「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
関西本線を行く


セミ時雨が響き渡る夜明け前の加太駅、跨線橋より大阪方向を望む。


 ・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・カナカナ
 ・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・カナカナカナ
 ・・・・・・・・・・・
 カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ

 信じられない数と音量でひぐらしが一斉に鳴き始めた。

 月並みな比喩で申し訳ないけれど、全山が震えるようなカナカナカナカナの大合唱が、薄いテントの生地を通して響き渡る。時計を見るとまだ4時15分。あたりはまだ薄暗く、始発列車までは2時間以上ある。ヤブ蚊と熱気に苦しめられ熟睡できないでいたおれは、何とか我慢してもう少し眠ろうと努力したが、負けた。
 「ぬぐぉ〜っ!」とか何とか、ぶつけようのないイラ立ちをほたえる声に代えて、狭いテントの中、起き上がって胡坐をかく。もう一度横になろうかしばし逡巡。往生際が悪いよな。意を決してテントから這い出し、ウロウロしながら歯を磨いてると、朝もはよから庭に出てる老人と眼が合った。
 おれは努めて笑顔で会釈した。

 無人駅だが加太駅前はちょっとした集落になっている。古い駅らしく駅前は狭く、開業当時に植えられたと思われる樹が一本、高く育った下に、誰が使うのか電話ボックス、色褪せた観光案内の看板が数枚。Z字型に築堤を道が下ったところに、いかめしい作りの旧家が並び、時代離れした雰囲気がある。
 石積みのホームはメチャクチャに長く、10両以上の列車が停まれるだけの余裕がある。さらにポイントまでの距離も大きく取ってあるし、カーブもゆったりして、構内全体が妙にだだっ広い。かつてはそれでも重要な名阪の幹線で、長大な列車が行き来してたからである。しかしホームの、今のステップのない列車に合わせてかさ上げされた長さはせいぜい3両分。駅舎も、窓という窓がすべて戸板で塞がれ、それ以外の余分な建物はすべて撤去され荒地となって、何だか鉱山の跡地みたいな雰囲気だ。抜け殻だ。
 昨夜は暗くてよく分からなかったのだが、駅の裏側は小高い山で一面けっこう深い森になっている。こりゃセミもやかましいはずだわ。

 再びテントに戻り、朝食代わりに「じゃがりこ」を少しかじり、脂ぎった顔をシーブリーズでこすりまくると、おれはノロノロと荷物を撤収し始めた。アタマの芯が熱い。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・まさに酔狂なことだが、おれは帰省するのに、新幹線を名古屋で途中下車し、関西本線を乗り継いで帰ろうと思い立ったのだった。そうして辿り着いた夜中の三重山中の駅前で、テントを張って野宿していたのである。
 最初は「ムーンライト長良」で在来線で帰ってみようと思ってたのだが、さすがに盆だけあって指定席は全席ソールドアウト。普通に新幹線で帰るのもツマランな、と考えててひらめいた・・・・・・おお、関西本線回りがあるやんけ!
 沿線に生まれ育ったおれにとって、幼児期に見た関西本線は実態はともかく関西「本線」であって、何かとてつもなく遠くまでつながってる大きな存在だった。だから関西「線」でも、ましてや愛称の大和路線でもないのだが、恥ずかしながら乗ったことがあるのは大阪側から見て奈良の3つ向うの笠置まで。小学校4年のときだったか、湊町から「柳生号」とかゆうD51の引っ張る臨時列車に乗って行ったように思う。その先は未知の世界なのだった。

 思えばしかし、歴史的に見て関西本線には、最初から不運の影がまとわりついている。私鉄の関西鉄道としての創業期、大阪⇔名古屋間の熾烈な旅客競争で東海道線にも近鉄線にも破れ、国鉄買収後も本線でありながら特急や急行といった優等列車が走ったことは皆無。さらには国鉄民営化の折には、亀山を境にJR東海と西日本に分割されるていたらくである。
 オールドスクールな鉄道マニアは、70年代SL末期、スイッチバックの中在家信号所でのD51の重連、あるいはもっと遡って60年代のC51の集中配備等を懐かしく想い出されるかも知れないが、よく考えればしかし、それらはこの路線が格下の2級線区だった証でもある。
 ところが今はもっとひどい。特に中間部分の加茂⇔亀山間は田舎の盲腸線のような扱いで、もはや完全に取り残された路線だ。すなわち全列車普通、ワンマンの気動車が1両か2両、およそ1時間ヘッドで走るだけの超ローカル線になってしまった。さらには月に一回、土曜日の昼間は列車がなくなる。なのに代行バスもない・・・・・・つまりは誰も乗らないのだ。

