Train People |
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ここまで沢山乗ってるのは見たことないなぁ~・・・・・・。
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http://vivit.blog.jp/より
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ブログに書いたんだけど、先日、久しぶりに電車の中で新聞をタテに細長く折って読む人、っちゅうのを見掛けた。昔はこれ、車内で隣の人に迷惑掛けないための当たり前のマナーの一つで、立ってる人も座ってる人もみんなそうして几帳面に元々二つ折りの新聞を四つ、時には八つに折って読んでた。それでも邪魔だなんだって、夜の電車なんかではよくケンカしてるのを見掛けたもんだ。たしかにそこまで必死になって新聞読まんでもエエやろ?ってケースもあったように思う。
新聞だけではなくなかなかそのオッチャン、昭和の香りを全身に纏ってるような人で、上下同じ生地のスーツではなく、ダサめのスラックス(←パンツではなくあくまでスラックス、笑)にこれまたダサめのジャケットっちゅういでたちに加え、これもぉ最高にポイント高いと思うんだけど、「ふりかけ」みたいな増毛までしてたのだった。
ヅラや植毛が発達して、パッと見では全く分からないくらいに見栄えが向上した現代、ちょっと説明がいるかも知れない。スプレー式とか文字通りふりかけ式とかあるんだけど、要は硬化剤を含んだ細かい毛みたいなものを頭髪に振り掛けて、固まってしまう前にシャシャシャ~ッて手早く櫛で撫で付けるとあ~ら不思議!黒々とした地毛に見えるぢゃあ~りま温泉!驚くほど自然な生え際の仕上がり!・・・・・・な~んて白々しく言ってるのは宣伝広告だけ。誰がどぉ見てもメチャクチャ不自然な、まるで地回りの三文役者の被る髷みたいな奇妙な色艶と塊感・重量感を持った不思議なアタマに仕上がる奇天烈な代物だ。調べてみると今でも結構売られてるんで、それなりに愛好者(!?)は多いんだろう。
申し訳ないがおらぁ、そのあまりの出来上がりっぷりに笑い堪えるだけで必死だった。ひょっとしたら芸風として追及してるのかも知れない。
気付けば、駅やら電車の中で見掛ける人々や事物も随分変わって来ている。告白するならばちょっとこの頃ダウナー気味で、書く内容も暗くてねじり込んでくようなトーンになってたんで、今回は特に大都会の駅を中心に気分転換で軽めに流してみたいと思う。
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まず変わったなぁ~、って思うのはタバコの吸殻だ。昔は駅のホーム下の線路ってのは、要は巨大な灰皿だった(笑)。乗降客の多い都会の駅は、線路上が吸殻だらけなのはフツーだった。当然ホームの至る所にもポイ捨ての吸殻が落ちてる。柱だのベンチの近くに廃皿はあるんだけど、喫煙人口が多かった時代であるから掃除が追い付かず、要するに至る所吸殻だらけだった。ホンの20何年前までのハナシである。据えつけられた灰皿が燻って、バルサン状態で濛々と煙を噴き上げてるのもしばしば見かけた。
しかし文字通り「捨てる神あれば拾う神あり」で、大阪で言えば近くにあいりん地区を要する天王寺や新今宮では、「シケモク拾い」のレゲェのおっさんを見掛けたりもした。まぁ大体都会の駅では、そうした浮浪者が全部ではないにせよそれなりに回収してくれてて、一定の受給サイクルは回ってたのだった。
ホームに落ちてるっちゃぁ、夜更けてからのゲロ・・・・・・続に「お好み焼き」、関東だとやっぱし「もんじゃ焼」っちゅうてたんかな?(笑)も、現代とは比べ物にならないくらいに良く見掛けた。遅い時間の電車の中でドア横とかが吐瀉物まみれになってることも多かった・・・・・・あ、もちろん線路の上も。ホント当時の鉄道員の苦労は大変だったろうなぁ~、って思う。だってイヤですやん。
・・・・・・って、列車のトイレだって垂れ流しだった時代である。便器の穴から下を見るとそのまま線路が見えてたんだから。俗に「黄害」なんて呼ばれて、汽車の吐く煙の煤と共に沿線住民にとっては洗濯物も干せない困った状況があったワケだ。ともあれそんなんで、トイレのドアには「停車中には使用しないでください」なんて注意書きが貼られてあったりもした。それでも出物腫物所かまわず、生理現象には逆らえない。あれは阪和線の堺市駅だったっけ、天王寺から快速に乗って、三国ヶ丘は各停しか止まらないんで乗り換えのために降りて、それで快速が発車してった後に線路に落ちてるブツを見たのは・・・・・・(笑)。
