「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
ルーツへ(U)・・・・・・濁川・濁河温泉


オールドタイマーな鉄道模型マニアなら、どっちも喉から手が出るほど欲しい本のハズ。

 昭和59年の王滝大地震(長野県西部地震)で崩落した御嶽山の土砂は、実に東京ドーム30杯分と言われる。伝上谷や濁川谷だけでなく王滝本谷までが猛スピードで駆け降りた岩屑なだれによって数十mの深さまで埋め尽くされ、周囲の地形は一変し、そして、4名の命と共に温泉が一つ消滅した。一軒宿の濁川温泉である。
 奇しくもこの地震の2年前の夏、おれはそこに泊まっている。電気もガスもない、おそらくは日本最後の本物のランプの温泉宿だった。オゥ!ジーザス!何てこったい、おれは温泉巡りの端緒で、いきなりハイエンドの激シブ系を体験してしまった、っちゅうワケだ。

 初めてその名を知ったのが家に転がってたたしか「旅」ってタイトル雑誌の中の記事であることも含めて、この件については過去に何度か触れているが、そもそも何でそこまで深く自分に刷り込まれたのかを落ち着いて考えると、「旅」の次に名前を見かけた本の存在がこれまた大きい。
 昭和51年に機芸出版社から出された「ナローゲージモデリング」ってのがそれで(・・・・・・って、そぉいや人生を変えた本としてもここの「シーナリィガイド」を挙げたこともあるな。恐るべし機芸出版!笑)、その中の木曽森林鉄道の訪問記事の最後の方で濁川温泉が出てきたのである。概してここの単行本は実にイージーで、月間誌「鉄道模型趣味」での過去の記事を後から整理して1冊の本にまとめるのが大昔からのスタイルだ。だから、出版された時には既にアウトオブデイト、っちゅうか古き良き時代のアーカイヴになってることが多い。そんなんでこの記事も初出は60年代の終わりだ。余談だが、ここで紹介される森林鉄道独特の光景・・・・・・中でも珍しい木製のトラス橋が鉄道模型マニアに与えた影響は非常に大きかった。なぜなら、その後発表される森林鉄道のレイアウトには、軒並みこの橋を模したものが架けられてたのである。エピゴーネン、右にならえ、とは正にこのことだな。
 それはさておき、濁川温泉がとてつもなく鄙びた温泉であるということを改めて知って、ここもおれのアタマの中にある「いつか絶対訪ねる温泉リスト」の一つにより深く刻まれていたのである。

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 周辺にいくつもの魅力的な温泉はあるのだけど、濁川温泉の悲劇によって御嶽山は自分にとって行きづらい所になってしまった。周辺には行けても、とりわけ王滝本谷に足を運ぶのはどうにも気が滅入って、ずーっと訪問することを避けていたのである。それがようやく昨年、文字通り四半世紀ぶりにおれは上松の北から谷に入って行った。何でそんなコースを辿る気分になったかはよく分からない。

 景色についてはさすがにずいぶん変わっていた。以前訪ねた時には森林鉄道の痕跡が結構あちこちにフツーに残っていたと思う。特に滝越のかつて駅舎兼雑貨屋だった建物がそのまま雑貨屋として残って営業してたことには驚いた記憶がある。まぁ、思えばあの時はまだ廃線になって6〜7年しか経ってなかったから、当たり前っちゃ当たり前、不思議でもなんでもない。あのころの「6〜7年前」はとんでもなく大昔のことだったけど、歳食った今のおれにはその程度の時間の経過は、ホンの少し前に過ぎない。
 道はずいぶん改良が進んでおり、離合に苦労するようなところはなくなっているが、そう言えばかつて自転車でさえすれ違うのに苦労した木材を満載したトラックの姿は見当たらない。日本から失われたのは森林鉄道だけではない。林業そのものだ。

 今回は奥地までは向かわず、途中から開田高原に上がり、山頂の北側を巻くようにして濁河温泉に向かった。ここは10年くらい前に一度訪ねたことがある。オトコばっか3人で、大阪から岐阜回りで行ったのだ。日帰りの強行軍だった。もう夕方近いというのに帰り道、下呂あたりで飛騨牛の焼肉食い散らかしたり、明らかにアダルト系の撮影隊と思われる一行に遭遇したり、それはそれで面白い小旅行だった。

 それにしても御嶽山を挟んで濁川温泉に濁河温泉、前者が「にごりかわ」で後者が「にごりご」と、読み方こそ違え字面はほとんど同じとは悪い冗談のようだ。鉄分を含んだ泉質もまずまず似ている(濁川の方が有馬温泉並みに真っ赤っかで濃厚だった)。ただ、唯一異なるのは、温泉地としては現存する方は小さいながらも温泉街が形成されていることで、今では「日本最高所の温泉街」っちゅう、思わず「それがどないしてん?」と訊きたくなるようなキャッチコピーで売り出してる。まぁ標高1,800m、なるほどずいぶん高所ではある。

