扉温泉は行ったこともないのに、なんだか温泉に興味を最初に抱いた昔から好印象な温泉の一つだった。まず名前がいい。扉、っちゅうだけあって、そこからパーッと一望の景色が開けるような明るく、開放的な雰囲気がある・・・・・・って、名前の響きでだけやんか。
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関西在住時代、松本を起点に行動することが多かった。もっと遡って学生時代の自転車旅行を含めると、おれが信州で宿泊した日数は少なくとも50泊以上になると思うが、そのほとんどの行程のどこかに松本が絡んでいる。
野麦峠のてっぺんで熱出して、フラフラしながらチャリで下ってきたのも松本だった。
早朝の中央道をトバして取りあえずなんか食べようとフツーの蕎麦屋に入ったら、ワサビと小さな鮫皮のおろし金と砂糖壺(ワサビを卸す時に砂糖を少しつけると辛さと香りが増すのだ)が出てきて感激したのも松本。
雨に降り込められて足止めを食って、信州大学の松本寮ってところの座敷でゴロ寝で三日ほどお世話になったことなんかも懐かしい。たしか1泊100円だった。まぁ、学生自治会に占拠されて、いわば無法地帯だったからそんなこともできたのだろう。恐らく今は新々寮化されて、そんな大らかな扱いはなくなってしまってることだろう。
さて、その松本から、美ヶ原の南側の扉峠に向って上がって行く途中にあるこの扉温泉、実際は数軒の旅館が点在するだけの、至って普通の冷鉱泉である。比較的市街地から近いので、宴会等でも賑わっている雰囲気だ。おれは90年代初めに2回訪問しているが、いずれも「湯元・群鷹館」ってところに入らせてもらっている。
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6月、梅雨入り前の信州は最もいいシーズンではないかと思う。爽やかだが、陽射しは夏のそれに近い強さで冷え込むこともなく、何より観光客が減るのがいい。人に煩わされては高原もヘチャチャもあったもんぢゃないからね。
おれの記憶では赤茶色っぽい建物だったような記憶があるのだが、残ってる写真を見ると白い建物(笑)。記憶力には自信があるのに、実際はかなりいい加減なモンだな〜、と思う。内湯にも入った気がするのだけれど、こっちはもうサッパリ覚えていない。男女別だったのかどうかさえ覚えていない。
印象に残ってるのは谷間を見下ろすように作られた石造りの細長い混浴の露天風呂だ。
照り返しのまぶしい中に湯船があって、表面は何枚もの黒い発泡ウレタンで一面覆われている。まるでビード板だ。ここは微温泉で、弱加熱しているため、湯温が下げず、ボイラーの重油代を浮かすための工夫らしい。
まだ時間は10時過ぎ、平日のこんな時間から温泉に入りに来る酔狂なヤツもいないようで、恐らくはおれたちが今日最初の客だったのだろう。隙間なく覆われて浮いてる板を押しのけたり、縁に積み上げたりして、スペースを確保して入湯。
湯は無色透明の全くクセのないもので、ホンマに温泉かいな!?ってモノ。
朝の白い陽光の下、唯一、パイプから注ぎ込まれる湯のジャバジャバいう音が響くだけで、あとはとても静か。鷹は飛んでいない。斜面との境には、菱形に針金をよった薄緑の金網フェンス・・・・・・こうして見ると、全体的に手作りっぽい雰囲気があふれてる。
泉温が低いこともあり、30分ほどと、おれたちにしては比較的長時間入ったけれど、後から客が来ることもなく、ゆっくり信州の高原の湯を満喫できたのだった。
旅館を去るとき、おれは旅館のパンフレットをもらった。よくあるB5を三つ折にしたものに加えて、これまた手作りっぽいピラッとした一色刷りのが一枚。そこには名物のキノコ鍋について、手書きのイラストで詳しく説明されている。たくさんの種類のキノコが入ってるみたいで、キノコ好きのおれには興味津々。
「**茸、出汁が出て美味い」などと、一つづつ入ってるキノコについてのキャプションまで丁寧に書き添えられてる。思わず丹念に読み込んでいくと、次のようなのがあった。
「**茸、あまり美味くない」
・・・・・・そんなら入れんなや(笑)。
誰のエッセイだったか忘れたが、似たような話を読んだことがある。青森かどこかの飲み屋に入ったら、地元の良く分からない料理が黒板に書かれてる。店のオヤジにどんな料理か尋ねていって、興味を惹かれた一品について「これって美味しい?」と尋ねたら、少し悲しそうな表情でうつむいてオッサンは小声で答えるのだ。
----んまぐねっ・・・・・・
ともあれ、おれはますます扉温泉「群鷹館」が好きになった。そして、いつかそのうち泊まってやろうと思ってるうちに10数年が過ぎた。
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残念なことにこの旅館、昨年(平成17年)リニューアルし、すっかり高級旅館に変貌してしまった。300円かそこらで入れた日帰り入湯も受け付けなくなったそうだ。混浴の露天風呂も今は男女別の新しいものに生まれ変わったらしい。だから、これ読んで出かけても、もう記されてあることは何一つ残ってないに違いない。
おそらくは、懇切丁寧、バカ正直に記載されてたキノコ鍋についても、今はそんな風に書かれなくなったのではないかと思う。少し、寂しい。
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