・・・・・・「主」は「ぬし」ではない、「あるじ」だ、マスターだ。
サイトを始めたワリと初期の頃にネタの俎上に上げた、様々な自称・他称のアーティスト、あるいは奇人・変人・怪人ばかりが集う、神社の参道脇にあった小さな喫茶店・「U」のマスターが先日、亡くなられたとの知らせが友人より届いた。
決して大袈裟ではなく、学生時代の相当多大な時間をおれは、鎮守の森を挟んで下宿の裏手にあったその店でウダウダ過ごすのに費やしてた。
おれに負けず劣らずあらゆることにシニカルな彼が文末で、珍しくガラにもなく「なんかこれで僕らの青春が本当に終わったんやなぁ」などと綴ってたが、たしかにあの頃、修学院に暮らすハズレ者ばかりなおれたちにとってあの店は、何ともくつろげる場所だったように思うし、そこで色々な人々と出会い、色々なコトを学んだのは間違いない・・・・・・ってまぁ、青春が終わるもクソも、おれたち自身が還暦に近付き、鬼籍に入る日も迫ってんだろうけどな(笑)。
そうだ、日参してた頃から、もう40年近くが過ぎたのだ。なるほど盛者必滅・会者定離は人の定めとは申せ、やはりとても寂しく悲しい。
今日はマスター・Tさんへの、いわばおれなりの拙い弔辞として、あの時代のあの空間、あの空気、そして氏の人となりについて少しでも書き留められたらと思う。いささかセンチメンタルで極私的な想い出話に終始するコトはどうかお許しいただい。
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引戸のドアを開けるとぶら下げられたカウベルがカランコロン鳴り、店の奥から「いらっしゃい」と太い声が響く。声とは裏腹にとても小柄で痩せぎすのマスターは、カウンターの一番奥の席で本を読んでいたみたいだ。そこがお客がいない時の指定席だった。当時何歳くらいだったんだろう?多分、40台半ばくらいだったと思うけど、ロン毛がそのままザビエルになった、っちゅうか落ち武者がラリーズに加入したような独得のヘアスタイルに、柔和な笑みを絶やさぬ一方で太い眉や高い頬骨、角ばった顎の線、時折見せる鋭い眼差しが強靭な意思を感じさせる。どことなく仙人とか修行僧、山伏にでも居そうな風貌だ。
昼下がりの店は相変わらず今日もヒマで、どうやらおれが本日最初の客のようである。
入ってすぐ右の壁には鏡、その下には「阿呆船」のポスター、左に広がる店内は元は戸建ての小さな庭だったトコに増築しただけだからさほど広くはなく、詰めたら6人ほどが何とか座れる一枚板のテーブルが3つ、あとは椅子が5つ並ぶこれまた分厚い一枚板の低いカウンターがあるだけだ。
カウンターの上には大きなガラスの広口瓶が2つあって、ホントたま~に仕込まれるグレノーラが入れられる。カウンターの裏は三角のスペースの小さなキッチンになっており、大昔の揚水ポンプみたいな形をしたコーヒーミルやら、これまた稀に焼かれるパンのためのオーブンなんかが置かれてある。たしかカレーのご飯よそったり、ピラフ炒めるのなんかはさらに奥に入った自宅の台所でやってた。コンロあるし、ジャー置くくらいのスペースもあるのにワザワザそうしていったん奥に引っ込んでやってたのは、マスターなりの拘りで、おそらくは店内にあんまし生活感を出したくなかったんぢゃないかと思う。米炊く匂いって喫茶店には馴染まんモンね。
壁や天井には麿赤児や大駱駝艦、白虎社といった暗黒舞踏系のポスターが何枚か貼られてある。どっから手に入れたのかフランスのガリマール書店のなんかもあった。あまり貼り替えられることはなく、誰かが手土産に持ってきて貼って、マスターがデザイン的に気に入ったらそのままになってるってな風だった。
奥の隅っこには人の背丈近くまで平積みのままで、崩れそうになりながら危ういバランスを保つ本やらカセット、そして帆布の茶色いケースに仕舞われた巨大なウッドベースが立て掛けられてる。別にマスターのモノではない。何年か前に店でライヴやった時にジャズミュージシャンが置いてって、以来そのままってコトだった。「ジャマなんやけど取りに来るゆうてたしな。どぉなったんやろな?」ってマスターは笑ってた。結局これが開けられたトコをついぞ誰も見たことがない。
煙草の匂いが染み付いてるのは、来る客にヘビースモーカーが多かったからってのは当然として、マスター自身も相当で、「やっぱりなぁ、これがイチバン旨い」とか言いながら、両切りのショートピースをいつも吸ってた・・・・・・あぁ、たまに「ゴールデンバット」や「しんせい」の時もあったな。
こうして書いてくと何だかもぉメチャクチャどよ~んと暗くて敷居が高く排他的で、如何にも60~70年代を引きずったアングラな店を想像されてしまうかもしれないが、実際は南側と西側の二面が広い窓になっており、ヤニでいささか赤茶けてるとは申せ店内はテーブルから床から柱から窓枠から全てホワイトメイプルとかシカモアみたいな白木のカントリー調っちゅうか北欧調っちゅうか、当時の流行りな言い方をするととてもウッディで明るかったし、什器類はじめ店内の照明や窓の縁に置かれた壺や小物類のセンスは女性的と言って良いほどに繊細で瀟洒なモノばかりだった。
そしてそんな雰囲気より何より、独得の風貌と語り口で、いつもニコニコして不思議な愛嬌のあるマスターの人柄で、決して入りにくい店ではなかった。むしろ、おれも含めて集う常連客の方が観光客等の一見さんの遠ざけかねない怪しさだったな・・・・・・営業妨害になってスンマセンでした!!当時はまだ、アンノン族みたいな女の子同士の観光客がケッコーいた時代なのにねぇ。
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メニューはとてもシンプルで、大体今でも諳んじることが出来る。
飲み物はコーヒー・紅茶・牛乳・コーラフロート・クリームソーダ、食べ物はカレー・カレーピラフ・ピラフ、明太とエダムチーズ、蜂蜜と何か、何だったか忘れたがジャムの3種類から選ぶトースト、そしてグレノーラ・・・・・・せいぜいそんなモンだった。だって小さなメニュー立ての裏表に、かなりスカスカで全部載せられるくらいだったのだから。
だが、殆どの客は飲み物は大体がコーヒーかたまに暑い日はフロート類、食べ物はカレーしか頼まないし、そもそもトーストとグレノーラなんて大体いつも品切れで、あることの方が珍しかった記憶がある。
カレーはとにかく美味かった。そしてハラペーニョだハバネロだトリニダード・スコルピオだ・・・・・・と現代のようにモンスター級の激辛が溢れる時代以前だったとは申せ、かなりエクストリームな辛口だった。だから小さい子連れで初めてのお客さんが来てカレー頼んだりすると、マスターはいちいち丁寧に「ウチ、ものすごい辛いけど大丈夫?」な~んて確認するのだ。しかし辛さって、耐性の個人差が激しいから程度を説明するのはむつかしい。イケるだろう、って踏んで泣いてる子、逆に諦めて別のを頼んだけど、おとーちゃんのを一口貰ってもケロッとしてる子・・・・・・結局は食わんと分からん。
これだけは良く出るから、週イチくらいのペースで巨大な寸胴鍋に仕込んでた記憶がある。そして他のは奥に引っ込んで作るけど、カレーについては家の奥ではなく、カウンターの向こう側の小さなキッチンで拵えるのだった。まぁ、家の中にカレーの匂いが染み込むのがイヤだったんだと思う。しょっちゅう作ってるとだんだん家の中がインド料理屋みたいになって来るもんね。
藍色の絵付けで大きく魚の描かれた深皿で供されるその味は、何かスゴい隠し味があるとかそんなんではない。逆に引き算しまくって作られたような極端にソリッドでシャープな味だった。マスターも「そんな変わったモンは全然入れてへんよ。あと僕な、豚も鶏も嫌いで食えへんから、旨味は牛だけや」とのコトだった。具材にしたってシンプルの極みで、角切りの牛、乱切りのニンジン、タマネギの三種だけ。「ジャガイモは入れんのですか?」って訊いたら、戦後の食糧難の頃にウンザリするほど毎日ジャガイモ食わされて、それでスッカリ嫌いになったんで入れない、なんて言ってたな。
使うカレー粉は大昔からあるナイル商会の黄色い缶に入った「インデラ・カレー」ってヤツのバルク品。それには小さなブックレットが付いてて基本レシピが載ってんだけど、マスターによれば大体それに近い・・・・・・ってーかもっとカンタンや、なんて言う。事実チャツネやギ―なんて使ってなかったし、タマネギも小さめの櫛型に切ったのを軽く炒めるだけで、そんな飴色になるまでジックリと・・・・・・なんてはやってなかった。ただ、ナイルのレシピに従ってレモンの輪切りは必ず浮かべられてた。
・・・・・・なのにその味は未だに再現しようとしてもできない。
コーヒーの淹れ方も他に類例のない、鍋に湯を沸かして挽いたコーヒーを入れてすぐ火を止め、ペーパーで濾す、ってやり方だった。ワケを訊くと、「僕なぁ、この淹れ方しか知らんのんや」とトボける。ともあれそうして作られたコーヒーは小さなホーローのポットに注がれて供されるのだが、たっぷりカップ3杯分くらいあるんで、メチャクチャお得っちゃお得だ。そんなんだからいつも金のない怪しい連中はコーヒーだけで粘ってたのだ(笑)。
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思えば、フワーッとトボけるのはもぉマスターの名人級の芸風だったと言える。
断片的に聴かされた話に多分ウソやハッタリはなかった。ただ、何ともブッ飛んでてニワカに信じがたいだけだ。それらを総合すると、この人がいっちゃんの怪人ちゃうんか?って思えてくるような疾風怒濤・徒手空拳の半生である。
総合すると要するにそもそもの出発点は大学に進んだ京都で、60年代の第一次安保闘争の時代の闘士・・・・・・それも一兵卒ではない立場になったことから始まる。そっから多分70年代初頭あたりまでケッコー永きに亘ってあれこれやってたみたいだ。まぁ当然ながらチョコッとはパクられたりして、警察の御厄介にもなったらしい。そんなんでワリ割と早くから裏方に回って、数年後、ブイブイ言わすアニキの背中を追うように京都に進学した弟さんがフロントマンとして活躍された。その内容を具体的に書くのは止めとく。
その後、挫折したか失望したかは聞いてないが、こうした運動からは距離を置きつつも、そこで培われた幅広い人脈と元々の明晰な頭脳を活かして、少々どころかちょとヤバい・・・・・・そして、これまでとは真逆の極道系の世界なんかとも繋がりながら、やはり裏方に徹して、一種のフィクサーとかコーディネーターみたいなことをやってらしたようだ。転向左翼は強いのである。
最近、日本の労働運動には、暴対法で締め付けられてシノギの無くなった極道連中が次々参入して来てんだけど、このいわば「左右のコラボ」は間違いなくメチャクチャ強い。そんな冷徹なビジネスのハシリみたいなコトもしてた人だったワケだ。おそらく端的に言って専門分野は一種の「乗っ取り屋」だったんぢゃないかと思う。法律のキワキワを衝くような。
そんなんでごく稀に突然怖いコトをいつもの飄々とした調子で話し出す時があった。まぁもぉエエ加減時効だろうが、いきなりトラック数台で夜中にどこぞの会社に乗り付けて全部荷物を運び出したとか、***(←ヤクザの組)は絶対に約束守るから信頼できるけど、***はちょっと信用ならんねんとか、とある会社閉めるのに最後、吉田山荘貸切で打ち上げやったけど、トイレが広すぎて落ち着かんかったとか、若い女の子にしばらく風呂入らせへんかったら、男と違うてこれがもぉエエ匂いするんやとか、僕、恐いし帰ったから後どぉなったかは知らんけどなぁとか・・・・・・(笑)。
事実、誰が見たってあまり流行ってるとは言えない喫茶店経営だけでそんなマトモに食ってけるワケがない。それでなくても病気がちで臥せってる奥さんと育ち盛りの子供さんがいるのだ。
恐らくはそうして過去に介入した会社で非常勤顧問とか相談役ってなポストにちゃっかり収まって、しかし特段何もすることなく、やんわりと睨みだけは利かせて月々の報酬を別に得てたんだろう。「僕、一応会社員なんやで。月給もちょっとやけど貰ってる」なんてコトもボソッと話されたことがある・・・・・・誰一人として会社に行ってる姿なんて見たことないのに(笑)。
