「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
トロリーバスとケガの記憶



あるいはおれもこの車両に乗ったことがあるかも知れない。

Wikipediaより

 昔々、大阪市内にはトロリーバスってのが走ってた。

 道路の上をタイヤで走るから、まぁ自動車の一種ぢゃないかって思ってんだけど、電車のように架線から集電して走る、何だかチンチン電車とバスの合いの子みたいな、マコトに中途半端っちゅうか不思議な乗り物である(※1)。当然ながら架線からポールが外れたら動けなくなるので、決まったレーンをハミ出さないようにキッチリと走らないといけない、っちゅうのが何とも融通が利かず奇妙だ。いっそレールの上の方がハンドルに気を遣わずに済むだろうに。
 そんな中途半端で摩訶不思議な公共交通機関、モータリゼーションが急速に進む中で生き残れるワケもなく、富田林に引っ越す時分には廃止されてたように思う。ニワカで調べてみたら、全廃は1970年とあったんで概ねおれの記憶は間違ってなかったようだ。本当にあの頃の大阪って、ものすごい勢いで変貌を遂げつつあった。

 何となく、社会主義の国でトロリーバスは沢山走ってる印象がある、っちゅうたら偏見だろうか。気になってこれも調べてみたところ、実際、ソ連時代のモスクワは一大トロリーバス天国だったみたいである。路線距離の総延長が千キロ越えてたってんだからガイなこっちゃね。また、平壌とか北京では未だに現役みたいなんで、おれの抱いた感覚はまぁあながち間違いでもないんだろう。

 ・・・・・・今日はそんなトロリーバスについての本当に極私的な想い出バナシだ。

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 おれの中でトロリーバスの記憶はケガと切っても切り離せない関係にあったりする・・・・・・って、知らん人にはサッパリなんのこっちゃ分からんだろうね、スンマヘン(笑)。

 いや、何を隠そうガキの頃、今以上にオッチョコチョイで向こう見ずだったおれは、病弱なクセにちょっと具合が良くなるとジッとしておれなくて、それでしょっちゅう派手なケガしてた。とにかくジッとしておれんのだ。現在なら多動症の診断を下されてたかも知れない。
 チョーシ乗って家の中で走ってコケて、デコラのおでんの角にしたたかデコをぶつけて大出血したり、五軒長屋の隣の空地に積まれた砂利の山に強引に三輪車で登ろうとして、、幼児ゆえの頭デッカチでカンタンにウイリーして後ろに引っくり返って後頭部をスッパリ切ってこれまた大出血したり、経緯は忘れたけど目じりのとこら辺から頬っぺたに掛けてベロンとズル剥けになるくらいやらかしたり・・・・・・と、とにかく生傷が絶えなかったらしい。
 何でもかんでも3倍以上に大袈裟に話を盛りまくって話す(・・・・・・それこそが今から思えば、晩年の双極性障害の前駆症状だったのかも知れない)母親だったとはいえ、事実、この歳になった今でも薄っすら傷やらハゲが残ってんだから、起こったことはさほど間違っちゃなかったと思う。親も親なら子も子で、いささかメンタルに問題抱えた、ホンマに落ち着きのない手間の掛かるガキだったワケだ。

 そんな時、大慌てで流血の応急処置だけして母親に連れてかれたのが、今里通と勝山通の大池橋(・・・・・・「オイケバシ」って呼んでたっけ)交差点を西に入ったトコに今でもある、「アエバ」っちゅう外科の病院だった。母親が血相変えて「アエバさん連れて行かんと~!」とか言ってたので、激痛に大泣きしつつもいつしか憶えてしまったのである。漢字でどぉ書くのか子供だったおれには到底知りようもないし、こうして何でも容易に調べられる時代になった今も、公式サイト見たら「アエバ会アエバ外科病院」ってカタカナ表記だったりする(笑)。これ書くに当たって、もちょっと深掘りしてようやく初めて「饗場」が正解と知った次第だ。ついでに言うとGoogleでの評価がけっこう低いことも知ってしまったのだが・・・・・・いや、外科系の大病院って、基本「来るもの拒まず」が多いからどうしても評価は低くなりがちなんだろうね。京都の相馬病院なんかもそうだもん。

