「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
泉湧くところ


「いっせんぼく」、そこには何もない。

 「永遠の浄化」のようなイメージが泉にはあって、大好きだ。

 そりゃまぁ永年のテーマである温泉だって「温かい泉」と書くくらいで泉の一種なのだろうけど、色んな成分が含まれて濁ってたりするワケだし、自分の中ではどうも清冽な水の湧き出す泉とはちょと違うモノに思える。
 今、「清冽」と表現したけれども、やはり泉の水はキリッと冷たくなくてはならない。だからむしろ「凛冽」であって欲しい。刺すように冷たい、氷のような冷たさだ。そぉいやぁ市販されているミネラルウォーターだってそんなイメージのものばっかしだ。透明のペットボトルに青と白を基調としたラベルデザイン、名前だって六甲だの南アルプスだの谷川岳だの、いかにも雪解け水をそのままボトルに詰めました、ってな佇まい。実際は井戸やトンネルの中から汲んでるだけなんだけど(笑)。

 水道水が不味いだけでなく、カルキだとかトリハロメタンだとかなんとか身体に良くないものが入ってると喧伝されたおかげで、名水と呼ばれる湧水には休みの日ともなれば人が群がる。なるほど、良い水で炊いた米や味噌汁はタバコ吸いのおれでも分かるくらいに味が違う。しかし、だからって、道端にクルマが何台も数珠つなぎに停められて、おっきなポリタンクをいくつも持ってエエ歳こいたオッサンオバハンが行列、っちゅうのは何だかひどく貪婪で浅ましく、ねじれた姿に思える。
 昔、大阪の高槻の山奥にそんな湧水があった。休みともなればバカみたいに長蛇の行列ができる。ところが、改めてその水を研究機関が検査したらとんでもないことが判明した。大腸菌その他の細菌まみれだったのだ。おれはその新聞記事読んで、快哉を叫んだ記憶がある。言うまでもなく、集まる連中の下らぬペダントリーが粉砕されたことに対してだ。

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 あまり熱心ではないけれど旅の途上、湧水とかがあるとつい立ち寄ってしまう。

 想い出すままに記すと、秋田の六郷湧水群、羊蹄山麓、忍野八海、町の到る所で水の噴き出す島原、雲仙を挟んでその反対側の小浜何か房総の山奥でもザーザー水の湧きだすところがあったな・・・・・大滑りしたのは茨城・八溝山の湧水群くらいのもんか。ありゃなんぼなんでもショボかった。

 別にポリタンに何杯も水を汲むわけではない。せいぜい大抵置かれてある柄杓やワンカップの空きビン、あるいはチープでカラフルなうがい用のプラカップ等で1杯飲むくらいだ。カルシウム分の味がどぉとか能書き垂れるワケでもない。だって分からんのだもん。そもそも、んなこたぁどぉだっていいのだ。

 そこで滾々と水が湧いている、それが眺められさえすれば何となく心が和む。

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 関東地方にはハケと呼ばれる所があちこちにある。丘陵地帯の台地の縁の部分のことで、その下部からは水が湧き出していることが多い。単なる当て推量だが、ハケとは「崖」の転訛したものではないかと思ってる。具体例では蕎麦で有名な深大寺なんてーのが典型的なハケらしい。たしかに行くとこんもり高くなった森があって、寺があって、蕎麦屋ももちろん何軒もあって、そして道路を挟んだ反対側の低い所一体が湿地で水生植物園になってる。
 おれんちの近所にもあれほど規模は大きくないが、ハケの湧水だった所が整備されて公園になっているところがある。とてもそうは思えないほどに水は濁っているけれど、中心にある池からは今でも水が若干湧いているらしい。ああ、チャリンコで良く行くコースの途中にも道路脇の塩ビ管から水の出てるところがあったな。意外にあるモンやんか。

 言うまでもないが関東の丘陵地帯は完全に宅地造成の波に飲み込まれてしまっている。山残すなら残すで、湧水残すなら残すでそのままにそっとしときゃええのに、やれ青少年ふれあいのナントカとか、親水ナントカなんて名前付けて人工的に整備してしまう。そんなにまでして土建屋に仕事回したいのかね、と思ってしまうが、手付かずの泉なんてもうないと思っていた。

 ・・・・・・ところがあったのだ。正直、ビックリした。

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 先日、上総亀山をふりだしに久留里線を丹念に回ったことは前回書いたとおりだ。久留里は200本からの自噴井戸で有名な湧水の町だが、そのことは今回は触れない。

 途中、馬来田って駅で近隣の名所案内が置いてあるのを何気に手に取ったら、「いっせんぼく」というのが目に留まった。その不思議な名称が気になってちゃんと読むと、どうやら湧水らしい。湿原がどうとかとも書いてある。
 流石はチャリの威力で、歩きとは断然ペースが違う。路線を往復してもずいぶん時間が余りそうだ。正直、周囲の風景を見ると大して期待できなさそうではあったが、ヒマつぶしに何となく行ってみることにした。

 駅からダラダラ坂を上がり、小学校横の細い道を下ると何もない田んぼに出た。こんなにも家や電線のない風景がポロっと現れたことがひどく意外に思えた。遠くには小高い丘陵が見えている。地形的にはその襞が凹んだようになってる辺りだろう。道は未舗装の田圃道でところどころぬかるんでたりして、タイヤの細いロードにはややキツいけれど構わず進んでいく。

 さらに分岐を入って行くと道の両側を水が流れている。今はコンクリートのU字管等で無粋に側溝が作られてるのが当たり前の時代に、ただもう土を掘っただけの溝だ。何だか時代劇のロケにだって使えそうな雰囲気だ。そこをかなりの水量の水が流れている。左側の溝は真っ赤なところをみると何がしかの鉱泉成分が含まれてるのかも知れない。
 やがて道は途切れ、木道に変わった。いつの間にか湿原についていたのだ。灌木と雑草の間を水が流れている。
 木道はさらに続き、台地の下の大きな広場状の所で終点となる。円く取り囲むように一面の竹林の丘陵が迫り、その一角に静かに水の湧き出す「いっせんぼく」はあった。立てられていた小さな看板によると昔はもっとあちこちから湧き出していたらしい。

 結局、木道と控えめな看板と小さなトイレの残骸くらいで、あとは観光施設らしいものはなかった。

 無論、だからってここが手つかずの自然っちゅうワケでは断じてない。泉の近くにはさらに水を求めたのかトンネル状に掘り抜かれた穴があったし、竹林にしたって元々は斜面の崩落を防ぐため人の手によって植林されたものだろう。実は日本には南洋渡来の植物である竹の自然林なんて存在しないのだ。
 それでもおれは猛烈に感動したのだった。モノ欲しそうにいろんなモノくっつけて観光地とする気など皆目感じられず、ただの湧水がただの湧水として残っている風景に、長閑な春の光に包まれた平凡そのものの湿原の疎林の風景に・・・・・・静かな、静かな風景に。

 何だかちょっと目頭が熱くなった。

 泉には浄化のイメージがあると冒頭に書いたけど、文字通りそれはささやかなカタルシス(浄化)だったのだろう。中年のオッサンにはまことに似つかわしくないけれど(笑)。
2009.04.09

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