜しみながら鉱泉水集めてちびちび沸かす必要なんて、社会全体から見ればほとんど失われているのだ。

 一体これまでいくつの消滅の瀬戸際に立たされた冷鉱泉を見てきただろう。行こうと思ったらタッチの差で廃業した後だった、あるいは訪ねてった数年後には廃業しちゃったところだって枚挙に暇がない。「危機に瀕している」って表現はあながち大袈裟ではない。

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 おれたちのギャラリーの写真を見ればお分かりだろうが、内湯で別浴なのに一緒に入ってるケースがとても多い。そりゃまぁ中には頼みこんで一緒に入らせてもらったのもあるが、実際そのケースは少なく、行ってみたら片方しか湯が入ってなかった、っちゅうのが大半だ。
 混浴でけたんやしエエやんか、などとイージーに思ってはいけない。これが衰退の兆候の一つだ。来客数が少なくて、燃料代もかかるし湯を入れ替えて掃除するのも大変だし・・・・・・で、男女別のどっちかを使うのをやめてしまったからそうなっているのだ。
 埃まみれになって乾き切った浴室を見ると心が痛む。

 廃業に至るティピカルな例を挙げてみよう。

 衰退の第一歩はまず何より、経営者の高齢化から始まる。当然ながら子供達は就職して都会に出てしまったりしてる。先祖代々守ってきた湯宿だからなんとか継いで欲しいなとは思うものの、左団扇で食ってけるほどにお客は来ないし、朝は早く夜遅く、そいでもってまとまった休日も取れない3K商売だから強く戻って来てくれとも言い出せない。いっそ思い切って勝負掛けて観光旅館にリニューアルしようかとも思うが、付近にさしたる観光名所はなく、見積もった借入金はケタ違いで土地建物を担保にしたくらいではどうにもならないし、そもそも源泉に何の特徴もなく、湧出量にしたってそんなになかったりする。
 こうして逡巡している間も歳だけはドンドン取ってく。若い頃のように頑張りも効かなくなって来るし、何をやるにも億劫で大儀になって来る。そうして第二段階である「宿泊の停止」に至る。布団の上げ下げや掃除、料理出しの給仕は意外なまでに重労働なのだ。
 宿泊を止すことで、当然、建物は空部屋だらけになる。不思議なもので部屋は使わないままだと一気に老朽化が進むから、一旦止めてしまったものを再開するのは極めて困難だ。他にも手入れの行き届かないところが増えてきて、だんだん旅館全体に荒廃の影が忍び寄ってくる。
 第三段階は営業日や時間の削減だ。週1日の定休日が2日になり3日になり、午後からのみの営業になったりする。もうここまで来たら終焉は目前である。
 最終段階はジーサンバーサンのどっちかが倒れたりポックリ逝ったり、である。そうなるともはや鉱泉宿どころではない。入院したとなれば片方が世話しなくちゃなんないし、死んだりしようものなら一気に張りつめていたモノが切れてしまうし、手も回らない。もう、完全にお手上げだ。

 もちろん温泉宿でも同様の経緯を辿ることはあるし、全部が全部このようなことになるワケでもなかろうが、いずれにせよ顛末は似たり寄ったりだろう。

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 近年、おれは冷鉱泉をなるだけ回るように心がけている。もちろんその佇まいに時代離れしたものが多いのも訪問の大きな理由だが、それより何より、多くが間違いなく「この代限りで」系と思われるからだ。個人の力でそれは食い止められないし、それにいくら文化だ伝統だったって経営されてる人々は霞食って生きてるのではない。生活があるのだ。ゼニカネがあるのだ。
 背景にある社会や価値観、行動様式の大きな変化を度外視して、無責任なノスタルジーだけでどうのこうのともっともらしい反対意見や無理強いを声高に述べる気にはどうしてもなれない。

 ただただ、せめて少しでもそれらを記憶に留め、ノー天気な画像に残しておきたい。それだけだ。

 それは自分なりの失われ行くものへの挽歌であると共に、ケッコーマジで復活と再生に向けた言祝の行為だと思ってる。悲しいことに非力だけど・・・・・・。


同じくアウトテイクより。

2009.06.13

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