ワタシの愛した蒸気機関車 |
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かなり原型に近いC51-25。グイチになった標識灯がアクセントやな。
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http://www.lok.jp/より
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貴社の記者は汽車で帰社・・・・・・な~んて早口言葉も通用しない時代になっちゃったよね。そんなこんなで今回はシリーズの最終編、蒸気機関車がテーマです。ちなみに蒸気機関で動く客車は「蒸気動車」っちゅうてチャンと過去には存在したが、日本ではそれほどの広まりを見せることなく消滅してる。ココで敢えて取り上げることもないだろう。
まず蒸気機関車(以降「汽車」)に関して言うなら、おらぁその残滓の時代を僅かに共有したに過ぎない。勿論、物心ついた時分に杭全町交差点のヘンな形の歩道橋の上から父親に肩車されて見た関西本線の長大な貨物列車や、龍華操車場あるいは奈良駅の裏手で何両も煙を上げて停まってる姿、或いは夜、遠くに聞こえる汽笛の音なんかは今でもたしかに脳裏に焼き付いてる。だけど、それから数年してもちょっと自覚的に鉄道にハマるようになった時は既に、近畿圏から汽車は消えてしまってたのだった。ホント、その淘汰のペースは熾烈で極めて急ピッチだった。
そんなんでおれにとって汽車とはほぼ「予め喪われた存在」ってコトになる。だからリアルな体験による思い入れ、っちゅうよりは憧憬が大半を占めている。
さて、汽車には動輪の数やら後ろに炭水車(テンダ)を繋いでるかどうかによって、明確なタイプの違いがある。まずはその辺を軽くおさらいして、そいでもっておれの愛した蒸気機関車について駄文を連ねてみたい。
汽車はザックリ言うと、例外はいくつかあるものの比較的小型で炭水車が後ろにくっ付いてないタンク機と、くっ付いてる中~大型のテンダ機に大別される。そいでもって動輪(動力を伝える大きな車輪)の数でCとかDとか決まる。Cなら3つ、Dなら4つだ。国鉄型に関して言えばBとかEは特殊過ぎて殆どなくて、結局作られたのはどっちかっちゅうと旅客向けで動輪大きくしてスピード出したり、あるいは小型化しやすいC型と、動輪小さくてスピードは出しにくいけど力持ちなD型が大半を占めることになった。どんなメカニズムでそぉ決まるのかはもぉ面倒なんで書かないが、結論から言えばあんまし極端な形態の違いは国産蒸機の世界では生まれなかったと言える。
それは線路の強度とかカーブとか勾配とかのインフラと、求められる輸送性・速度、保守性・整備性といったいろんな相反する要素を勘案すると、あんましチャレンジングなことは出来なかった、っちゅう実務的事情に加え、ちょうど軍部が台頭し、急速に戦争に向かう時代背景の中でエンジニアとしてのエキセントリックな冒険がやりにくかったこと、また極めて日本人的な、とにかく堅牢・安定志向で進取を嫌い無難にまとめようとする保守性がヴァリエーションの広がりを阻害した感がある。色にしたって結局最後まで黒一色だったしね。コンサバやったんですわ。
形態についてマニアックなこと言いだすと一両に2台分のメカを積み込んだようなマレー式だとか、異様さではピカイチの阿里山で有名なシェイとか、ボトム/サイド/サドルタンクだとか・・・・・・ホンマもぉキリがない。世界を見渡すと一見全く蒸気機関車に見えない奇想天外でヘンテコリンなんまである。細かいハナシはWikipediaでも見てください。
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勿体付けてても仕方ないんでチャッチャと行こう。おれが最も好きな汽車はC51ってヤツだ。
いささか説明っぽくなるが、ちょっとその素性について初めに書いておくと、一言で言って「純国産の大型テンダ旅客機の嚆矢」ってコトになる。2-C-1って先輪が2個、動輪が3個、従輪が1個・・・・・・この軸配置の形式をまぁ俗に「パシフィック」っちゅうんだけど、その後の国産旅客機・・・・・・C53・54・55・57・59はみんなこれなんで、要は先駆けであり、その後の流れを決定付けた形式と言える。動輪の大きさの1,750mmってのもこっから始まった。もちょっとヲタクなことを言うと、この後さらなる性能向上が求められる中で53・59・61・62はさらに大型化し、最後の方ではさらにコマ増えて2-C-2のハドソンとなった。中型と呼ばれる54・55・57が直接的にはこのC51の後継になる。