 ちなみに何か過去の風景がそのまま残ってることを期待して出向いたわけではない。これまで何度も書いたように、すでに輸送機関としての使命をほとんど終えた現代の亜幹線以下の鉄道風景の荒廃はあまりに無残だし、そこから過去の残滓を拾い集めても、気持ちが荒むだけだ。
 それでも、だ。かつて鉄道雑誌等で見た風景は変わり果ててることが分かっていても、単に一度でいいから乗ってみたい気分になったのだ。いささかマゾヒスティックな心情で。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昨夜、仕事を終え、そのまま私服に着替えてリュックを背負い、18時過ぎ東京発ののぞみに乗り、予定通り名古屋にて在来線に乗り換え。首尾は上出来。
 しかし、折りからの驟雨にダイヤは大幅に乱れており、連絡網も混乱してたのだろう、乗るはずの快速は予定時刻の数分前になって、使う車両が中央線から回せない旨のアナウンスがホームに流れるという有様。不満顔の乗客とともにおれは、ギュウギュウ詰めになった、たった2両の亀山行きの各停に乗り込むしかなかった。

 電化はされてるものの、亀山⇔名古屋間も思ってたよりずっとローカル。三重の臨海工業地帯を通るというのに、列車はそんな長さだし、ほとんど単線。並走する近鉄に完全に客を食われてしまっているのだろう。時折雨がガラス窓に斜めの筋を作っていく。雨の中テントを張るくらいなら、駅の待合室のベンチで寝ようかと思う。結局、終点につく頃には、車内は閑散としていた。

 宿場町である亀山は紀勢本線が分岐する古い交通の要衝で、かつては機関区もある巨大な駅だったのだが、今はショートカットで四日市から津に湾岸部を直行する路線ができた関係ですっかり寂れてしまった。白いペンキで塗られた、古い木造の大きなホームの屋根だけが余計にガランとした印象を与える。何となくおれは、津山の駅を想い出した。

 ここまでの列車が遅れた関係で、亀山から先は最終の伊賀上野止まりに乗るしかない。当初の予定では1本前の加茂行きに乗れるはずで、泊まるのは笠置か月ヶ瀬の駅近くにある川原のキャンプ場、と思ってたが、アテがはずれた。泊まるところをどうしよう。伊賀上野や柘植では駅前が開けすぎてるだろう。加太はどうだ?加太越え、っちゅうたくらいやから山ン中やろう。幸いなことに雨もあがった。

 それでも20人ほどが所在なげに列車を待っている。多くが土産の紙袋を持ってるところからすると帰省客らしい。あとは若干の仕事帰りと、名古屋に遊びに出かけて遅くなったとおぼしき中高生の集団。場違いなのは、おれと白人のカップルくらいだ。
 向かい側に最終の伊勢市行きが入ってきた。たったの一両。ホームは10両どころか15両以上停車できる長さがあるのが侘しい。疎らな客が入れ替わると、すぐにあっけなく列車は折り返して出て行った。

 40分ほど待ったろうか、2両の青いジーゼルが入線してきた。最終の伊賀上野行きだ。名古屋からの列車の到着を待って数分遅れで出発。加太までは2駅、10分少々で到着。降りたのはおれと、地元民らしき初老のオッサンの2人。おれのことを不審そうに振り返りながら、オッサンは駅前に停めてあった軽トラで走り去っていった。そらまぁ、たしかに不審やわな(笑)。

 後はもう寝るしかない。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 6時18分、朝もやの中、始発列車が定刻どおりやってきた。

 山中の単なる錆びた数個のポイントと化した中在家信号所、支線の方がリッパになった柘植、霧にだだっ広い構内がかすむ伊賀上野・・・・・・快調に2両のジーゼルカーは西進し、スッカリ郊外のベッドタウンの趣となった加茂に、特に遅れることもなく滑り込んだ。

 後はもう書かなくてもいいだろう。
2006.08.19
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved