「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
お湯がいい


法華寺に残る光明皇后由来の浴室、から風呂

http://inoues.net/より
 開口一番、おれ、このコトバ大嫌いっす。

 ホームページや文章とかで、平然とこぉゆう言辞を乱発できるヤツって、怖気をふるうほどの傲慢さと鈍感さの持ち主なんではないだろうか。

 一体何様のツモリぢゃ!?何がいいのかちゃんと説明してみさらさんかぁ〜っ!!

 どーせ酸だアルカリだヌルヌルだキシキシだ濃いだ薄いだ白いだ黒いだ赤いだ掛け流しだ・・・・・・大方そんなトコだろうが、ホント、黙れボケ!って思う。それにしても誰が言い始めたのか寡聞にして知らないけれど、「キシキシ」って何なんだろうね?ヘンな主観オノマトペだよなぁ〜。こぉゆう独りよがりコトバを大真面目に振り回してるとこからも、ホンマその傲慢さと鈍感さが伺われるわ。

 いやいや、オバハンとかが旅館でさ、丹前着てお風呂から出てきてさ、「あ〜、いいお湯だったわぁ〜」なんてゆうてるのまで目クジラ立てる気は毛頭ない。それは「もうかりまっか〜?/ボチボチでんな〜」みたいな一種の社交辞令やもん。まぁ、オバハン等はもっと別の別のトコで問題山積やしな、と(笑)。

 おれが指摘(いやもう「指弾」と言ってもいいかも)したいのが、泉質至上主義者みたいな人がこのコトバを使う鼻持ちならなさについてであることは、みなさんもうお分かりだろう。
 あのね〜、日本の温泉のほとんどは、実は何の特徴もない単なるお湯なの。そりゃー地面から湧いてくる以上、何かしらの成分は入ってるんだろうけれど、まぁおおむねただの水だったり、お湯だったりするのが大半を占めてるワケですわ。

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 悲田院だったっけ?光明皇后の無料風呂の話からも分かるように、そもそも古来、風呂自体がものすごくゼータクなものだった。

 そりゃそうだ。「平和と水はタダだ」と日本人が勘違いするようになったのはそんな昔の話ではなく、水そのものがまず貴重だったし、煮炊きをしたり、暖を取ったりするのが薪やの本来の役目だったのだから、それら両方をふんだんに必要とする風呂はおいそれと庶民の手の届くものではなかった。それに沸かす手間も大変だが、汲む手間はもっと重労働だ。どだい水道が家のあちこちに完備されるようになったのも、そんなに古い話ではない。したがって湯船に水を張るには、手桶やらバケツでえっちらおっちら運ぶしかなかったのだ。

 現に、おれが子供時代を過ごした1960年代初めの大阪では風呂のある家の方が少なく、ほとんどの家は銭湯に出かけてた。行くのはよほどのことがない限り、夏でも一日おきくらいで、合の日には家の裏の、畳一帖分ほどの土間にでっかいタライ出して行水である。おそらくは東京や名古屋だってそうだったろうし、比較的古い町家が多く残る京都では、1970年代終わりくらいになってもけっこーそれが当たり前だったという。おれが学生時代を過ごしてた1980年代でも、まだまだ銭湯は賑わっていた。
 無論、都市部ばかりではない。地方部においても各戸に風呂が備わったのはさほど遠い昔の話ではなく、近世までは「もらい湯」という形で共用していた時代が長く続いていたのである。

 いや、今はそんな時代ぢゃないんだしぃ〜、と呆れる向きもいらっしゃるだろうが、いずれにせよそれが事実だ。家の風呂に好きなだけ入れるようになったのなんて、たかだかこの半世紀足らずのことなのだ。ましてや朝シャンなんぞ、何をか言わんや、なのである。

 そのような状況を考えると、人々にとってかつて温泉がどれほどありがたいものだったかよく分かる。お湯がジャカジャカ湧いてくるのだから。ましてや、それがどうやらフツーの水を沸かすよりカラダに効く(無論、体験的にだけど)のだから。温泉にさまざまな宗教的な謂れや伝承が付いて回るようになったのも頷けるハナシだ。
 言うまでもなくそこにプラシーボ(偽薬)効果があったことは間違いない。何故なら温泉の効能の多くはフツーの風呂に入っても得られるものだからだ。でも、おれはそれを笑えない。いや、笑っちゃいけない。
 地下からの恵みに対する  驚嘆・畏敬・感謝・・・・・・多くの人のそんな思いが、大半は平凡なただのお湯である各地の温泉を守ってきたのだし、お湯のみにとどまらず、宿や温泉寺・温泉神社等の町並みといった周囲のストラクチャーが渾然一体となった情景一切を形作ってきたのだ。

 温泉の湯だけ捉えて「お湯がいい」などとヌかす傲慢さと鈍感さとはつまり、その辺への思いのなさのことだ。

 えらそうに書いたけれど、無論そりゃ〜おれだって今のさまざまな便利にドップリ浸かってしまっているわけで、古の人々の抱いたそれらの感情とまったく同じものを、まったく同じレヴェルで抱くことはもはや不可能ではあろう。

 けれど、少なくとも尊重することくらいはできる。
 下らない属性分類や整理をあえて行わないくらいな分別はある。
 安易に天秤にかけることを躊躇するくらいの恥の感覚はある。

 根が大雑把なので乱暴に一言で換言すれば、「愛することはできる」と言ってもかまわないかも知れない。要は温泉ならばどこだって「お湯がいい」のである。あーだこーだ抜かすのはおこがましい、ってモンだろう。まぁぶっちゃけおれの場合、「お湯はどぉでもいい」に近いのだけれど。
 あ〜あ、しかし、女性に対しても同様に「万婦みな小町なり」などと汎愛することができりゃ、人生もちょっと楽しかったろうなぁ〜(笑)。

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 ともあれ「お湯がいい」とのたまう人たちよ、そぉゆうことを平然と口走るって、愛が欠けてると思うよ。愛が。
2006.11.04
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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