 話が脱線した・・・・・・いや、話がトロリーバスだから車線を外れてしまった。そんなアエバさんに行くのに東部市場の通り挟んだ向かいあたりから出てたトロリーバスに乗ってったのだった。恐らく当時は、それなりに規模が大きくてすぐに処置してくれるような外科病院ってのが、近隣ではそこくらいしかなかったんだろうと思う。
 交通手段が徒歩や自転車、タクシーではなかったことは確かだろう。何故なら徒歩では遠すぎるし、そもそも母親は自転車に乗れなかったし家にもなかった。また、タクシーに乗るほどの経済的余裕は我が家にはとても無かった。救急車呼べばエエんちゃうん?って意見もありそうだけど、何となく昔って、救急車を呼ぶのはちょっと恥って感覚がどこの家にもあったような気がする。そもそも救急車に乗れようモンならおらぁ絶対もぉ、痛さも忘れてワクワクして深く脳裏に刻まれるに決まってるしね(笑)。

 ・・・・・・なぁ~んてエラそうに書いてみたが、実際はあんまし正確には憶えていない。そらそうだ、戻る時はともかく行く時は痛さで大泣きしてんだから。ひょっとしたケガした当初は、町工場してて当時としては珍しく家にクルマがあった田島に住む祖父に頼んで最初は送ってもらって、その帰りとか後からの通院にだけトロリーバス乗ってったのかも知れない。今は既に関係者全員が鬼籍に入ってしまい、最早確かめようもないけど。

 おれが憶えてるトロリーバスの特徴としては、まず第一に方向指示器が古めかしくて、30cm程の棒がピョコンと倒れて横に飛び出すものだったってコトだ。ウィンカーがパカパカ点滅してたかどうかは定かでない。下に倒れたのか上に持ち上がったのかも、その棒が何色してたのかももう忘れた・・・・・・んん~、ひょっとしたら市バスが全部そんな仕様だったかも知れないが。
 細かいコトはさておき、おれにはそんな方向指示器がとても怖いモノに思えて仕方なかった・・・・・・っちゅうのも、家にあって飽きず毎日眺めて模写までしてた、妖怪とかお化けの図鑑(?)に載ってるカラカサだか提灯だかのお化けの、ペロンと飛び出した赤い舌を連想させられたからだ。我ながら子供の想像力ってイカれてブッ飛んでると思うし、その頃からどこかフツーぢゃない異形のモノにミョーに惹かれてたんだな(笑)。
 次にその方向転換である。杭全町は終点なんだけど、着いたトロリーバスは乗客降ろすとそのまま前に走ってって鉄道レイアウトのリバース線のようにグルーッと大回りで元の停留所に戻って来るのだ。そらまぁターンテーブルがあるワケでもなく架線から集電してるのだから、理屈で考えれば当然そうするしかないとはいえ、幼かったおれにはそれが何だかとても大仰で、ムダっちゅうよりはどこか厳粛な儀式めいたコトのように見えて仕方なかった。
 3つ目は異常なまでに長いポールの長さだ。ビヨ~ンと車体の遥か後方にまで、長さでは車体長と変わらないようなポールがご丁寧に二本も付き出している。電車ならひし形のパンタグラフ、チンチン電車だと布団叩きみたいなビューゲルが付いてるが、どれもそこまで車体に対してアンバランスに大きなサイズではない。変なところで知識量が豊富だったおれ的には、例えば新幹線や、当時は最先端だった赤い交流電気機関車といった近代的なヤツほどパンタグラフが小さいってコトを知ってたから、まるで釣竿でも背負ったようなその姿は何とも古めかしいものに思えたのだ。

