「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
横断と縦断の夢の跡への旅


夕暮れに沈む上総中野にて

 何でも日本国内で廃止された鉄道路線の総延長は、今や6,000kmにも及ぶらしい。日本の南北が3,500kmだから、ほとんど一往復分にこれは相当する。たしかに、昭和30年代前半くらいまでの地図を見ると、日本の津々浦々に線路が張り巡らされていたことが分かる。おもに水系に沿うようにして本線があり、交通の要衝から支線が分かれ、さらには地方私鉄や盲腸線が分岐する。山には森林鉄道や鉱山鉄道の類が意外な奥地にまで到達しており、線路を描くだけでほとんど日本地図ができあがった時代があった。

 戦後、日本に上陸した進駐軍は日本の道路事情の悪さに驚いたと言われる。東京や大阪の大都市圏でも舗装されてあるのは表通りのごく一部、ちょっと地方部に行けばクルマの通行もままならない狭さで、雨が降ると泥濘となって歩くにも難渋するような道ばかりだったのだ。よぉこんな国がわいらと戦争しよったな〜、ってな感慨を抱いたんぢゃないのかな。

 これには無論、理由がある。明治維新後の日本は、富国強兵政策の中で、世界的にはモータリゼーションの波が押し寄せつつある中でも、一貫して基本インフラを鉄道とした交通網整備を最優先に進めてきたのである。海に囲まれた山がちの国土では、建設費用も手間も平野ばっかりの国よりもかかる。マトモな輸送量を確保しようとするなら、少なくとも往復2車線が必要な道路よりも、単線でも長大な列車を走らせることのできる鉄道の方が格段にそれらの点で優れたのだ。

 そんな我が国だったけど、おおむね1970年代までに鉄道から道路への輸送転換は完了する。国鉄の民営分割化に併せて行われた大規模なローカル線の整理は1980年代半ばだが、それは親方日の丸体質とアホな労組が遅らせただけで、実態はやはり70年代だろう。

 ・・・・・・などとお堅い前フリはさておき、そんな状況の中、「よぉこんなん残ってましたな〜!」と言いたくなるような奇蹟的に寂れた接続駅が、首都圏からさほど遠くもないところに残っている。小湊鉄道といすみ鉄道が接する上総中野だ。前者は1日5本、後者はまだマシで16本。
 実は、もっと寂しい接続駅は他にもまだ、ある。例えば芸備線から木次線が分岐する備後落合、ここは前者が1日7本、後者が4本っちゅう体たらくで。山田線から岩泉線が分岐する茂市は、それぞれ9本、6本だ。この21世紀の日本で(笑)。

 ともあれ、おれはその寂しさを体感したくて、出掛けていった。例によって徒歩で(笑)。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 夕暮れ迫る小湊鉄道の飯給(いたぶ)駅で、おれは今日の徒歩を諦めた。短いホームに小さな待合所だけの、「駅」というのもおこがましいようなところだ。次の列車まではまだ30分以上あるが、こいつが上総中野への最終列車、逃すと歩くしかなくなるが、そんなことしてたら到着が夜遅くになってしまう。おれはどうしてもそこで野宿したいのだ。それに、夜道とはいえクルマの通行はけっこうあるから、危ない。まさか夜の道をトコトコ歩いてるヤツがいるなんて、ドライバーは思いもしないだろうし。
 一方でこの旅のルールは一つ、「全線を踏破する」ことだから、明朝ここまで歩いて戻ってくることにしよう。

 最終列車は定刻どおりやってきた。薄暗い車内に乗客は4分の入りというところか。思ったよりもたくさんいることに驚く。黒いカバンを下げた女性車掌が、何だか大昔の田舎のバスみたい。大きなリュック背負って一日何人の乗降客がいるか分からないような山間の小駅から乗ってきたおれに若干不審の目を向けながらも、パチンパチンと乗降駅と金額にパンチを入れ、大きなキップを手渡した。断るまでもないが、運賃は法外に高い。

