おれには分からない |

公園とかに良く置いてありますよね?

"WORKS"のテストショットより。これらの二つに本質的な違いはない。
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・・・・・・昔からどうしても分からないことがある。端的に言えば以下の通りである。
なぜ公園や役所やホテルのロビーや美術館に置かれた裸婦像はゲージュツであって、猥褻とは見做されないのか?逆に、なぜ生身の人間がハダカでかかる場所に現れたならば、それは猥褻と見做されるのか?
アホなりにツラツラ考えてみる。
●芸術家の「作品」であるからか?
・・・・・・カルチャースクールで俳句を習うジジィの心理構造みたいなモンだ。
●「作品」として記号化されることで、猥褻性のないことが自明のこととしてコンセンサスを得るからか?
・・・・・・まったく理由にならないよね?ジェフ・クーンズの「メイド・イン・ヘヴン」の連作は猥褻だけど立派な作品やんか。
●彫刻となることで簡略化されたり抽象化されるからか?
・・・・・・AVのモザイク処理ぢゃあるまいし。
●ポーズが自然であるからか?
・・・・・・大体に於いて公園とかの彫像はムチャクチャ不自然なカッコしてるけどな。
●リアルに着色されてないからか?
・・・・・・白黒ポルノだってあるぞ。あ、トルソの断面を赤にしたら怖いかも(笑)。
●生々しくないからか?
・・・・・・写実でやってたら多かれ少なかれ生々しいけどな。
●硬いからか?
・・・・・・そらブロンズは硬いが、見ただけぢゃ分からんがな、そんなん。
●毛が生えてないからか?(笑)
・・・・・・剃毛してたらどぉすんねん?
●生き物ではないからか?
・・・・・・生き物みたいに拵えるやんか。ジャコメッティやムーアの作品ならいざ知らず。
●静止して動かないからか?
・・・・・・写真にすればみんな静止してるけどなぁ〜。
●美しいからか?
・・・・・・生身の体の方がよほど美しいわい。
結論を言ってしまうと、実は万人を納得させるだけの合理的な解なんてものはそもそも存在しない。チャンと読んでくださってる方がどれだけいるのかは分からないけれど、このサイトの最初のガイドのところにだって既におれはこう書いている・・・・・・「煽情性に本来絶対的な基準はなく、各個人の帰属する民族・宗教・国家・社会・時代趨勢・家庭環境・趣味嗜好・知的レベル等によって大きな振幅がある」・・・・・・と。もちろんここで言う「煽情性」を「猥褻」と換言しても構わないし、「エロティシズム」と言ったって構わない。いや、「美」と言ったっていい。久米仙人は女の太腿見ただけで神通力を無くしたとも言う。その一方で、ナンギな性癖の人は様々な人体改造を施したり、特殊なシチュエーションを創り出したりしてまでして求める。まぁ、おれにもその傾向は強くあるんだけどね(笑)。
こうしてあらかじめ初めから分かってることなのに、おれはそれでもしつこく問い続けている。恐らくはそれが極私的でゴチャゴチャととりとめのないこのサイトの一つの原動力と通奏低音となっていることは間違いない。
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ではなぜおれはしつこく拘泥しているのだろう?
そこも全然自分の中では整理できていないのだけど、一つには「反感」や「悔しさ」、「怒り」みたいなものがかなり大きくある。どぉゆうことか?っちゅうと、本来的にハダカはただもう美しいものなのに、セクシャリティは生物としても不可欠なものなのに、絶えず官憲や為政者といった権力から絶えず管理・統制され、日陰の存在にされていることに対する気持ちである。「反骨精神」っちゅうほどエラそうなモンでもないが(笑)。とにかく「NON!」とまでは言わないまでも、「ちょっとそれって如何なものですかねぇ」くらいは唱えたいのだ。
・・・・・・って、ここまで述べると、そもそも権力はなぜ性にまつわるあらゆる事柄を管理しようとするのか?という古来からの大きな謎が出て来てしまってドンドンややこしくなってしまう。それらが権力を瓦解させるに足りるだけの危険なパワーを備えていることを、為政者は本能的に看取してるからではないのか?っちゅうのがおれの仮説なんだけど、まぁ、今回は余りにテーマが広がってもワケ分からなくなるのでここはサラッとここまでに止めることにする。
しかしながらおれは思想家や評論家でありたいなんて全然思ってないし、ましてや理論武装して政治的に声高なアジテーションをする気もない。そんなことしてるヒマがあるんなら、拙くてもいいから行為者とか実践者でありたい。これが二つ目だと思う。
音楽聴くよりは作ったり演奏したりする。小説やエッセイ、紀行文読むよりは自分で書いてみる。絵を鑑賞するよりは自分で1枚でも描いてみる。写真集を見るよりは自分で撮って写真集を拵える。映画見るよりは撮影する。食べログの気持ち悪い連中みたいに料理食い歩いて四の五のゴタク並べるよりは、自分で作ってみる・・・・・・要はそぉゆうことだ。その方が絶対に楽しいのである。享受者だけであり続けることができる人に、おれはどうしてもなれないのだ。実体は一介の市井のオッサンに過ぎないんだけど、そんな気持ちが強い。
この点でおれのやってることは、ネット越しに世界に向かって開かれてはいるとはいえ、アール・ブリュとかアウトサイダー・アートに近いのだろう。
三つ目は合理的な解がないということそのものの虜になってる、ってのもあるだろう。カッコよく言えばエニグマをエニグマのまま愉しんでいる。何でもかんでも合理的で明快で詳らかにすれば良いってもんではないのである。
黒沢明だったっけ?バカな記者が映画の発表記者会見か何かの席で「監督がこの映画で訴えたかったメッセージは何ですか?」とかマヌケな質問をしたのに対して、「それが言えたら映画なんて撮ってやせんわ!ボケ!」みたいに返した、っちゅうエピソードがあるんだけど、それにちょと近い。
私はこぉゆう主義主張がありますから、だから結果としてこのような表現行為があります、な〜んて、もぉアホかっちゅう感じがするでしょ?
・・・・・・ウダウダと小難しく書いたけど、ともあれこの拘泥こそがいろんな原動力となってるワケで、これが無くなったら多分もうサイトは続けられないだろうな。
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フリダシに戻る。
何で公衆の面前での銅像等の彫刻はOKで、生身の裸体はアウトなのか?
理由はともかく、そのことを所与のこととして全く信じて疑わないアナタ、ついでに言うと逆にアウトであることに倒錯した悦びを見出すアナタもだ。それって要は幼稚でガサツ、かつクダらない常識に縛られた価値観しか持ち得てないだけだ、ってコトにちったぁ気付くべきなのだろう・・・・・・おれもだけどさ(笑)。 |
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2014.06.09 |
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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