デビュー当初は東海道本線の超特急「燕」を引いて、当時としてはチョー離れ業と言える東京~名古屋300kmをノンストップで走ったり、現在なんかとは較べモンにならんくらいに栄誉だったお召し機関車に選ばれたりもするような、いわば「スター的存在」だったけど、その分陥落も早くて、既に昭和10年代くらいからは都落ちしてたらしい。製造は大正の半ば過ぎから昭和のごく初めで300両近く作られており、実はこれは上にズラズラ挙げたパシフィック機の中ではいっちゃん多かったりする。大幹線から末期はかなりのローカル線まで、老朽化は進んでたけど使い勝手が良かったのか、四国を除く全国で走ってた。
つまりは一言で言って名車なんだろうけど、残念ながら末期の狂ったようなSLブーム到来前には全廃されちゃってるんで、かなりのオールドタイマーくらいしか現役での姿を実見した人はいないのではないだろうか。当然おれも見たことない。同時代的に追い掛けることのできた人が本当に羨ましい。
・・・・・・で、何でこれがそんなに好きなのか?っちゅうと、要は美しいからってコトになるんだが、それぢゃ全く説明にならないんでもちょっとチャンと整理して書くと、①古典性と近代性の均衡によるフォルムの優雅さ・繊細さと力強さの同居、②その後の雑多な改造によるちょっとばかしヤレたリアリティ・・・・・・ってコトになると思う。
まず①の古典性とは、例えば古風な鋳物の化粧煙突や二連の丸い砂箱、繊細なスポーク動輪、キャブ(運転室)下や前部デッキあるいは前面窓に見られる典雅な丸い造形、電気溶接以前のビッシリ並んだ武骨なリベット等が挙げられる。一方で近代性とはサイズ自体の巨大さと、大型動輪の並ぶ軸配置、性能を追求した結果の腰高なボイラーなんかによる明快さであって、平たくゆうと時代的にも丁度重なって来るんだが、装飾的なアール・ヌーヴォーと合理的なアール・デコの両方を巧みに折衷したような雰囲気が感じられるのだ・・・・・・設計者が意識してたかどうかは知らんけど。
ただC51、キャブから後ろがイマイチ宜しくないのも事実だろう。同時期のD50にも通じる、も一つ緊張感に欠けて大味なキャブの造形とか窓配置、特に後方から見た時のテンダの大雑把さは、もちょっと何とかならんかったんかな~?って気もするな。
でもって②、その後の雑多な改造については賛否両論あるトコだし、恐らく圧倒的に否定派の方が多かろう。そらまぁたしかにボックス動輪に履き替えるわ、煙室扉下のデッキ直線に改造するわ、キャブはC55以降のを流用して乗せ換えるわといった原形をあまりに崩すようなのは流石におれもちょっと如何なモノかとは思うけど、元々は実装されてなかった多種多様なデフや給水温め機の追加、空気ブレーキ新設に伴うジグザグの配管やらランボードの2段化、深い日除けの追加、一部に見られた貨車みたいな片持ちの連結解放テコ・・・・・・といった多彩さをおれは決して嫌いではない。マニアが大いに嫌うパイプ煙突への換装や火の粉防止装置(クルクルパー)さえも、まぁこれはこれで「アリ」だったのかな~?って思ってる。だって、いかにも「道具として使ってます」っちゅうカンジしますやん?
大体、いっちゃん最初に出来た時は連結器も今の形ぢゃない、ハリポタの汽車みたいな大昔の鎖式だったんだし、名前だって18900からC51に変わったくらいなんだし、改造上等なんぢゃなかろうか。
ちなみにC57のコトを「貴婦人」って愛称そのままに信じ込んでる人にはたいへん申し訳ないけど、名前通りのどこかクラシカルな優美さでは断然C51の方が上だったとおれは思ってる。大体、なんで「貴婦人」って呼ばれたか?そらたしかに全体のプロポーションもあるけど、それでゆうたらC51も54も55も57も殆ど大差ないのである。だってもあさってもフォルムを決定付ける軸配置と動輪直径、缶中心高が一緒なんだもん。
殊にC55と57に至っては、C55にあれこれ小改良重ねてるうちに、「もぉこれ、いっそ別形式にした方が良くね!?」ってなって生まれたんがそもそもC57なワケで、見た目的には動輪以外はほぼ一緒なんだし。
実はスタイルに加えて、前から見た時に煙室扉部分がデフやら給水温め機の奥にちょっと引っ込んだようになってるのと、煙室の縁が丸められてるのが、何となく襞襟にアタマが埋もれた貴族っぽかったから、ってコトはもぉ殆ど忘れられちゃってる。それに大体あんな繊細さに欠けるレンコンみたいな動輪で貴婦人もヘチャチャもホチョチョもあらへんやろ、っておらぁ思うんだけどねぇ・・・・・・。
