「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
旅はいつだってセンチメンタル


荒木経惟の傑作、「センチメンタルな旅」表紙。

 俳聖・松尾芭蕉も全ての句がアタリ、ってワケではない。どうしようもなくグダグダでアイタタタな駄作もある。たとえば「奥の細道」の冒頭に出てくるコイツ・・・・・・
行く春や鳥啼魚の目は泪
 ・・・・・う〜む、ゆうたら悪いけど、こりゃどぉしようもなく最低である。時間や空間の広がり、音の余韻といったものからイマジネーションを刺激し、字面以上の世界を見せるような要素がここには何もない。「鳥啼」はまだ良しとしよう。鳥はピーチクパーチク・ホーホケキョと鳴くもんだ。しかし、「魚の目に泪」って、一体何なんだ?家の前を魚売りの少年でも通ったんか?オマケに鳥と魚、っちゅうのもいかにもこじつけたような対置だしねぇ〜。
 そしてひたすら甘ったるい。もぉベタベタと言って良いだろう。「行く春や」の出だしに呼応した後半には、「取ってつけたような感傷」以外の何も感じられない。大体「〜や」で始めるときは、下によほど粋で鮮やかな切り返しがないとロクでもないデキになる、っちゅうねん。何で推敲を惜しまなかった彼がこの句を外さなかったのか、おれにはその気が知れない。

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 さて、今回の表題が荒木経惟の写真集「センチメンタルな旅」を下敷きにしてるのは言わずもがなだ。自費出版で出された事実上、彼の処女作といえるこの作品、100点余りの写真が時系列に沿ってただ淡々と並べられただけの構成なのに、何か根源的な部分に深く迫ってくるものがある。過去にも書いたけど、おれは荒木の「私写真」って考え方、またこの作品にものすごく影響を受けている。ただ悲しいかな、技術もなく冗長で抑揚に乏しいおれの旅行写真など、この傑作のひどい劣化コピーに過ぎないが・・・・・・。

 けど、一方で思う。果たしてセンチメンタルでない旅なんてあるんかいな!?と。いやいや、もっと言うと、わざわざセンチメンタルな気分になりに人は旅に出る。旅はあらゆる気分を増幅させ、時には異化させさえもする・・・・・・無論、そんなんに全く無縁の人だっているけどね。

    期待
    不安
    感動
    交歓
    失望
    快楽
    寂寥
    歓楽
    後悔
    満足
    焦燥
    幻惑
    邂逅
    離別
    名残・・・・・・

 ・・・・・・そう、旅はいつだってセンチメンタルなんだわさ。

 だが、センチメンタルはクドく、しつこく、ウザい。おまけにひとりよがりだったりもする。だからそれだけでは絵にも話にもならない。センチメンタルな旅がアナタ個人だけの密かな日記やアルバムの中のものであるならいいけれど、それが世に向けて発信され、普遍的な価値を持った作品として昇華されるには、これに対峙する要素が不可欠だ。

 結論からゆうと、おれはそれを「リアル」だと思う。旅ネタでこんな言葉を持ち出しちゃうと、まるで「弥次喜多 in DEEP(真夜中の弥次さん喜多さん)」の世界のようだが、センチメンタルな旅は同時に、リアルな旅でなくちゃならい。
 いささか乱暴な言辞を許していただくなら、なんで冒頭に挙げた芭蕉の句がだらしないのかっちゅうと、とことん観念的でリアルがな〜んもないからであって、なんで荒木の作品が傑作かっちゅうと、演出や脚色を排し、あくまで新婚旅行のスナップという徹底的なリアルを積み重ねているからだろう。

 しりあがり寿は天然入った天才みたいなトコがあるから好き放題描いたんだろうけど、娯楽そのもの「東海道中膝栗毛」をモチーフ(っても登場人物だけ、笑)に、グロテスクでアシッドな幻覚の世界を展開しながら、その中で「リアル」を主人公の2名に求めさせることで、結果的には世の中に氾濫する、センチメンタルな旅をセンチメンタルな思い入れで垂れ流すだけのさまざまな表現を撃っていた・・・・・・うがち過ぎかな?

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 最近チャリにハマって、休みの日は遠乗りに出かける。一般道はクルマがビュンビュン通ってて怖いし、今は旅の乗り物としてではなくて痩せるためのトレーニングマシンとして乗ってるので、もっぱらサイクリングロードを走ることにしてる。余談だが、これがもぉ大した運動効果で、1ヶ月で1,000kmほど走ったらかなりハラは引っ込んだ。

 それはともかく、このサイクリングロードっちゅうのは多くの場合、川の堤防上に作られている。名前に反して自転車専用ではないので、散歩する人・ジョギングする人なんかもいる。川沿いは基本的に低湿地であるから、都内を離れると近くにあまり民家はなく、一面に田んぼが広がってることが多い。それに堤防内側の河原はグラウンドやゴルフ場になってることもあるけど、たいていは雑草の生い茂る荒地だ。だからこの季節、どっちも草は枯れて縹緲たる枯野となっている。近場で人気のあるサイクリングコースはかなり遅い時間になっても人で賑わうものの、ちょっと遠くに外れるとだだっ広い堤防上を走ってるのはおれだけ、ってなこともある。街灯類が未整備なもんだから、陽が落ちると真っ暗になる。そうなるとかなり怖い。

 そんな寂しい道をシャーコンシャーコン走ってて、これもまた多少なりとも旅であることにおれは気づいたのだった。日暮れも近くなった頃、吹き抜ける寒風も、それに揺れる草も、岸辺に打ち棄てられたような小舟や網の仕掛けも、ムクドリだろうかやかましく集団で飛び去る鳥も、すべてがなんとも侘しい。早く灯りのある、暖かい、人のいるところに所に行きたい。

 なんとも辟易するほどのセンチメンタルな気分になる。たかが150kmかそこらの日帰りチャリのトレーニングなのに、だ。しかし次の週も、ナンボ痩せるためとはいえ、おれは物好きにもまた荒涼たる枯野に出かけて行く。ホントは他にも探せばいくらでもコースはあるだろうに。センチメンタルな気分になるために。

 さぁ、ここにリアルはあるや否や?・・・・・・う〜ん、まだアカンな(笑)。

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 芭蕉には、一世一代の駄句がまだある。生前最後の句と言われる有名な一句・・・・・・
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
 ・・・・・・あ〜もぉ〜、最後の最後で甘ったるいだけでなく字余りやおまへんかぁ〜。この句もクサい、実にセンチメンタルだ。しかし、おれにはこのセンチメンタリズムを嗤うことがどうしてもできない。





「リアル」を求めて冥界を行くかのような弥次喜多。しりあがり寿「真夜中の弥二さん喜多さん」「弥二喜多 in DEEP」。
ものすごいマンガ!!表現の極北、必読!


2007.12.10

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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