天神橋筋商店街界隈の記憶 |

元の「倶蘇酡麗」があった7丁目のトコは、再開発で更地になってしまってた。
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Google Street Viewからのキャプチャ
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日本一長いアーケードの商店街として有名な天神橋筋商店街は、会社が近かったのもあってリーマンになってからの数年間、しょっちゅう出掛けてた。日参、ってほどではないけれど平日の夜、どうだろ週に1~2回はコンスタントに繰り出してメシ食ったり、呑んだりしてたように思う。
大阪以外では知らない人も多いだろうから若干の説明をすると、天神橋筋商店街とは多くのクルマが行き交う天神橋筋の1本東側を北は6丁目から南は1丁目、土佐堀川と大川が分かれるあたりまで延々と続く、全てアーケードの屋根に覆われた商店街のコトだ。数字とは逆で栄えてるのは4丁目から6丁目あたりで、南に下るほど店は疎らになり人の姿も減って来る。地図を見ていただければお分かりかと思うが、実はこの商店街の細い通りこそが本来の「天神橋筋」であって、現在天神橋筋と呼ばれる広い通りは近代以降の道路整備によって作られたモノだったりする。
名前の由来は申し上げるまでもなく、日本三大祭の一つである「天神さん」で有名な大阪天満宮に因む。2丁目の東に境内があるのと、卸売市場の前身の「青物市場」ってのが江戸時代からあって、それで門前町兼商店街として発展したんだろう・・・・・・ってエラそうに書いたけど、実際4丁目より南はあんまし歩いたことがない。
天神橋筋6丁目・・・・・・通称「天六」は意外に交通の要衝で、今は相互乗り入れで乗り換えが殆どなくなって存在感が薄れてしまったものの、阪急線と大阪地下鉄はここで接続してるし、それ以前には阪神電車のとてもユーモラスな形した路面電車が走る線の終点があったりもした。今も地図で見ると、変則五差路になった天六交差点の北西あたりりが不自然に広いコトが分かるかと思うが、これが路面電車の終点の駅の跡なのである。
ただ足繁く通うようになるまでおれ的には、「天六=怖い」ってイメージがちょとあった。いや、別に治安が悪かったワケではない。大阪ではまぁ平均的な方だろう(笑)。怖いっちゅうのはおれが物心ついた時分、大阪の災害史に残る「天六ガス爆発事故」ってのがあって、それが記憶に深く刻まれてるからだ。本当に大事故だった。かいつまんで言うと、地下鉄の延伸工事中に起きたガス爆発で通り全体を覆ってた無数の鉄板が数百メートルに亘って吹っ飛んで、沢山の人が亡くなったのだ。詳しくはWikiでも読んでいただきたい。たしか丁度、我が家が富田林に引っ越した時期と重なる。外回りの営業やってた父親が昼間偶然そこをクルマで通ってたらしく、帰宅してからひどく興奮して「エラいことなったなぁ~!危なかったなぁ~!」ってしきりに繰り返してたのを覚えている。
話は逸れるが、その数年後には悲惨極まりない千日デパート火災なんてのも起きたりして、何だか大阪は万博で沸き返る一方で妙な不穏さを感じる時代でもあった。
もちろんおれが通い始めた頃には事故を物語るものなんて既に何も残ってはいなかったが、まぁ当時の天神橋筋商店街の印象を一言で言うならば、「終わりかけた場末の商店街にちょっと面白い飲食店が点在するようなトコ」だったと言える。
今回は大分薄れかけた記憶を手繰り寄せながら、良く通ってた店をいくつか取り上げてみたい。勿論もぉ四半世紀以上も前のことゆえ、残ってない店もあれば、様変わりしつつも今なお頑張ってる店もあったりするのでそこは軽い読み物ってコトでご了承いただければと思う。
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まずは何といっても「倶蘇酡麗」だ。「くそったれ」って読む・・・・・・暴走族かよ?(笑)。ここはもぉ何べん行ったか分からない。最初は会社の先輩に連れられてだった。実は今もこの店、天五中通商店街ちゅうて、天神橋筋から直角に大阪梅田方向に向かうアーケードの西の端、中崎町出口あたりにあって盛業中なのだが、こっちは元々は支店だった。本来の「倶蘇酡麗」は天六交差点の北東、7丁目の裏通りを入った寂しいトコにあった10人も入れば一杯の小さな小汚い店で、隣はたしか「十八番」ってこれまた小さな中華料理屋だったかな?
何が面白いって、店の名前はこの通りヤンキー丸出しでたいへん威勢が良いのに、実際の店主は小柄でちょっと気弱そうで、店に入ってから出るまでに「いらっしゃませ、スンマセン」・「お待たせしました、スンマセン」「ありがとうございました、スンマセン」と、死ぬ時も頭下げて死んでくんぢゃねぇのか?って思うくらいに「スンマセン」を連発人だったのだ。だから仲間内では「倶蘇酡麗」ではなく「スンマセン」で通ってた(笑)。
商うものはスープスパゲティである。一応ミートソースやナポリタン、明太子なんかもメニューの隅っこに載ってはいたが、殆ど頼む客なんていない。トマト・クリーム・和風いずれかのベースとなる味、複数選択も可能なベーコン・ツナ・あさり・海老の具材、後は普通盛りか大盛りかを指定するというまるでラーメン屋のようなオーダー方法だった。とにかく安くて美味くてボリュームあって、出来るまでの間にフルーツワインのヤーゴを啜りながら、狭い厨房の中、最早誰に言ってるのか分からない「スンマセン・スンマセン」を合いの手のようにしながら見事な手サバキで拵えられてくスパゲッティを見るのは、何度行っても見飽きなかった。
「実るほど首を垂れる稲穂かな」を地で行って、スンマセンのオッチャン、開店資金をシッカリ蓄えたのか、その内その天六店は畳んで支店は他人に任せ、空中庭園のある梅田スカイビルに本格的なイタリアンの店を出したって聞いた。ただもうその頃のおれは所帯持って、子供は小さいわ、人生最悪の貧困期の真っ最中だわでとても外食どころではなく、結局行けず仕舞いに終わってしまった。スンマセン。
も一つ残念なのはそうして功成り名を遂げて(?)折角開いた新店だったのに、オッチャンがカラダ壊すかなんかでその後ワリとすぐに閉店しちゃったってコトだ。だからあの「スンマセン」はもう聞けない。
今もなおある店では「天五屋」も面白かった。現在はすっかり営業スタイルが変わってしまったが、当時はJR天満の駅近くに広がってた卸売市場の人を相手にする鰻専門店だったので、何と開店が夜中の12時なのである。外野のリーマンかつ若造なおれなんかが行っちゃいけない雰囲気があった。
扱うのはうな丼とう巻き、肝吸い、うざくといった鰻関連のモノに加え、後は鯉の洗いとか若干の川魚系の一品があったかな?・・・・・・で、何が面白いって、うな丼の値段が100円ピッチになってるのである。その時点でいっちゃん安かったのは牛丼より安い320円だったと思うが、これには蒲焼が2切れ載ってる。ただし切手サイズ!めっちゃ小さい(笑)。タレだけでご飯食うようなモンだ。それが100円上がると切手3枚になる。もう100円上がると2枚に戻る代わりに一切れがちょっと大きくなって立派な記念切手くらいとなり・・・・・・ってな感じでだんだん鰻がサイズアップして行くのだ。マックスは二千円くらいまでだったかな?
何のこっちゃない、マトモなサイズの蒲焼にすると実はその辺の店と値段的には大差なくなってしまうのである。ただ、この異様にチマチマした料金設定がおかしくて、話のネタで知らないヤツをよく連れてってた。
今は卸売市場は統合されてモダンなビルになり、天五屋の開店時間もワリとフツーの時間となり、最初に書いた通りで業態も転身を図って鰻はメニューの隅っこに追いやられ、生簀・海鮮料理主体の店となってしまったようだ。しかし、それでも変わらず同じ場所で営業を続けてるというのは何だかとても嬉しい。
そうそう、天五中通の「梯梧家」って沖縄料理屋も今なお現役で頑張ってる一軒だ。ここにも良く行った。特に変わった店でも何でもない。王道の沖縄料理を肴の中心に据えてるっちゅうだけで、どちらかと言えば時代に左右されず地道にやってるオッサン向けのシブい佇まいの大衆飲み屋で、値段もケッコー安かった。ただ、当時はまだ今みたいに沖縄料理そのものがあまり一般化しておらず、それを全面に打ち出してるのは珍しい方だったと言える。まぁかつて大阪は琉球からの移住者が多かったっちゅうから、昔からの固定客が多かったのではなかろうか。
ラフテーやミミガー、チャンプル等々の定番をつつきながら、銘柄はもう忘れてしまったけど泡盛をチビチビやる・・・・・・な~んて生意気なコトを覚えたのはこの店でだった。そんな古酒とか高級品ではない。フツーの泡盛。ぶっちゃけいささかクセ強いし、迂闊に量を過ごすと泥酔するし、泡盛はナカナカむつかしい酒だと思うが、そんなのをちょっと背伸びして呑んでる感じが良かったっけ。