 一方で車内の様子についてはサッパリ憶えていない。おそらく普通のバスと大差なく、あまりこれといった特徴が無かったんだと思う。速かったのか遅かったのか、あるいは音がうるさかったとか静かだったとかも憶えてない。包帯でアタマをグルグル巻きにされ小さなブリキの爪みたいなんで端っこ留められ、母親のクドクドとエンドレスで続くおれの落ち着きの無さについてのボヤキも上の空で、ただただ車内の左前の方に陣取って飽きず方向指示器が出るのを怖いもの見たさに待ってただけだ・・・・・・ハハ、提灯オバケの舌が出て来るのを待ちわびるちっこいミイラ男みたいな図だな(笑)。

 ・・・・・・気付けばもう半世紀以上も前の話だ。当時の面影を伝えるストラクチャーなんてもぉ何一つ残ってないだろう。

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 トロリーバスは、おれの記憶の中では何とも古臭い印象の乗り物だった。しかしそれが大きなカン違いだったってコトを、改めてこうして纏めようとして初めて知った。その時は知る由もなかったが、大阪のトロリーバスの登場は戦後も一息ついた昭和28年、都市公共交通網を手っ取り早く整備するための、むしろひじょうに斬新かつ合理的な乗り物だったのである・・・・・・予想以上に発展のペースが速くて、結果的にその目論みは外れたけれど。
 そして全廃は上述の通り、大阪どころか日本全体が万博に沸き返る昭和45年だから、実態としては最も長らえたトコでも20年足らずしか存在しなかった計算になる。正に戦後復興の徒花のような存在だったと言えるだろう。こうして採り上げた杭全町に至っては、開業が昭和37年とある。何とまぁ僅か8年ほどの儚い命だった。北海道のローカル線なんかよりよほど短命だ。何の巡り合わせかお導きか、その短い期間にたまたまおれは居合わせてただけなのである。

 さらに告白すると、実はあのトロリーバスがグルッと大回りする終点が「杭全町」って名前だったってコトさえも、今稿を記すに当たって初めて知った。今の今までおらぁてっきりあそこは「百済」だと思い込んでしまってた。何故なら道路の向かいは「クダラのソウシャジョウ」(※2)だったし、そもそも幼かったおれにとっての杭全町の領域なんてのは現実より遥かにもっと狭くて、小学校の隣の自分の家の近所だけであり、関西線の向こう側あたりなんてもぉ全部「百済」、そいでもってその先が「田島」だったからである。いやもぉ百済っちゅうくらいやから海の向こうの異界・異境の地やね。ヒーザン・アースやで(笑)。そんなトコにポツッとオアシスあるいは離れ小島のようにジーチャン・バーチャンの家がある・・・・・・みたいな。ガキの世界観なんて所詮そんなんだろう。

 そうしてツラツラ考えくと、こまっしゃくれてたとは申せ年端も行かぬガキだったおれにとって、あのトロリーバスは、摩訶不思議でありながら、同時に何処か不安と不気味さを漂わせたちょっと怪しい乗り物だったように思えて来る。だってそんな異界のさらに彼方にあって、ケガを治すなんちゅう、太古の昔で言えば呪術師みたいな奇蹟の技を操るトコまで運んでってくれるのだから。
 これ以上書くといささかあざとくもクドいことを承知の上で敢えて書くならば、それは宮崎駿の「千と千尋の神隠し」、あの中で描かれた海の中を行く古いガソリンカーだか電車だかのイメージにかなり通底している。

 現在、国内に残るトロリーバスは唯一、黒部~立山アルペンルート途中のトンネル部分を走るヤツだけになったらしい。しかし、これさえも間もなく(※3)普通のEVバスに置き換えられるとのことだ。そうして日本からトロリーバスは完全に消える。少し寂しい。



※1:正式には「無軌条電車」と言って電車の一種らしいが、適用法規は鉄道・バス両方みたいで、これも衰退の一因らしい。
※2:本当は「百済貨物駅」なんだけど、そんな風に親が言ってたのだ。
※3:2024年12月の冬季運休開始まで。また、トロリーバスの運行開始は1996年と平成になってからだった。


今も盛業中のアエバ病院。昔は本当にお世話になりました。

https://www.doctor-map.info/より

2024.04.25

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