「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
徒歩記


修学院離宮前の道、左に行くと赤山禅院(2003撮影)

 今日は地味なハナシでっせ~、と最初に言っちゃう。

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 出かけない休みの日はたいてい、ひたすら居間のPCに向かって、たまってるコンテンツの整備にいそしんでいる。しかし、いくら何でもこれでは運動不足。肩もこるし目もかすむ。しかし、かといって以前のようにテニススクールに通うとか定期的なことを始めると、どうにもそっちのスケジュールに縛られてしまい、自由な旅行に支障が出てしまう。それはそれでかなり気鬱なことで、入院をきっかけに止めてしまった。

 そんなワケでもっぱら現在の運動らしい運動といえば「散歩」くらいのものだ。ジジくさいと我ながら思うが、時間を決めず適当に出かけられるのは都合がいい。

 ただ、そこはやはり一応「運動」なので、かなりの距離をかなりのペースで歩く。コースは大体決まってて、家を出て大きな道路の側の緑道にまで出ると、あとはそれに沿って延々と歩くだけ。一方の端はいきなり道が途切れてるのでそのまま引き返すだけだが、もう一方の端は大きな池になっており、そこをグルッと一周する。
 距離にしてだいたい17~8km、これを3時間半くらいで歩くことにしている。

 緑地の幅が広いために、クルマの騒音も排気ガスもほとんど気にならない。木々はけっこう深く生い茂っているので、真昼でなければ日陰の中を行くことができる。歩道なので車の心配もない。通るのは犬を連れた明らかに年金暮らしの老夫婦や、年齢層・性別はバラバラだがジョギングする人々、トレーニング中の中高生といったところか。

 足早に歩きながら、だんだんおれは色々な考えにふけりだす。これはこれでいいことなのだろう。実はPCの前では何も生まれない。文章は電車に乗ってるときや歩いているときに自然に湧いてくるし、音楽は自転車かスクーターに乗ってるときが一番浮かぶ。それらを忘れないように家に持ち帰って書き写したり、ギターでコピーしたりするだけなのだ。これから音楽コンテンツを増やすために、スクーターでも買おうかな、っと(笑)。

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 思えば、学生時分から金のないヒマなときはよく歩いてた。

 当時、京都の左京区、修学院っちゅーところに下宿してたので、周囲は名所旧跡だらけ。散歩コースに困ることはなかったし、ろくすっぽ大学にも行ってなかったので時間はありあまっていた。知らない人には初耳の地名ばかりだろうが、ちょっと思い出しながらいくつか書き連ねてみよう。

 ・・・・・・雲母坂に沿って上がると、途中から山道に変わったあたりに大きな砂防堰堤がある。ウソかまことか知らないが比叡山中には砂金の採れるところがあると聞いたことがあるが、たしかに花崗岩質でサラサラとした白い砂地ではあった。その上まで登って一休みする。
 堰堤に寄らないで、山道をそのままドンドン上がっていくと2時間ちょっとで比叡山上遊園地に出るのだが、これだと半日以上かかってしまう。今思えばショボい遊園地だったが、お化け屋敷だけはマジで怖かった。何年か前、女子大生が雲水姿の男に暴行されて殺される、なんちゅー中上健次の小説にありそうな陰惨な事件が起きたのもこの山道だったような気がする。

 少し引き返して下って田んぼの中を南下すると、タケダ薬品の薬草園や、幽霊の掛け軸で有名な門跡、曼珠院に出る。このあたりは修学院離宮の借景となっているためか、古い景色が良く残っていた。そこから山際に沿って詩仙堂を過ぎ、宮本武蔵で有名な一乗寺下がり松、興が乗ったときは逆に再び山に上がり「ポンポコ山」こと狸谷山のお寺に向かうこともあったが、通常は白川通を渡り一乗寺の商店街に入る。

 オールドタイマーには懐かしい映画館「京一会館」や、JBLの巨大なスピーカー・パラゴンが自慢のジャズ喫茶「ダウンホーム」は、大学に入って最初の数年間は残っていたと思う。マンガの品揃えで有名だった古書店「石川古本店」、新刊本の本屋(・・・・・・名前忘れたなぁ~)なんてーのは今でもあるんだろうか?
 とは申せ、いかにも学生の町といった雰囲気の一乗寺商店街に、おれは何だか最後まであまり馴染めなかった。