 上り勾配にエンジン音を上げて、列車は快調に進む。車内に排煙の匂いが漂う。窓枠には油汚れが滲みて独特の風合いだ。歩きまくって疲れているのですぐに眠くなる。
 月崎・上総大久保と過ぎ・・・・・・3つ目の養老渓谷でほとんどの乗客は降りてしまった。ここまではそれでもまだ列車は1日9本ある。少し離れてるとはいえ温泉街があり、マイクロバスによる駅までの無料送迎なんかもやってくれるみたいだ。しかし、そこから終着まではたった一駅、あとわずか5km弱だけなのに列車は間引かれて5本となる。いかにその区間での乗降客が少ないかが良く分かる。
 飯給からちょうど20分、2両編成の列車は終点・上総中野に着いた。まばらな客が降りる。しばらくしていすみ鉄道からの列車が到着したが乗り継ぐ人は誰もおらず、最終列車は乗客ゼロのまま五井に向けて折り返していった

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 駅構内はずいぶん広い。駅前広場も広々としている。大多喜界隈は竹の子の産地として有名で、それにちなんで青竹を斜に斬ったのを模した公衆トイレだけが真新しく、そして不釣合いな印象。広場を挟んで製材所があるところからすると、かつては貨物側線や引込線が何本もあるような、それなりに山間の交通の要衝だったのだろう。しかし、今はそれぞれの鉄道の線路が互い違いに突っ込んで途切れ、それを迂回するようにもう一本の線路が渡されただけの実に殺風景な駅だ。接続駅だというのに無人駅だし。

 大原側の空地にテントを張り、駅の待合室で夕食の準備。いつものようにマカロニ茹でてパスタソースと混ぜて温めるだけの簡単な内容。予想以上に冷え込みが厳しく、ベンチに座ってると胴震いがするほど寒い。カップ酒を用意しておいたのは正解だった。
 チビチビやってる間に2本、黄色いいすみ鉄道のレールバスが到着したが、降りて来たのはクラブ帰りか何かの女子高生が一人だけ、乗る者はいない。誰もいないのに、それでも運転士は律儀に時計をじっと見つめ、定刻になると軽くタイフォンを鳴らし、指差呼称なんかまでして出発していった。
 静まり返った待合室を見上げると、梁に古い極彩色の名所看板が掲げてある。おそらく旧駅舎の形見なのだろう。その明るい色遣いには、おらが村に開通した、鉄道という近代の息吹への歓びと希望が溢れているようだ。そうだ、ホントはここは房総の一大ジャンクションになるはずだったのだ。

 小湊鉄道もいすみ鉄道の前身である国鉄・木原線も、その実態は開業最初から暗い影が差しているような路線だった。小湊とは外房の町、日蓮ゆかりの漁師町・天津小湊のことで、本当は房総半島を縦断してそこに到達するはずだったのだけれども、資金難で断念。ちなみにそのルートを辿る道は未だに離合にも苦労するような狭い道なので、よしんば鉄道が全通してたとしても、目論見ほどに集客はできなかっただろう。
 一方の木原線も、木更津と九十九里南端の町・大原とを、半島を東西に横断して結ぶ予定で建設されたものの、これも途中で戦争激化等により中断。そもそもこのあたりは昔から過疎地帯なのだ。ちなみに、木更津側の残存区間が、今のJR・久留里線である。
 そして「まぁ、よぉ分からんけど五井と大原でつながって、とりあえず半島も横切ってるからエエやんか」みたいな感じで、この何もない上総中野が不思議な接続駅となり、今に取り残された。
 ウロ覚えだが木原線なんて、昭和30年代には早くも廃止が取り沙汰される悲惨なありさまだった。それが何のハズミか70年代、80年代の廃止の波をくぐり抜け、慢性赤字とはいえ3セクとして辛くも生き残った。あるいは動労でも有数の武闘派、「動労千葉」の影響があるのかも知れない・・・・・・。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 腹に響くエグゾーストノートに我に返る。

 明らかにシャコタンのヤン車が、表通りから駅前広場に進入してくる。サスをカットしてるかなんかでほとんどリジッドになってるのだろう、夜目にもハッキリ分かるほど車体がガタガタ揺れている。
 クルマはそのまま派手にドリフトターンを5周ほどキメると、そのまま走り去っていった。街灯に一瞬照らし出された運転者の顔は、予想通りアホそう(笑)。まぁ、地元の土屋圭市気取りのヤンキーだろう。クルマ一台だけでそれが、ギャラリーもいない駅前で爆音を響かせてクルクル回る・・・・・・。

 上総中野は、予想以上に遥かに寂しいところだった。


翌朝、だだっ広い駅前

2006.07.04
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved