「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
歳月記・・・・・・志賀高原


褪せかけた写真、褪せかけた記憶(点在する池のどれか、1989)

 一度行ったことがある温泉にはあまり行きたくない。それも、インターバルが空いてるほど気が重い。風景が無残に変わり果てていてたりして、記憶が傷つくのがイヤなのだ。

 関東に越して来てからは、これまであまり足繁く通えなかった上越・東北方面に出かけることが増えたこともあり、長野以西はすっかりご無沙汰状態になっていた。行ってもポツポツと未訪問のところを埋める程度だし、それにおれは泉質バカ、もとい至上主義者ではないので、水浴びとかはゴメンだし、ましてやどうでもいいような日帰り施設にも行きたくないもんだから、だんだん行く場所が減ってくる。

 ・・・・・・典型的な自縄自縛だ、在所不明のストイシズムは自らの首を絞めるだけや、っちゅうねん。あまり偏固が過ぎるのも良くないなぁ〜、とおれはいささか反省したのだった。割り切って再訪も適当に織り交ぜていけばよいではないか。

 などと余人には理解しがたいくだらなくも内的で奇妙な葛藤のプロセスを経て、おれは志賀高原を再び訪ねてみることにした。ホンマ、めんどくさぁて、うっとぉしいやっちゃな〜。

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 志賀高原に初めて行ったのは70年代の半ば過ぎだ。いや、主体的に行ったワケではない。単に中学の修学旅行の行先が信州だったのだ。5月だった。たしか中央線で塩尻まで臨時の団体列車に乗り、そこからバスで霧ヶ峰・車山高原とビーナスラインを回って白樺湖泊、翌日は軽井沢〜草津白根山〜志賀高原と北上し発哺温泉に泊まった。こうして改めて列挙するとムチャクチャにハードなコースやな、これって。
 ちなみに発哺から大阪までの帰路は、交通手段も含めて全く覚えていない。無論、ロクすっぽ寝ずに騒いでた結果、疲れ果てて爆睡してたからである。

 記憶はもはやモザイクどころか断片のいくつかが残ってるに過ぎない。白樺湖での夕食が「陶板焼き」だったこと、ちっさな灯油ランプや白樺を輪切りにした鍋敷きの土産を買ったこと、そして志賀高原の九十九折の道を行くとき、バスガイドが「しっがぁ〜こ〜お〜ぉぉぉげぇ〜ん♪」とナツメロの一節を声を張り上げて歌っていたことだ。いや、それさえも覚えてるのはサビの部分だけだ。

 具体的な記憶はすっかり薄れてしまったとはいえ、てんで遠出や旅行っちゅうモノをしようとしない家庭で育てられたガキとしては、ちょうど新田二郎の山岳小説をあれこれ読んでたこともあって、初めて見る高原特有の風景が相当強烈に刷り込まれてしまったのは間違いない。 おれが旅して最もこれまで沢山の時間を過ごした地方は、信州なのである。ちゃんと数えたことはないけれど、少なくとも100日以上は行ってると思う。

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 志賀高原に再び訪れたのは、修学旅行から10数年経った80年代の終わり、GPz900Rニンジャに乗ってた頃だ。この頃はまだ再訪にあまり抵抗がなかった。ソロで渋・湯田中の方から上がって、熊ノ湯の辺りから林道をトロトロ行って笠岳に抜け、七味や五色に下った記憶があるのだが、この時はカメラを忘れるっちゅう大失態をやらかした上に、まったくメモ等の記録も残っていない。だから詳細はもうきれいサッパリ忘れてしまった。

 それからの数年、少し小銭に余裕があったことも手伝って旅行に行く機会が増えた。コースの中に志賀高原を組み込むこともしばしばあった。同行のメンツはその都度その都度変わったし、乗り物もバイクからクルマに変わったものの、新湯田中・湯田中・渋・地獄谷・穂波・上林・丸池・発哺・熊ノ湯・木戸池・横手山・・・・・・別段高原の風景がロマンチックだとは思わないが、やはり爽快なもんで、何度行っても飽きなかった。やがて顔ぶれにはヨメも加わった。まだおれも20代、彼女なんてまだ10代だった。

 訪問するのはたいてい梅雨の直前の5〜6月ばかり。季節の合間だし、みんな梅雨だと思うのかひじょうに観光客が減るのと、天候が安定するので狙い目なのだ。このオカゲで予約に困ったこともなければ雨に祟られたこともない。

 それが結婚し、子供ができてからっちゅうもの、志賀高原どころか泊りがけの旅行そのものに行けなくなってしまった。生活は困窮し、とりあえず子供を育て、何とか食っていくだけで精一杯だったのだ。それでも何年かするうち、こんな怠け者のおれでも何がそんなに評価されたのか、ちったぁ給与も上げてもらい、生活面では余裕ができてきた。
 けれどもその頃には、今度は自分の目があまり何度も行った志賀高原には向かなくなってしまっていた。

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 かくして再び10数年ぶりに、友人夫婦と秋山郷(ここも同じくらい久しぶり)を越えて志賀高原に出かけた。これまでとは異なり紅葉真っ盛りのシーズンで土日だったものだから、ウンザリするくらい人もクルマもあふれかえっていたが、風景そのものはさほど変わっていなかった。長野オリンピックのときに大々的に補修したのかも知れないが、道路がずいぶん改良されたことが目に付くくらいだ。

 何がいちばん変わったかと言えば、自分自身なのだった。家族が増えたのはともかく、すっかり太って太鼓腹になり、額が後退しただけでなく、かさも減り、なにより全体的に老けた。20代と40代の懸隔はあまりに大きく、深い。

 奥志賀から下ってきて、地獄谷のお猿なんかを見たあとの昼下がり、おれたちは昼食にしようと、渋の狭い温泉街をタラタラ歩いた。観光客がみんな出払った後なので人通りは閑散としている。
 同行の友人夫婦は若い。まだ30そこそこと20代半ばだ。子供たちはおれが初めて志賀高原を訪れた年齢に間もなくなる。感慨、というよりはむしろ、ある種の苛立ちと幻惑のようなものを感じた。
 もし生きてこのまま行けば、あと15年したらおれももう60に手が届く年頃だ。ヨメもいい歳だ。子供たちは30近くになっている。ひょっとしたら孫の1人や2人いることだってありうる。柔らかい光の当たる石畳を初老の夫婦とその子供たちの一家がゾロゾロと歩いているかも知れない。
 さらに15年後、死んでなけりゃすっかりおれもジジィだろう。そして・・・・・・。

 沓野温泉に立ち寄ってから、銀行のCD機を探して湯田中の駅前に上がった。昔はなかったローソンができており、友人が金を下ろすのを待つ間、駐車場でタバコを吸いながら駅をぼんやりと眺める。
 線路配置が全面改良され、名物のスイッチバックは無くなってしまっていた。復元されたリンゴ電車が停まっていて、拡声器からは盛んに件の「しっがぁ〜こ〜お〜ぉぉぉげぇ〜ん♪」の歌が流れていた。秋空が相変わらず、高く青い。


渋温泉街を行く(2006)

2006.12.13
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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