そんな大好きなC51、終焉は昭和40年の秋、華々しいデビューからすれば実にパッとしない京都駅構内でのポイント通過試験だったと言われる。入れ替わるかのようにその前年には東海道新幹線が開業しており、「燕」以来の超特急である「ひかり」が走り始めてた時だ。あと5年も遅ければ、空前のSLブームで猫も杓子もカメラ持って追っ掛けてた時代となって、上へ下へのすんげぇ大騒ぎの一大引退イベントが打たれてただろうに、何とも寂しい幕切れではあった・・・・・・って、製作時の日本の工作精度水準や部材のクオリティ、その後の酷使からすれば良く持った方ではあるんだけどね。何だかんだで戦争を挟んで色んなモノが不足したことが逆に延命に繋がったのだ。
ちなみにデビュー当初の派手な活躍だけでなく、戦時中の出征の様子、戦後の有名な鉄道事件である松川事件、参宮線の六軒事故を始めとするいくつかの大事故、あるいは終戦直後の混乱期の買い出し列車等の画像を見てると、やたらとC51の写ってることが多い。まぁそれだけあまねくベンリに使われてた証だと思う。
東京オリンピック・新幹線開業によって「もはや戦後ではない」って言われた、時代の一大転換点あたりまでの「昭和」っちゅう時代の光と影、両方の部分に結果的には深く関わった汽車だった、ってコトなんだろう。
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その次は9600かなぁ~・・・・・・?これまた大正時代の生まれだ。有名なエピソードだからおれがここで敢えて繰り返すのも憚られるが、日本初の純国産にして、昭和51年の蒸気機関車全廃時にいっちゃん最後まで生き残ってた恐ろしく長命な汽車だった。約60年、通常の2倍くらい長く使われたことになる。
作られた数も多く約800両、四国以外の全国で使われた。いやいやいやいや、四国って蒸気機関車的にはちょと可哀想で、実は元から配備された汽車のヴァリエーションが極端に乏しい。8620、C11・12・58、あとホンの僅かにD51ってなトコぢゃなかろうか。そら無縁化も早かったハズだわ。戦後になって余剰になったC59が一時的に来たことがあるけど、何と機関区の風呂釜が壊れてそのボイラー代わりに据え置かれてた、っちゅう泣けるハナシさえある。
・・・・・・で9600。何でこれがそんなに好きなのか?っちゅうと、要はブサカワってコトになるんだが、それぢゃ全く説明にならないんでもちょっとチャンと整理して書くと・・・・・・などと文章コピペで使い回してスンマセン(笑)。ともあれ、端正の対極にあるような途轍もなく変なプロポーション、ってコトがまず第一に挙げられるだろう。
貨物用なんだし遅くてもエエからとにかく粘着力と牽引力やで!っちゅうて割り切った結果(・・・・・・って、そもそも大正の初めにあれこれ欲張って盛り込むだけの技術力がまだ日本にはなかった)、全体的に寸詰まりでボイラー太くて重心高いのに動輪は妙にちっちゃいっちゅう、なんとも胴長短足でズングリムックリな、どことなくカバを連想させるようなスタイルとなった。そ、ワークホースっちゅうよりは河の馬(笑)。ちなみに軸配置は1-Dで「コンソリデーション」って呼ばれ、当時の貨物用としては手堅いモノだ。
コマが小さけりゃ回してもあんまし進まんからスピード出ないのは当然で、何と全開で引っ張っても60km/hくらいしか出せない。原付か(笑)?いや、それ以上出したらヤバい。そもそも重心がメチャ高いから、たとえ下りでもあんましチョーシこいてスピード出すとコケるのだ(・・・・・・って、実際はそんなにスピード出そうにもピストンの振動で運転士が耐えられなかったろうが)。
急な登りだと人が歩くくらいにまでスピードは落ちたと言われており、ウソかマコトか飛び降りても余裕で追い付けたらしい。実際、今も多数残る動画なんかで見ると、登りが異様なくらいに遅い。重連でもかなり遅い。「這うようにして上がる」って表現が似合う。
しかしその分、粘り強くて力持ちだった。やや小柄なガタイの割にジンワリと重たい貨物を押したり引いたりするのは大の得意だし、鈍足な分、逆に超低速域でのコントロールがとてもやりやすかったと言われてる。昔読み耽ってた鉄道の本で、おれもそのような元・機関士の証言をいくつも読んだから間違いなかろう。
結果的にはこの割り切りが功を奏して、本線仕業からは離れても入替用として重宝されたことが長寿の最大の理由である。環境の変化に適応できる者が生き残れた、っちゅうこっちゃね。戦後、無縁化の流れの中で後継となるべくディーゼルのDD13が出て来ても、こっちの方が扱いやすかったとまで言われる・・・・・・まぁ、労組が猖獗を極めてた国鉄の現場だから、ちょっとでも合理化に繋がるようなのはとにかく反対だったってのも大きいんだろうけどね。
