「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
対価なき行為


俗謡はやはり豊かだ。

 ------遊びをせんとや生れけむ
     戯れせんとや生れけん
     遊ぶ子供の声きけば
     我が身さえこそ揺がるれ
     舞え舞え蝸牛
     舞はぬものならば
     馬の子や牛の子に
     蹴させてん踏破せてん
     真に美しく舞うたらば
     華の園まで遊ばせん              (梁塵秘抄)

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 ちょっと前のことになる。新聞だかネットだかにとても興味深い記事が載っていた。

 どっかの大学で多数の人に協力してもらって実験してみたところ、意外な結果が出たのだ。どうやら人間、好きなことをやる場合、金が絡んだ方が「頑張らない」らしいのである。好きなことは無償の取り組みだからこそ一生懸命になるらしい。いや、もちょっと正しく言うと、経験論的にはみんなそのことについては昔から薄々分かってた。そこを脳科学で解明した、っちゅうのが脳だけにミソとかなんとか・・・・・・詳しく記事の内容を読み直そうと思ってネットを探してるんだけど、どうにも見つからない。見間違いではないと思う。

 「へぇ〜、そんなもんなんかな〜」と思いながら自分の常日頃の生活を改めて思い返してみると、なるほど思い当たるフシは多々ある・・・・・・っちゅうかまったくその通りやおまへんか!!と思い知らされた。

 ツラツラ鑑みるに、ギターがまずそうだ。一生懸命練習して上手になってもそれで喰ってけるワケではない。むしろ運動不足で太るわ、無理な指の動きで腱鞘炎になるわ、うるさいから家族から疎んじられるわ・・・・・・とロクなことがない。それでも執念深く続けているのは、金が絡んでないからだろう。
 温泉も最近は私事に忙殺されてちょっと控えめにしてるものの、この20年余り、一般的な趣味の範疇としてはいささか逸脱して行き倒してきた。儲かるどころか一体いくらの金を注ぎ込んだのか、考えるのも恐ろしい。それでもまた暖かくなれば再開するだろう。
 まぁチャリやスノボ、野宿は純粋に趣味だけど、それぞれ無茶苦茶にハマった。そのうちこれまた再開するだろう・・・・・・あ、ゴルフはも一つ一生懸命になれんのぉ〜(笑)。
 増え続ける蔵書は家の中に溢れ返ってる。いらぬ雑学はどんどん溜まるが、それでいい思いも、儲かったことも絶えて無い。オマケに読んで仕事に直結して役立つような書籍は何も無い。それに売ったって二束三文だろう。
 料理も実のところ、玄人までは行かないがちょっとした素人料理屋くらいなら開ける腕前があったりする。段取りも片付けもそぉゆうバイトをいろいろしてたんでそんなに悪くない。しかし、今のおれはただのサラリーマンだ。マイナーな食材を選んで家族から冷たい眼で見られることもままある。悲しい。

 そして何よりこのサイト作りだ。まったく一文の得にも一銭の足しにもならんのに睡眠時間を削り、寸暇を惜しんでまでして、今や肩凝り・目のかすみに高血圧やら眩暈と闘いながらシコシコと執念深く拵え続けてる。ページ数はチャンと数えたことはないけれど、恐らくは千ページに及ばんとしているハズだ。アフィリエイトのバナーをつけることも無く、何一つ身入りの無いままにレンタルサーバ代は毎年1万円くらいはかかってる。まぁ、タバコ代よりは安いだけマシかも知れんな(笑)。