 少し辛辣に思ったのはやはり、喪われてしまった濁川温泉への無念とか哀悼といった感情ゆえだろう。贔屓にしてた方は悲惨なことになったっちゅうのに、こっちはますます商売繁盛でっか〜、よろしおまんなぁ〜、みたいな。別に義理立てする必要は全くないのに(笑)。
 冷静・客観的に見れば濁河温泉にしたって、とても落ち着いた佇まいの素敵なところである。温泉街ったって別にぼんぼりが並んでるわけでもないし、巨大な観光旅館が他を圧しているワケでもない。比較的小さな旅館がちょろちょろっと山道の両側に固まって建つ。それだけ。実に慎ましやかなものだ。前回は男ばかりってコトもあって公営の男女別に分かれた露天風呂みたいなところに入ったが、家族連れの今回は「覚明荘」というトコに入らせてもらうことにした。温泉街の一番手前あたり、道のすぐ脇の小さな民宿だ。

 国設濁河スキー場の古いペナントの張られた帳場から風呂に案内される。小さな男女別の内湯の外は、谷に臨んで狭いながらも瀟洒にしつらえられた混浴の露天風呂となっている。すぐ横の板塀の向こうは表の道路なのだけれど、巧みに木を配してあるので気にならない。
 空は抜けるように青い。8月とはいえ2千m近いところなので空気は澄んで結構涼しいが、傾いた西日がカンカン射していて肌が灼けるようだ。ヨメは盛んに日焼けを気にしてる。
 今日はもう後の温泉の予定はない。キャンプ場に行ってテント張って、どこかに食事に出るくらいだ。それに身体も洗わなくちゃいけないので、おれたちにしてはかなり長居した・・・・・・いや、それは素直な言い方ではないな。死ぬほどつまらなければ、サッサと上がってもっと麓に下って別の温泉、別のキャンプ場を訪ねても良かったわけだし、やはりここの佇まいが気に入ったのだ。
 湯は緑色がかった褐色、とでも言うべき色合い。しかし、地名の由来ほどには濁っておらず、透明度も高い。源泉槽や湯船の縁には錆色の析出物が細かい波紋を作っている。

 風呂に浸かりながら、かつての濁川の一夜のことをおれは思い出した。もう早や25年、10代だったおれも今や厄年過ぎたオッサンで、いずれはパンクな自称ギタリストあるいは雑文書きでもやって日がな一日怠惰に暮らすと思ってたのが、あるいはとっくにどっかでくたばってたかもしれないハズが(笑)、どこでどう間違ったか今や家族がいて、毎日決まった時間に早起きしては満員電車に揺られて、あまり真面目ではないとはいえガラにもなくサラリーマンなんかやっちゃって、あまつさえ部下まで持つようになってしまった。んでもってたまのまとまった休みには温泉巡りだ、野宿だ。晦渋なフリしながら、それなりに楽しくやってる。

 ------トラウマもどきはもうそろそろエエんとちゃうのん!?

 突如、そんな声が聞こえたような気がした。そうだ、こうして王滝谷に来る気になったのもつまりはそぉゆうことだったのだ。もうそろそろヘンな拘りをもって、辛気臭く自己の温泉行の原点の一つを振り返るのはいい加減止した方がいいのだろう。法事にしたって、ホレ、たいていは33回忌で打ち止めではないか。どだい法事ったって、10年もたてば坊主が来てお経詠むだけで、スッカリただの酒飲むお祭りだ。それに何はともあれ、この体験あったればこそ、こうしておれはそこそこの温泉好きとして各地を巡ってるのも事実だ。
 太陽があっちゃの向きだから、濁川温泉があったのはだいたいこっちの向きだろうと見当をつけて、おれは心の中で頭を垂れた。まぁ、言うなれば黙祷のようなものだった。

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 さてさて、冒頭に「東京ドーム30杯分云々」などと書いたが、これをおれは伊藤和明「日本の地震災害(岩波新書・2005年)」という本で知った。この本によると、どうやら御嶽山の実態は活火山であるだけでなく、数百年に一度と地球時間で言えばかなり頻繁に巨大な山体崩壊を繰り返す危険な山でもあるらしい。近年、地質や地形の調査が進んだことで、過去の崩壊歴がだんだん明らかになっているのだ。磐梯山みたいなもんだな。とすれば濁河温泉にしたって、いつ何時巨大なカタストロフに巻き込まれたっておかしくはないワケだ。

 だからって、杞憂から今のうちに行っとけなどと勧めるようなバカな気持ちはこれっぽっちもないけどね(笑)。一言、ややこしいこと抜きでいいトコっすよ、濁河温泉。


※濁川温泉での詳細な体験については、「Archives」にある「温泉と災害」をお読みいただければ幸いです。


緑褐色に濁る覚明荘の露天風呂と内湯。いずれもギャラリーのアウトテイク。

2008.03.30

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