尾籠な話はともかく、あとサラリーマンの提げる鞄も随分様変わりしたと思う。昭和の時代は今みたくA3書類くらいまでがフツーに入るバッグを手に持つような人って、要するに一部のホワイトカラーであって、多くの勤め人はタテ型でせいぜいA4くらいの大きさの、素材的にはシブい色の合皮で出来たショルダーを掛けていた。そこには弁当、週刊誌、扇子、折り畳み傘、さらに人によってはポケットラジオや仁丹なんかが丁度ピッタシくらいに収まるのだ・・・・・・あ、あと畳んだ新聞もね(笑)。思えばそれなりに厚みはあったものの、全体としては随分コンパクトで控え目なサイズだったように思う。
現在、一般的にビジネスバッグとして売られる大半は「ブリーフケース・バッグ」ってモンらしい。学生カバンも似たようなモンだろう。さらに大きくジャバラになってて厚みがあり、フタが覆い被さってバックルで留めるような、まるで昔のお医者さんが持ってたようなのは「ダレス・バッグ」って名前だという。そんなん提げてるのはホント、ごく一部の人だったように思う。
ちなみにおらぁ肩に掛けたい方なんで、今はビジネストートっちゅうのを専ら愛用してる。街角ウォッチングしてると、近年は持ち運ぶ荷物の増加に伴ってリュックも増えて来ており、重量物でも持ちやすく、また両手が空いて自由になるのは利点な気がする。しかしどれだけ通気性を良くしたってやっぱし背中は蒸れるんで、サラリーマン生活の終わりまでおれはこのままで行きたいと思ってる。
風呂敷なんてのも見掛けなくなった。昔は大中小、いろんなサイズの風呂敷包みを持った人がいた。そして、みんな律義に網棚に上げてたもんだ。多分、膝の上ではグニャグニャするし、床に置いたら汚れるしジャマになるしで、よほど大事なモノでない限りは上げてたんだと思う。逆にホント今は網棚に荷物載せる人が少なくなったと思う。網棚はガラガラだ。網棚専用ベビーキャリーでも作れば、子供帯同で仕事に行けて良いのに、って思うで(笑)。
不思議なことに大きな風呂敷は判で捺したようにくすんだ萌黄色だった。結婚式の引き出物なんかも今はすっかり紙バッグになったけど、昔は艶々した純白の風呂敷に包まれており、留袖だとか礼服だとか着込んだオッサンオバハンが大事そうに膝に抱えながら載ってる姿は良く見掛けた。大体、少子化の進んだ現代とは比べ物にならないくらい若者が多く、その分結婚式も多かった時代だ。今は風呂敷に包まれるのがデフォなモノって遺骨くらいぢゃなかろうか?(笑)。
ところで近年、レジ袋が世の中から排除され、エコバッグが急速に主流になった。ところがコイツ畳んでも意外に嵩張るし、そもそも畳みにくいし、そのワリに容量は大きくなかったりする。容量が調節できて畳めばハンカチサイズになる風呂敷は復権しても良いのではなかろうか?だからおらぁ、一枚カバンに忍ばせてます。
上にもちょっと書いたが、ケンカは良く見掛けた。今でもたまに駅構内で揉めて突き落としたとかなんとか新聞に出てることあるけど、全体としてはみんな大人しく行儀よくなった方だと思う。コロナで特殊な状況を差っ引いても、グデングデンの酔っ払いって随分減ってる。それにサラリーマンの残業は減り、休日は増え、電車の環境も随分快適になった。働く以外は酒くらいしか憂さの晴らしようのなかった昭和世代からは変わっちゃってるのだ。かつてのように殺人的に混んでるわ、クーラーは効いてないわっぢゃぁ~、そらもぉイライラも募りますわな。
まぁ大抵は威勢が良い割には長閑なケンカばっかしだったけど、それでも凄惨なのを見たことがある。中学生の頃だった。通わされてたモーレツな進学塾の帰りは大体いつも終電近く、酔っぱらいが特に増える時間帯ってのももちろんあったろう。あぁ、想い出した。通常は岸ノ里(現在の岸里玉出)と汐見橋をトコトコ折り返してるだけの2両編成が、夜更けに当時車庫があった堺東まで直通するのだ。先はまだ長いのに、この小さな二両編成に当たるのはちょっとした愉しみにさえなってた。
堺東で降りると、一人の酔っ払いが帰宅が遅くなったサラリーマンと思しきスーツ姿のおっさんに絡んでる。おっさんは迷惑そうではあったが穏便に済ませたかったらしく、適当になだめつつあしらってた。しかしながらこうした対応が往々にして相手をより激昂させるのはままあるコトで、酔っ払いは一層ヒートアップして「何いきっとんぢゃ!?コラ!」とか怒鳴ったりしてる。
そんな長い時間ではなかった。サラリーマンはもぉ付き合っとれんわという風に立ち上がり、跨線橋の階段に向かう。「待たんけ!コラ!ワレ!」とか言って追いかけようとする酔っ払い・・・・・・多分、階段の2~3段目だった。前に回り込んで殴りかかった酔っ払いに見事なまでの足払いをキメたのである。
ゴィンッってな鈍い音が響き、顔面から俯せで落ちた酔っ払いの周囲に血が拡がってくのが見えた。リーマンは階段を上がってそのまま去ってった。つまり厳密にはケンカっちゅうより絡んだら逆襲されて秒殺、ってこってすな。ダッさ!丁度、次の電車がやって来たのと、これ以上ココに居たら面倒なコトになる、って本能的に感じたおれもそのまま電車に乗って立ち去ったのだった。まぁ特に事件として報じられることもなかったし、多分あの酔っ払いは前歯を喪くしたくらいで済んだんだろう・・・・・・十分、大ケガだな。。
東京に来た頃くらいまではたまに見かけてたのに行商人がいる。朝早くの電車で一体どこの駅から乗って来たのか、大きなアルミの容器みたいなんをカートに括り付けた婆さんを見ることがあった。かなりの重量があるように見える。漁港で上がった獲れたての魚を売りに行く、所謂「カンカン」って呼ばれる行商人だ。戦後復興期から高度成長期にかけて、都市人口の爆発的増大に生鮮品の物流が追い付かなかった頃は恐ろしく沢山いたらしく、ミネソタにだって卵売りがいたくらいだ(笑)。そぉいや有名な近鉄の「カンカン列車」も昨年の春に廃止になったそうで、物流網が高度に発達した今の時代、全国的に見るとほぼ絶滅危惧種なんだろう。
子供の頃に乗ってた電車は南海高野線が殆どだったんで、魚を売り歩くような人は乗ってなかったけど、たまに大きな竹籠に野菜類を大量に詰め込んだ婆さんなんかはいた。ひょっとしたら単価的に旨味のある山野草や薬草類だったのかも知れない。逆に山の方に向かう電車でも行商人らしき姿を見掛けることがあった。こちらは必ずといって良いほど四角い箱を何段か巨大風呂敷で包んだような荷物を持ってたのと、何故か爺さんであることが多かった。中身は何だったんだろう?越中富山の薬売りか?(笑)。
実のところ、行商人がトボトボとアテもなく売り歩くなんてコトは殆どないらしい。チャンといつも買ってくれる固定客を掴んでて、そぉいったトコへの訪問販売を中心にそっから紹介してもらったりして手堅くやるんだそうな。そらそやわな。販売効率の追求、っちゅうこっちゃね。特に都心への魚の行商は個人ではなくお店、それもけっこうそれなりのお店を顧客に掴んでたようである・・・・・・っちゅうか、そぉいった人がしぶとく最後まで生き残れた。店としては新鮮でマニアックな魚介類が安く手に入り、売る側は地元では値が付かないようなのでも珍しがって良い値段で買ってくれる・・・・・・今風に言えば「Win-Winの関係」が出来てたんだろう。
終点の駅の櫛型ホームの両端で、ラックに入って何十枚もズラッと置かれてた琺瑯の表示板も忘れがたい。折り返す列車の種別が変わる度に付け替えるワケだ。運転手なのか車掌なのか、大股でヨイショッってなカンジで手すりにつかまって交換するのが曲芸っぽかった。物好きなマニアには面白いかも知れないけど、働く人にとってはキチンとダイヤをチェックしないといけないし、重いし、手や足を滑らせたら落っこちるし、意外に危険で面倒な作業だったろう。
鉄道会社によってそのデザインはまちまちだったが、例えば南海の急行なら大きく〇の中に赤く「急」とか、遠くから見ても分かるように単純化された、レトロモダンな意匠としての明快さが何となく好きだった。車体の横の細長い行き先表示板(「サボ」と呼ぶ)、ドアの上の号車番号・・・・・・どれもみんな琺瑯のプレートだったが、その内どれも方向幕に取って代わられ、さらには電光掲示板に取って代わられてった。
ともあれ今時あんなの大量に並べてたら、たちまち鉄ヲタ連中にパクられてしまうだろうな(笑)。
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現代の都会の駅や電車は実に快適だ。「駅ナカ」とかゆうてショッピングまで完結できるようなトコも増えた。かつてのたしかに一方では華やかで活気や希望、期待に満ち溢れつつ、もう一方では薄暗くて不潔で殺風景で疲弊したような雰囲気はほとんど残ってない。それはとても良いことなんだろう。
ただ、禍福はあざなえる縄の如し・・・・・・ぢゃないけど、人間である以上、哀歓どっちもある。その「哀」だけを削り落とされたような現代のそれらが何だかとても薄っぺらくも白々しくて詰まらなく思えてしまうのは、それはそれで事実だろう。 |
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2021.05.22 |
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