 ・・・・・・これらの対価なき行為の為「だけ」におれは生きてるんだろうか?って気がしてきた。いや、まぁ、一応仕事はチャンとしてんだけどね。

  対価なき行為とはすなわち「遊び」に他ならない。

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 この前、「生き物は生きるために食い、そのために働く」とおれは書いた。あながちどころか、絶対にそれは間違いではない。しかし、人間ちゅうのはそれだけではどぉにもやってけないナンギな生き物でもある。
 人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)」と呼んだ嚆矢は歴史家のホイジンガーだったが、要は遊ばんとやっとれんがな、っちゅうのが人間の本質で、実のところ、社会や政治、組織といったものに不可欠な規範やらルール自体さえもが、実はある種の「遊び」なのだ、ってな主張だったと思う。
 極めて含蓄に富んだ示唆的な考えであるとは思う。思うが、読みようによってはなんとなく「遊び」がいささか矮小化されて、「生きるために食う」という本能に基づく単純明快な回路(あるいは原理)に介在して複雑化させるための方便にしか位置づけられんのではないか?って風にも思えてしまう。
 ラスコーの洞窟壁画だったっけ?ネアンデルタール人だったかクロマニヨン人だったか、その生活は食うのに精一杯で決してラクではなかったと思うけど、それでも住まいの洞窟に躍動感溢れる絵を残した。もちろん絵を描いてもハラは膨れない。あれは狩猟が上手く行きますようにって祈りのカタチなんだってもっともらしい説明があるが、それは正にホイジンガー的な主張である。いや、もっとゆうとプラグマティズムの功利主義の影さえ感じる。でも、果たして本当にそうだったんだろうか?ただもう描きたいから描いた、ってコトは無いのだろうか?とおれは思ってる。

 遊びが往々にしてただの消費、蕩尽、無駄であり、必ずしも生きるための活動の一環としてだけでは括りきれない・・・・・・どころか真逆の方向だって持ちうることもあることは疑うべくもない。今時援用するのはクサくてちょと躊躇われてしまうが、バタイユの「呪われた部分」を持ち出せばたちまち了解できるだろう。労働の再生産とかのケチな了見だけでは遊びは捉え尽くせない。大袈裟に言うと、遊びには人間の暗くて深い闇の部分がある。

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 話題をサイト作りに戻す。

 我ながら呆れるほどの粘り強さで、細々とは申せ継続しているこの作業、ホント、ビタ一文儲からない。対価は一切ない。かといって、これがあるから明日の仕事が頑張れるのさ、ってな類のものでもない。この点で、温泉旅行やスノボ、チャリ、野宿等はレクリエーション的な要素が強い。行けばやっぱストレス解消にはなるし、気分転換、リフレッシュにもなる。大体において、まぁ楽しい。ギターだって美しい曲をマスターして弾けるようになると、こりゃやっぱひじょうに楽しい。所有する愉しみもある。本だマンガだ、も読めば単純に面白くて楽しい。料理は食えば美味い。

 ・・・・・で、サイト作りはどうなんだろ?っちゅうと、これがもぉ実に地味な作業なのである。元々黙々と何かを拵えることは好きだし苦にならない方とはいえ、やっぱしムチャクチャに疲れる。それをここまで続けてきてる原動力は何か?と問われても実は自分でも良く分かってなかったりする。それでも冒頭のエピソードどおり、無償なモンだから一生懸命やってる(笑)。日々のアクセス数が気になり、また励みになった時期も正直あったけど、それも今はもうどぉでも良くなった。

 自己顕示欲の顕現?
 表現行為への衝動?
 抽象の城の王たらんとする歪つな権力欲?
 萎びたアイデンティティの拠り処?
 いささか自己愛の強い自分の記録?

 ・・・・・・これまでもいろいろ考えてはみたものの、どうもも一つシックリ来ない。何か大事なことを忘れてるような気がする。

 こうしてシコシコ拵えつつも、かくも内向的な作業に没頭することは決して自分のメンタリティに良い影響を及ぼさないのではないのか、ってな不安も一方で通奏低音のようにずっとある。おれもいい歳だし、社会人の顔もあって何とかバランス取ってるし、それにあまりにも深刻に自分と向き合うようなことは書いてない(書けない?)から、そこまでひどい自家中毒に陥ることもないとは思うけど、それでも不安は払拭しきれない。

 別にサイトを有料化しようとか、もぉ止めようとか、なんてことはこれっぽっちも思っていない。ただ、対価なき行為、純粋に遊びとしてのサイト作りをこれまで通り勢いに任せてやってるだけではちょとアカンのんとちゃうやろか?って気がするのだ。自分自身が頭打ちになったり、知らんうちにイヤ〜な感情に支配されたり、ってなコワい状況に陥るんぢゃないか、と。

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 解けないエニグマを抱えて、自らが作ってしまった白いページがどこまでも続く荒れ野の真ん中で途方に暮れちゃってるような気分である。ちょっと困った。

 ・・・・・・温泉でも行くかな?(笑)

2011.03.12

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