 一乗寺の商店街を抜けると東大路。といっても高野より北なので「大路」とは名ばかりの小さな交差点だ。角に今や京都を代表する名店となったラーメン「天々有」がある。美味いのだが、何だかいつ行ってもスープはぬるかった。それが特長だったのかもしれない。
 そのまま東大路を北上するか、あるいは川端通に出て高野側沿いに上がるか、いずれにせよ最後は叡電・修学院駅に出るとあとはアーケードをくぐり抜け、再び雲母坂に沿ってダラダラ登っていくだけだ。
 そういやVIPの京都訪問前とかになると、夜中など、よく皇宮警察が警邏巡回してたことも思い出す。彼等はもっぱら新左翼によるテロを警戒してるので、酔っ払った学生がスクーターで夜中に走っていても、呼び止められたことはついぞなかった(笑)。

 逆に北に向かうことも多かった。

 ・・・・・・離宮前を左に曲がると数軒の店が固まっていて、夏の暑い日などそこの酒屋でビール買ったり、肉屋でコロッケ買ったりする。そしてまずはそのまま赤山禅院に向かう。境内には、おとなしいが黙ってそのままズボンに噛み付いてくるチャウチャウ犬がいた。そぉいや最近、とんと見なくなったな、チャウチャウ犬って。ここでは千日回峰で有名な酒井ナントカってエラい坊さんが護摩焚いてるのを見たこともあった。国際マラソンにでも出て欲しい、と思ったものだ。

 元の道に引き返して坂を登りつめたところが、小さな切り通しの通称「桧峠」。右側が墓地になってて、そこには堂守なのか墓守なのか、あるいははたまた単なるマーリィ君なのか、「修学院のジュリー」とアダ名される浮浪者然としたジジィがいた。無論、このアダ名が当時有名だったレゲエのオッサン、「河原町のジュリー」にちなむものなのは言うまでもない。ま、どちらもそのうち亡くなった、って噂を聞いたけど。
 ああ、そういえばたしかローザ・ルクセンブルグの曲に、この「河原町のジュリー」のことを歌った曲があった。ボーカルのクドミも亡くなってずいぶん経つな。

 瓶ビールをラッパ飲みしてると、大体この辺からいい気分に回ってくる。炎天下を歩きながらの瓶ビールは最高に美味い。坂を山ひだに沿って下りながら行くと、道は大原街道の対岸沿いの山道に変わり、それでもドンドン行くと、今はもう廃止されてしまった八瀬遊園の奥に出る。当時から何だか寂れた感じのところではあった。
 そうは言うものの八瀬は、ちょっと奥座敷の温泉地のような雰囲気があっておれは好きだった。小さな終着駅があり、そこからさらに比叡山に登るケーブルカーが出ている。川沿いにサウナの一種である「かまぶろ」で有名な、「喜鶴亭」っちゅー古風で小粋な旅館があったりもする。初夏には蛍見物までできたのだから、水もそれなりにきれいだったのだろう。

 そのまま街道沿いに引き返す。川には古い、小さな木橋がかかっていた。当時でもめったに見ることのないほど古風なこの橋で、悪友のS年は、すでに白虎社で舞踏家の道を歩み始めてたKと、何だかシュールな8mmを撮ったハズだ。
 鳩がたくさん飼われる三宅八幡を抜け、花折橋からラブホテルの裏を抜けて川端通を行くと、麦とろで有名な「山端平八」がある。与謝蕪村の句集にも詠われた、ってーのが自慢の超老舗だ。今はどうか知らないが、昼など意外に比較的リーズナブルな金額で、朱塗りの二段重ねの箱に入った小洒落た弁当を、川に面した座敷でユックリ食えた。金回りのいいとき何度か行ったことがある。たとえ安い客でも、必ずキチンと女将が表まで送りにくるところに老舗の矜持が感じられるいい店だった。
 ちなみに無論、オンナの子連れてだったけどね。誰が一人で行くかぁ!(笑)。

 もう修学院の駅は目の前。北山通りとの角には「龍昇」ってラーメン屋があって、ジーサンと息子でやっていた。決してまずくはなかったけど美味くもなく、夜、飲んだ後の最終候補、ってカンジで行ってたのが、そのうち廃業してしまった。

 ・・・・・・松ヶ崎街道沿いに西に行くこともあった。その頃はまだ北山通は全通しておらず、田んぼの中にとぎれとぎれに幅広い道路が建設中で、その少し北側、大文字送り火の「妙法」の字の下あたりの住宅街を行くのだ。狐坂、宝ヶ池、国際会議場、深泥池、教習所・・・・・・。

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 ・・・・・・ずいぶん家の近くにまで戻って来ている。今日はヨメと買い物の約束があって、ここからさらに2kmほど離れた駅前で落ち合う予定だ。おれは散歩道をはずれ、住宅街ののっぺりとして日陰のない、ゆるい坂道を登り始めた。


あまりにも知らん人には分からんと思うので・・・・・・

http://www.yahoo.co.jp/より
2005.10.03

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