その梯梧家の通り挟んで斜め向かいにあったメキシコ居酒屋も忘れがたい。店の名前は忘れちゃったな。タコスだとかチョリソーだとか何だか良く分からんサボテンといったものが比較的良心的な値段でメニューにあって、それを店の名物のシャキッと辛口なフローズンマルガリータで流し込むと、行ったことはないけど何となく「これがメキシコっちゅうもんか~」って気分になれた。アミーゴ!(笑)
ただこのお店、残念ながら通い始めて常連になりかけた頃にミナミの方に移転してしまった。だからその後は知らない。あくまで想像なんだけど、この天神橋筋商店街のあたりはキタやミナミよりテナント料が安くて、ここからスタートしてステップアップして行く、なんて流れが飲食業界にはあるのかも知れない。
ヨメもこの店は随分お気に入りだったらしく、たまに「あのフローズンマルガリータは美味しかったよね~」、なんて話すコトがある。
無くなってしまった店では「菊水」って名前だったかな?ちょと自信ないけど、JR天満駅近くのお好み焼き屋がすごく面白かった。ホント店内は大阪の昔ながらのお好み焼き屋で、真ん中が鉄板になったテーブルが並び、油煙で燻された壁に短冊で「ぶた玉」「イカ玉」といったお品書きが貼られ、年季の入った鉄板は完全に被膜が出来上がって鈍く黒光りしている。ウリは「五味焼」って要するにミックス玉で、大抵のお客はこれを頼んでたように思う。それにしても「ごみやき」とはバッドテイストなシャレが効いてるよね。
・・・・・・って、それだけならまぁどこにでもあるちょっと古びたお店なんだけど、この店が変わってたのは、「お客に一切お好み焼きを触らせない」ってコトだった。好きなように焼くからお好み焼きなのに、目の前に鉄板があるのに、ジュージューゆうてんのに、客がヘタに触ると叱られる。何たるジレンマ!(笑)。
叱るのはちょっと足の悪い店主のジーサンで、彼がビッコ引きながらテーブルの間を忙しなく焼いて回る姿そのものが店の看板名物となってた気がする。特に付きっ切りで見るワケでもないし、一回か二回ひっくり返すだけなんだけど、ウソかホントか「ちょ、ちょと待ってや、こっから仕上げやさかいにな、な」とか、言われたって何が仕上げかさっぱり分からない(笑)・・・・・・でもたしかにここのお好み焼きは、見た目も中身も極めてオーソドックスなのに本当に美味しかった。
残念ながらこの名物ジーサンも寄る年波には勝てなかったようで、通い始めて何年くらいした頃だろう、結局店を畳んでしまったのだった。大人気でいつも満員のお店だったから、あの美味いお好み焼きの味を継ごうというガッツのある有志が現れたら良かったのになぁ~、って思う。
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想い出していくと、路地の奥の狭い焼肉屋とか明石焼きのシブい店とか、大衆寿司屋とか、煌々と沢山の電球がぶら下がるお菓子屋とか、他にも色んな光景が次々と甦って来る。一度だけ入ったような店はもぉ想い出そうにも忘れてしまった。
今は卸売市場の跡地が当時の猥雑で怪しい雰囲気をそのままに残した飲み屋街となり、「裏天満」などと呼ばれてちょっと尖った若者が夜な夜な集まる街に生まれ変わった。メインストリートの商店街もインバウンドだなんだと、キタやミナミといった中心部の繁華街のおこぼれにあずかれたみたいで、どぎつい看板の目立つチェーン系の安っぽい飲み屋ばっかし増えてしまったのが少し残念とは申せ、陰気なシャッター街になるよりは千倍マシだろう。まずまず良いことだ。
実は東京に越して来てからも、出張の折とかに夜、何度かあの辺に繰り出したことがある。だから伝聞なんかではなく、チャンとこの目で街の変貌は見ているのだ。
・・・・・・それでも、だ。
おれの中でのあの界隈の風景はやはり、どことなくうらぶれた感じと昭和30~40年代の懐かしい雰囲気がない交ぜになった通りを酔眼で彷徨うことで、不本意ながら始まってしまった冴えないーマン生活、それもかなり激務な日々の鬱屈した気分の僅かな息抜きにしてた時代で止まったままだ。 |

梯梧家。昔と変わらないままなのはなんだかすごく嬉しい。
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公式サイトhttp://www.deigoya.com/より
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2020.04.11 |
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