蓮華の彼方 |

蓮華畑の例。今でもあるねんなぁ。
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所用で広島に飛行機で行くことになった。時間の都合で飛行機で行かねばならない。地図で広島空港の場所を調べたら、これがもう市内からメッチャ遠い。こりゃメンドくせぇな〜、と思ってさらに調べると、市の中心部のすぐ近くに「広島西空港」ってーのがあるぢゃないか。ラッキー♪
ところが、時刻表を繰ろうがネットで調べようが、まったく羽田からヒコーキ飛んでへんのよ、これがもう。
改めて調べて分かった。ここはセスナの離着陸するトコなんだな。「空港」っちゅーより、「飛行場」と呼んだほうが正しいのだろう。どうやら昔はこっちが本家「広島空港」でターミナル機能も持っていたみたいなのだが、騒音や拡張性の問題でそれらは現在の市内から遠く離れた辺鄙な三原に移転したのだ。
・・・・・・で、それがタイトルと何の関係があるねん!?と思われるだろうが、今日は蓮華っちゅーても別に抹香臭いハナシではない。前回の続きで、本物の蓮華とヒコーキの話だ。
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平野の南端、長吉長原に団地ができたのが正確にいつ頃なのかは知らない。が、父方の祖母、およびまだ独身の弟や妹たちがそこに移り住んだ当時、建ち並ぶ集合住宅群の壁はまだきれいだったので、おそらくは昭和30年代末から40年代のごく初頭にかけてではないかと思う。
今でこそ地下鉄も通り、一大住宅地として発展した感があるが、当時はけっこう長い時間バスに揺られていった終点で、瓜破(うりわり)の霊園とプールがあるくらい、あとは田んぼが広がるだけのとても寂しいところだったように記憶する。
子供にとって5階建てかなんかの同じような白い箱が整然と並び、芝生が敷かれ、植え込みや、さまざまな原色に塗られた遊具が揃った公園が適宜配された光景は、低いしもた家が雑然と並ぶ自分の町からすると、まったくもって「異界」そのものだった。とりわけそれらの施設の中でよく分からなかったのは、大きなロウソクのような「給水塔」だった。当時は団地の最上階まで水を上げるだけの水圧が水道になかったのか、団地のところどころにニョキニョキと立てられるのが普通だった。
余談だが、多分これがあるのは遅くとも昭和40年代はじめまでにできた公団住宅で、昭和45年前後からこの方式は消滅したように思う。
この給水塔の不思議さ・異様さについてはおれがゴチョゴチョ書くより、はるかにすぐれた名文があるのでそれを紹介しよう。極北の漫画家、ねこぢるy、こと山野一が第2作品集「ヒヤパカ」のあとがきで次のように述べている。
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「・・・・・・あの頃通っていた幼稚園には牧師の先生がいた。先生が語るところによると、神様というのはどっかすごく高いところにいて、常にすべての人の一挙手一投足をごらんになっておられるそうだ。その言葉から私がイメージした神のイメージは給水塔であった。なぜなら幼児だった自分にとって団地は世界の全てであったし、その一番の高みにあって、一切を見下ろしているのは給水塔であったからだ。」
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「ヒヤパカ」初版、1989青林堂 |
・・・・・・マンガでの鬼畜ぶりとは異なり、抑制されたいい文章書くよね。この人。
それはさておき団地は、外観はまるでもってそうした人工都市の趣だったが、一歩中に入ると案外フツーだったのも事実だ。細かい間取りは忘れたが、和室2間に板の間の台所のくっついた、2Kとか2DKってモンだったと思う。
祖母たちの入居したところは建ち並ぶ団地の端っこで、鉄枠の重い3段ガラスの引き戸を開けたベランダからは一面の水田が見渡せた。その向うには生駒の山々も見えた。春ともなると、そこは蓮華畑となり、一面、薄いピンクになった。おれは祖母か母親か、叔母か、あるいは結婚したばかりの叔父の妻か、誰かは忘れたけれど手を引かれて出かけて行き、そんなに取ってどないすんねんな?っちゅーくらい抱えて帰ったことを思い出す。 |
れんげーつもかー、はなつもかー、ことしのれんげはよーぉさーいたー。
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そんなわらべ歌もこの頃聞き覚えたものだ。
まぁ、今年だろうが昨年だろうが翌年だろうが蓮華は結局よく咲くのだったが、その向うでは、ときおり小さな飛行機が離着陸しているのが望まれた。初めて見たときおれは尋ねた。
--------あれは何?
--------あれはな、八尾の飛行場、や。飛行場ゆうたら、飛行機がよぉさん置いたあって、そっから飛んだり降りたりするんや。
--------ふぅ〜ん。
--------***ちゃんもな、大きなってえらなったら飛行機乗れるわ。もっとおっきい、ジェット機、ゆうのん。
パラパラしたエンジン音を響かせたセスナ機は飛び上がるときも何となくフラフラしており、子供心にもいささか頼りなげに見えた。「大きなってもあまり乗りとないな、そのジェット機やらの方が強そうでエエな。」と思ったことだけはハッキリ覚えている。
今は金券ショップに行って株主優待券でもゲットすれば、東京⇔沖縄でも3万円以下で行ける。さらにはどうゆうトリックか知らないが、パック旅行にすれば飛行機代なんてもう、タダ同然だ。しかし当時、「飛行機に乗る」なんてーのは、一部のハイブローな人たちだけができるおそろしく贅沢な所業だった。庶民にとってほとんどの遠距離の移動は過酷な夜行列車に頼らざるをえなかった時代である。
おれは偉くなりはしなかったが、現在、飛行機にはわりとしょっちゅう乗る。全部ジェットだ、エコノミーだ。冷静に考えれば、個人でセスナ機でも所有できて、休日には乗り回せるようになってた方が、よっぽど「偉い人」のような気がする。あの時、セスナ機に乗ることを目指してたらよかったのかもしれない(笑)。
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八尾の飛行場は今でも立派にある。航空測量や鳥瞰写真やなんやで需要はかなり高いようだ。生駒の山もずいぶん家が建て込んだとはいえ、たぶんまだ遠望できるだろう。
しかし肝心の、春にはピンク色に染まる広大な田んぼは、すでに記憶の中だけのものとなってしまった。 |

こんなにデカかったんだ!?八尾の飛行場、って!
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2005.10.28 |
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----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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