第二はC51同様のその後の雑多極まりない改造の面白さだろう。いやもぉその無秩序さはC51の遥か上を行く。デフなしデフあり、デフの形、キャブ下の腐蝕対応による切り落とし、ランボードの段差、空気タンクや給水温め機の位置、配管の取り回し、パイプ煙突への改造、後方視界確保用のテンダ切り落とし、異様なトラ塗装、郡山式と呼ばれる奇天烈な形の集煙装置、倶知安機関区のみで見られたちょっと違法改造な2灯化・・・・・・etcetc。「二つとして同じ形がない」って喩えはホンマ、この9600に良くあてはまる。まぁ「団結!」とか「要求貫徹!」なんて白ペンキで殴り書きされたのは救いようがないけどさ(笑)。
もちろん各部の意匠の古典性なんかは言うまでもない。やはり作られた年代が年代だけに、C51がそれでも持ってた近代的な明快さとは異なる、さらに古い明治時代の雰囲気が僅かながらも感じられる。
おれの育った関西では宮津線が本線を走る9600の見られる最後の路線だった。しかし、本格的に鉄道にハマッた頃にはタッチの差で廃止になってたと思う。調べてみるとその数年前、まだ杭全町にいた頃、冒頭で触れた龍華操車場には入替機では結構な数が残ってたハズなんで、何両も煙を上げてたどれかは9600だったんだろう。でも、もう少しも覚えてはいない。とても残念だ。
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後はどうだろ?8620はかなり、C11・12は自分でレイアウト拵えたら必須だろうがまぁソコソコってなカンジかな?逆にC62なんかまったく興味が湧かない。マッチョなだけで何かブサイクだし可愛さがない。ミニD51なC58もそんな好きになれないな。マルチパーパスで何でもこなしたけど、形態的に没個性すぎて今一歩の面白みに欠ける・・・・・・そんなトコだろうか。
でもまぁ冒頭に書いた通りで、国鉄型の汽車にそれほどラジカルで極端な形態上の差異はなかった。C53以外は頑なに二気筒のワルシャート式を守ったし、結局黒一色だし、当たり前だけど蒸気と煤煙をドワドワ吹き出すし、走らせる側からするとどれに乗ろうがややこしい調整が必要だし、前方は見にくいし、石炭くべるのはしんどい仕事だった・・・・・・カンケーないか。
そんなんだから興味のない人には形式っちゅうたかてサッパリ区別が付かないだろう。せいぜいB20とE10が極端さでちょと目立つくらいだ。こうしてエラそうに書いたおれだって、梅小路とかでズラッと並んでんの見ても、どれがどれだかすぐには区別付かへんもん。
蒸気機関車の熱効率ってメチャクチャに悪い。発熱エネルギーの10%くらいしか運動に回せず、そこにさらに機械損失なんかも加わって実際はせいぜい5%とかもぉ笑えるレベルらしい。20回シャベルで石炭放り込んで、走るのに使われるのは1回分、ってコトだ(笑)。さらにもっとナンギなコトには、工作精度があまりに高すぎると蒸気機関は動かない。ある程度の誤差による「ガタ」とか「アソビ」がどしたって必要なんだそうな。
現代の動力機関にはないそんな奇妙な人間臭さには不思議な魅力があるものの(・・・・・・だからこそスチームパンクだって流行ったのだ)、つまりかなり根本のトコから、もぉ今の時代にそぐわない仕組みであることは間違いない。もし今後可能性があるとすれば、火力発電所のようにタービンで発電機回してそれでモーター動かすような方式なら考えられなくもないが、まぁ多分むつかしいだろうし、そもそも論でそれは電気機関車になってしまう・・・・・・いやこれ、ちょっと面白そうかも(笑)。
蒸気機関車はもうとっくに過去の遺物として、「汽車」あるいは「SL」ってな大雑把な括りで抽象化された存在となってるんだと思う。そして恐らく殆どの人が気にも掛けないであろうそんな汽車の、個々の形態の僅かな差異について、好きだの嫌いだの、美しいだの美しくないだのと語れるヲタな世代自体、おれたちあたりでギリギリ最後なのかも知れない。 |

キャブ下の穴開けとかあるものの、ワリと原型に近い79652。
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https://drfc-ob.com/より
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2021.08.13 |
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