一言で言うと「したたかな世捨て人」だったと言えるかもしれない。
そんなマスターだったけど、「祭りの場を創り出す」みたいなことをよく話されてた。当時は何でそんなそこに拘りがあるのか分からなかったが、今は少しだけ分かる気がする・・・・・・いやまぁ、完全におれのアテ推量なんだけどね。
直接的で性急すぎた政治闘争としての新左翼運動の限界、その後の極左や珍左翼への醜怪な変質の流れをコアな当事者として体験して得られた結論なのか、それともただ唯一残された方向性だったのかは分からない。しかし、60年代末から京都で始まる、それまでの学生運動からは少し離れた、イベントっちゃぁただのイベント、一種の「解放区を作ろうぜ!」的なお祭り騒ぎを次々ブチ上げる流れを冷静に調べ直してみると、あの人の考えはワリと一貫してたのだ。
そんなんだからか、おれを含め色んな連中がやろうとしてるどれだけアホでアオ臭いライヴやらイベントについて聞かされても、「お~、それエエね!」とか「う~ん、それおもろそうやね!」と子供のように目を輝かせて相槌を打ってくれてたんだろう。
ある日、おれがバイト先だか旅先での話だかしてて言われたことを想い出す。「R**クンのハナシ聞いてるとなんかこぉ、誰もが見てるハズの世界やのに全然違う異界が浮かび上がって来るみたいなカンジがあるねぇ。日常が日常で無くなるような面白さがあってエエわぁ」・・・・・・アホなおれはそん時はタンジュンに、自分に一種のストーリーテラーとしての才能があるのかな?なんて嬉しくなっちゃったのだが、今なら分かる。あの人の考えていた一種の異日常としての「祭りの場」みたいなのに、たまたまおれの語り口が合致したんだろう、ってコトだ。
あの頃、決して声高に理屈っぽく主張することはなかったけども、マスターがやんわりマッタリ言おうとしてたのは、その後随分してから、ニブチンのおれがようやく思い至った「アジール」って考えに、多分とても近かったんぢゃないかと思ってる。そしてそれは社会的にポッと生み出されるだけでは儚くも脆く、もっともっと個々人の中に深く沈潜して醸成されないコトには世の中変わらんやん、ってなトコまで見据えてたような気がする。おれの穿ち過ぎだろうか。
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いつまで店はやってたんだろう?90年代初め頃、結婚する前後に顔出した時はフツーに営業してて、久しぶりに美味いカレーも食えた。だけど2003年の秋だったか、下宿の同窓会を行った際に店に立ち寄ったら、調度類は何も変わってなかったが、既にもぉカウンターやテーブルの上には様々な私物が乗っかてたし、テーブルにはZライトが挟まれたりもしてたんで、事実上廃業した後だったと思う。
さらに干支が一周以上回った2016年に悪友共が再び同じようにして京都に集まって店を訪ねたら、すっかり御齢を召されたマスターは元々小柄だったのがさらに小さくなって、何とも好々爺然とした様子で、静かに隠居生活を送られてる風だった。そして今回の訃報だ。
・・・・・・長い歳月は流れてしまった。馬齢を重ねたおれは「祭りの場」を生み出せてるんだろうか?
そらまぁ公私それぞれでおれなりにはやっとるわい!って言いたい」いささかの矜持はあるものの、こればっかりはもぉ他人様が評価することだろう。でも多分、マスターに話して聞かせたら、いつものあの太い声で「R**クン、エエなぁ、それ!おもろいやないか!」って言ってくれそうな気がしてる。
そうだ、ぶっちゃけイラっとしたりカチンと来るコトもあったろうに、本当にいつもニコニコと聞き上手の引き出し上手で、絶対に相手を否定しない包容力と、それでいていつの間にか自分の世界に巻き込み、誰もがアテられてしまう余人には真似しがたい影響力でもって、店に集う有象無象の連中の相手を優しくしてくださる・・・・・・文字通り「マスター」だったのだ、Tさんは。
・・・・・・Tさん、本当にお世話になり、ありがとうございました。 |