「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
憂鬱が、止まらない

 ・・・・・・少し、疲れちゃいました。

 いや、画像をチョイスしてキャプション付けたり、書き物したりといった、コンテンツを整備し続けて行くことに、ではない。それらも無論しんどいっちゃぁしんどい作業だが、作ることは大好きなのだし、まずまず時間も何とかやりくりしながらやって行ける。ネタ出しにしたってそうだ。「あ〜、ちょっと今回は流してもたかなぁ〜」とか「ノリもデキもイマイチやったなぁ〜」と反省することはままあれど、おかげさまでネタが出ないことに呻吟して疲れた、なんてことはない。ネタ帖はまだまだある。

 精神的に疲れたのだ。

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 先日、おれのネットの師匠が珍しく弱音を吐いていた。師匠っちゅうてもおれより一回り以上も歳下のうら若き女性なのだが、おそろしく博覧強記で、音楽にしても文芸にしても趣味の傾向がおれとものすごく似ている・・・・・・いや、その膨大な興味の範囲の中におれの好きなジャンルも含まれている、と言った方が正しいかも知れない。つまり、おらぁ量において「負けてる」のだ(笑)。
 ともあれしかし、前説や注釈なしでいきなり色んなゲージュツ談義ができる得がたい存在だ。蛇足で付け加えるならばものすごい美人・・・・・・ってな風に書くと、すぐにあれこれ関係を邪推する人がいるだろうからお断りしとくと、なぁ〜んもないし、何をする気もない。

 そんな彼女は、もう何年も前からサイトを持ってて自作の発表を行っており、多くの訪問客で日々賑わっているらしいのだが、ワケの分からぬファンという名の粘着さんがとにかくしつこいのだという。
 あまりその感情を逆撫でしないように、また、ある程度は期待にも応えるように、とやってきたら、何だか自分のホームページが他人の家の庭のように思えてきてしまったのだという。「自分のサイトへの愛着が薄れちゃいました」と言っていた。なもんで、もう今のはそのまま放置にして、心機一転、まったく違う路線でブログでも始めようかと考えてるそうな。哀しい話だ。

 大層な言い方をさせてもらうと、ホームページっちゅうのは作成者が店主の個人商店、あるいは展示物は自作のみの美術館、あるいは絶対君主制の国家(しかし定住する国民はおらず、100%観光客だけで構成される不思議な国だけど)に近い。なのに時としてそれが、作成者の統制を離れて勝手に動き始めるようなことが起きる。掲示板やブログの炎上のような暴動とか革命に近い直接的なケースもあるし、対外的に不承不承政策転換させられるようなコトもある。しかし実際の日常生活において、商店や美術館で客がブツに不満を持って暴動になったなんて聞かないなぁ〜(笑)。
 問題は、客が今までどおりのコンセプトでやらないと暴れちゃうよ!みたいな状況が絶えずあることだろう。ここに作成者は悩み、苦しみ、色々な妥協と懐柔策を講じながらサイトの運営を続けるのだけれども、どうやら師匠はこの部分で心を砕きすぎちゃったらしい。

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 そこまでおれは繊細ぢゃないし、元々お客さんと交流を持つってこともあまり熱心にしてないので、その辺は割りとノホホンとしている。しかし、それでも時折たまらなくイヤなことがある。
 いやもう、あちこちに広告看板を立ててくださる方がポツポツいるのだ。URLの晒し、って形で。
 決して「紹介」ではない。なぜならそこに「揶揄」や「嘲笑」といった悪意がありありと感じられるからである。それで目下何か別段の実害があったわけではないのだけど、結局、その悪意が何に根ざしてるかと言えば、明治以降の欧米化の中で醸成された生真面目で全体主義的な鬱病体質っちゅうか、常識に盲従しようとする奴隷根性なんぢゃなかろうか?あるいは薄っぺらな価値観のマニュアル人間が増えてきて、事象に対して一意の意味しか捉えることができなくなってるんぢゃなかろうか?って思えて来て、なんともイヤな気分になるのだ。

 たしかにそれなりに腹を据えて始めたことではあったんだから、ナキ入れてちゃだめだ、ってコトは分かってる。それでなくとも温泉がらみのネタはにはいろんな逆風や雑音、誤解といったものがつきまとうし、神経を使うことも多い。それを分かってあえてなお表現活動を始め、そして継続するにはかなりタフな精神力が必要だ、ってコトも分かってる。でも正直、いささかしんどい。
 つい最近も、ちょっとお付き合いのあった温泉系のサイトのいくつかがいきなり閉鎖してしまった。その一つについては、おれのサイトの温泉に関する部分と方向性に共通なものを感じて親近感を抱いてたので、とても残念でならない。ホントの理由は分からないが、想像できることはたくさんあるし、単に忙しくなった、とかそんなんではなかろう。

 何度も言及したが、全ての表現は社会の中で一意であることは不可能で、いつも多義的になってしまう。悲しいことだけど、作り手の意図と享受者の理解は永遠にどこかで噛み合わない、とも言える。つまり、決して伝わらない。ま〜しかし、そのズレがまた新たな価値を生むことだってありうるから、それは悪いことばかりでもないだろうが、大抵は作り手の願っていなかった方向に逸れて行くし、それはやはり面白くない。
 だからその事実に対しておれはムリに抗うことなくやってきた。いくら何でもダサいもんな〜。コンテンツはこんな意図なんだよ!こんな風に読んでほしいんだよ!ってことを鼻の穴膨らませて強力に主張するサイトをたまに見かけるけど、そんなん、表現する側としては絶対やっちゃいけないことだと思って来た。

 さてさて、あらゆる表現の持つ意味はこのように曖昧で、何一つ約束のない関係性の中にあるのだけど、それゆえ同時に、ことネットの世界においてはその回路の中に勝手に介在し、意味にバイアスを掛けることは誰にだって容易に可能だ。そして、それってとてもおっかないことなのに、そのことをちっとも分かってない人があまりに多い。いや、そのような忖度の能力が欠落してるからこそ、平気でやれちゃうのだろう。さらにおっかないことだ。

 そんなことを考えてるうちにおれも疲れてしまった。

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 でもまぁ誰だかよく分からない他人を責めたって仕方ない。それって飲んで国が悪い政治が悪い、ってクダ巻いてるのと大して変わらないもんな。

 そんなふうに考えると、テーマは「自分」だ、とか判じ物みたいなことヌかすだけで、あまりに作り手としてのステートメントを発信しなかったおれにも責任の一端はあるのかな、って気がし始めた。何で発信してこなかったか?っちゅうと、上のような考えがあったことに加え、言葉で可視化することができなかった・・・・・・要は、ただもう自分でも何だか良く分からなかっただけ(笑)なのだが、ようやく最近それが少し見えてきた。雑多なカテゴリーの向うにある共通したことが何だったのかが。
 おそらくそれがこのサイトのアティテュードであり、おれのステートメントなんだろう。

 ちょっと抽象的だし、大上段な感じがして恥ずかしいんだけど、その解は、「生を言祝ぎたい」ってことだ。「寿ぐ」ぢゃない。文字通り「言葉でもって祝う」ことで祈り求めるワケだ。衒うわけでもなく、今は本心で思ってる。

 そう考えると、少し憂鬱が晴れた気がした。

 ・・・・・・以上の話をおれは師匠にもした。何事に対してもいつもは極めて狷介な姿勢を崩さない彼女だが、珍しく素直に同意してくれただけでなく、思い直してサイトを継続する気になったと言ってくれたのだった。

2007.04.01

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